2017年9月17日日曜日

第78 濱尾新の大臣就任と薬学会

「薬学会会員で最初に国務大臣になったのは誰か?」
「えっ、国会議員ならいそうだけど、国務大臣なんて出たの?」
 
今、国務大臣は、能力関係なしに、たいてい国会議員の中で当選回数の多い人から選ばれる。地元に道路を作ってくれた人の子供がなりやすい。

ところが昔の大臣は歴史の有名人が多い。
維新成って国務大臣に相当する職を担ったのは、幕府を倒した西軍の有力者たち数人である。
「わしは外交を担当しよう。おぬしは内政を頼む。財務はやつに任せたらどうじゃ」
などと決まったのではなかろうか。

内閣制度ができて国が固まっても、藩閥で決まるという傾向は続き、
例えば第二次松方内閣 
1896年(明治29年)9月18日- 1898年(明治31年)1月12日まで
の閣僚は、

職名   氏名 出身藩

総理  6  松方正義  薩摩
外務  9  西園寺公望  公家
   10  大隈重信  肥前
   11  西徳二郎  薩摩
内務 14 板垣退助 土佐
 15 樺山資紀 薩摩
大蔵 8 松方正義 薩摩
陸軍 7 大山巌 薩摩
 8 高島鞆之助 薩摩
海軍 8 西郷従道 薩摩
司法 9 芳川顕正 徳島
  10 清浦奎吾 肥後
文部 11 西園寺公望 公家
  12 蜂須賀茂韶 徳島
 13 濱尾新 豊岡
農商務 13 榎本武揚 幕臣
 14 大隈重信 肥前
15 山田信道 肥後
逓信 9 白根專一 長州
 10 野村靖 長州
拓殖務 2 高島鞆之助 薩摩
班列 - 黒田清隆 薩摩

といったメンバーであった。
伊藤、山縣らはこの背後にいて、彼らも前後に大臣になっている。

徳島藩最後の藩主だった蜂須賀茂韶のあとを次いで、明治30年11月文部大臣になったのは、濱尾新(はまおあらた)。
異色である。
維新の豪傑、元勲ではなく、初めての学士会会員の国務大臣であった。
1849年生まれ、慶応義塾、大学南校に学び、文部省、東大などに出仕。
1893年第3代帝大総長。
現在東大の安田講堂と三四郎池の間、椅子に座った巨大な銅像がある。

さて、11月27日、学士会は小石川植物園で濱尾大臣就任の祝宴を開いた。
本郷、小石川だけでなく東京中から徒歩で、人力車で集まったのだろう。
薬学雑誌 1897年度 p1227
にその様子がある。

学士会は、博士学士等の帝国大学に関係ある学友より組織せられ、学者あり軍人あり官吏あり、その他国会議員、弁護士、実業家、医師、技師等、各般の高等なる職業に従事せる者を網羅する。
全会員ほとんど三千人の多きに達し、最初の卒業生はようやく齢50近くになりつつあった。

この祝賀会には、薬学の長井、丹波、田原、齋藤が出席している。
そして、なぜこういう記事が薬学雑誌にあるか? 

濱尾は会員数460人の時代からずっと薬学会会員だったのである。
学会での活動は不明だが、薬誌1897年度p207、1898年度p208(会費領収広告)には、半年分の会費1円をきちんと払っている濱尾の名がある。
名簿を全部調べたところ、
1889年10-12月、付録名簿なし
1890,11月 浜尾なし
1891、11月 浜尾なし
1892、11月 会員464人中に浜尾の名あり。
1892年に入会したのかな?

帝大の前身、大学南校や開成学校まで遡っても、ようやく最初の卒業生が50歳になったのが明治30年ということだ。
彼の墓は染井霊園にある。

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