「えっ、国会議員ならいそうだけど、国務大臣なんて出たの?」
今、国務大臣は、能力関係なしに、たいてい国会議員の中で当選回数の多い人から選ばれる。地元に道路を作ってくれた人の子供がなりやすい。
ところが昔の大臣は歴史の有名人が多い。
維新成って国務大臣に相当する職を担ったのは、幕府を倒した西軍の有力者たち数人である。
「わしは外交を担当しよう。おぬしは内政を頼む。財務はやつに任せたらどうじゃ」
などと決まったのではなかろうか。
内閣制度ができて国が固まっても、藩閥で決まるという傾向は続き、
例えば第二次松方内閣
1896年(明治29年)9月18日- 1898年(明治31年)1月12日まで
の閣僚は、
職名 代 氏名 出身藩
総理 6 松方正義 薩摩
外務 9 西園寺公望 公家
10 大隈重信 肥前
11 西徳二郎 薩摩
内務 14 板垣退助 土佐
15 樺山資紀 薩摩
大蔵 8 松方正義 薩摩
陸軍 7 大山巌 薩摩
8 高島鞆之助 薩摩
海軍 8 西郷従道 薩摩
司法 9 芳川顕正 徳島
10 清浦奎吾 肥後
文部 11 西園寺公望 公家
12 蜂須賀茂韶 徳島
13 濱尾新 豊岡
農商務 13 榎本武揚 幕臣
14 大隈重信 肥前
15 山田信道 肥後
逓信 9 白根專一 長州
10 野村靖 長州
拓殖務 2 高島鞆之助 薩摩
班列 - 黒田清隆 薩摩
伊藤、山縣らはこの背後にいて、彼らも前後に大臣になっている。
徳島藩最後の藩主だった蜂須賀茂韶のあとを次いで、明治30年11月文部大臣になったのは、濱尾新(はまおあらた)。
異色である。
維新の豪傑、元勲ではなく、初めての学士会会員の国務大臣であった。
1849年生まれ、慶応義塾、大学南校に学び、文部省、東大などに出仕。
1893年第3代帝大総長。
現在東大の安田講堂と三四郎池の間、椅子に座った巨大な銅像がある。
さて、11月27日、学士会は小石川植物園で濱尾大臣就任の祝宴を開いた。
本郷、小石川だけでなく東京中から徒歩で、人力車で集まったのだろう。
薬学雑誌 1897年度 p1227
にその様子がある。
全会員ほとんど三千人の多きに達し、最初の卒業生はようやく齢50近くになりつつあった。
この祝賀会には、薬学の長井、丹波、田原、齋藤が出席している。
そして、なぜこういう記事が薬学雑誌にあるか?
濱尾は会員数460人の時代からずっと薬学会会員だったのである。
学会での活動は不明だが、薬誌1897年度p207、1898年度p208(会費領収広告)には、半年分の会費1円をきちんと払っている濱尾の名がある。
名簿を全部調べたところ、
1889年10-12月、付録名簿なし
1890,11月 浜尾なし
1891、11月 浜尾なし
1892、11月 会員464人中に浜尾の名あり。
1892年に入会したのかな?
帝大の前身、大学南校や開成学校まで遡っても、ようやく最初の卒業生が50歳になったのが明治30年ということだ。
彼の墓は染井霊園にある。
0 件のコメント:
コメントを投稿