5月も終わろうとしているのに今月はブログを4本しか書いていない。
昨年の5月は31本も書いたし、たいてい月15本程度書いているから異常である。
異常に忙しかった。
一人暮らし86歳の叔父が入院したことよりも、大学の仕事である。
今年は担当講義が新しい科目になって準備に時間がかかり、さらに新入生の体験学習の責任者になっていたため、4月以来、休日はほとんど出勤して準備作業をしていた。もちろん5月の連休もなかった。連休が終わると14日からは午後は毎日2年生のグループ討論形式の別の実習があり、21日からはいよいよ1年生の体験学習が始まった。その1週間は朝から晩までバタバタした。もちろんこれ以外の、日常的にあった業務、雑用はすべて後回し。
こんなに忙しいことは60年以上生きてきて一度もなかった。
大学というのは会社と違って誰も助けてくれず、自分がやらなければ時間割に穴が開き、学生や大学に迷惑がかかる。
疲れているのか、毎日電車で座っても、本を読む気力もなく、ぼーっとするか眠っていた。このまま蓄積疲労で頭と体が壊れるのかな、なんて少し考えた。
叔父のことを考える余裕もなかった。
29日で体験学習が一段落したので、少しブログを書く。
と言ってもどこにも行ってないので、過去に撮った写真を整理するだけ。
今年の3月に行った福井。
駅は金沢同様、屋根があるから、外国っぽい
駅前広場。恐竜博物館は見る暇がない。
駅から歩いて5分の福井城
松本、富山のような典型的な平城
ここに最初に城を築いたのは柴田勝家。勝家は朝倉滅亡後、一向一揆が支配していた北陸を平定したことで、越前49万石を与えられ、ここに築城する。当時は北ノ庄といった。しかし賤ヶ岳で秀吉に破れ、北ノ庄城は炎上、勝家はお市の方とともに自害した。
北ノ庄城の天守は、福井城の南にある柴田神社付近にあったらしい。福井城の城域に入っている。
1601年、結城秀康が勝家の城をつぶし、新たに築城した。
平城の宿命というべきか、跡地には役所が入り、本丸跡には県庁、県警が立つ。
結城秀康は家康の次男。秀吉の養子となるがその後、北関東の名門、結城家の養子となる。
関が原後、下総結城11万石から、北ノ庄68万石に転封され、松平姓に復帰、幕末の春嶽につながる越前松平家の初代となる。
ここは御三家(秀忠の弟たち)ではないが、将軍の兄の家ということで松平一門でも家格は高かった。
この石碑に寄れば、城内に福の井という井戸があり、紀元2284年(!)(寛永元年)、ここから当地が北ノ庄から福井に改称されたとある。
1948年の福井地震で崩れた石垣。
司馬遼太郎がまだ産経新聞にいたころ、夜中にオート三輪の荷台にのって、大阪から取材にかけつけた。
泥だらけの孫の顔を、泣きながら洗っている老婆の姿に声もかけられなかったと、何かで読んだ。
小浜藩10万石は京極氏2代のあと、酒井忠勝にはじまる酒井家13代で明治となる。
杉田玄白はここの藩医だった。
あちこちで復元修理をしている。
いいことだ。
帰り際、銅像が見えた。
公園は整備中で立ち入り禁止で、遠くの後姿では誰だかわからない。
中の作業員に聞いたら岡倉天心だという。
ああ、父親が福井藩士だった。
天心は谷中に居を構え、あとが記念公園になっている。学生時代日暮里駅に行くときはいつも前の道を通った。
2018年3月27日、福井には30分しかいなかった。
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