3月27日、福井に30分しかいなかったのは、バスの待合時間だったからである。
14:38福井駅発。
路線バスは途中で皆降りて、乗客は私一人になった。写真は九頭竜川を渡るとき。
桜はまだ。
本丸の天守台は前方後円墳に見える。
城の北、崖下には雪が残っていた。
この低地は本丸を囲む内堀のようだ。
地図を見ると、下の現代市街重ね図のほうは二の丸のようにみえるが、昔の絵図(正保期)では堀があったようだ。
丸岡城のしゃちほこはもともと木彫銅板張りであった。昭和15~17年の修理の際、銅版の入手が困難で、やむなく天守閣の石瓦と同質の笏谷石使った。それが地震で落ち、昭和27~30年の修復時に、元の木彫銅板張りに復元した。展示され、割れている理由である。
丸岡と言えば、日本一短い手紙で有名。
「一筆啓上 火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」
ある武将が陣中から妻に送った手紙は、文面は覚えていたが関心がなかったので、誰だったか知らなかった。
「鬼作左」とも呼ばれた家康の家臣、本多重次が長篠から出したものらしい。
この文中の「お仙」が越前丸岡藩の初代藩主本多成重となったことから、1993年に丸岡町が短い手紙コンクールを始めた。
少し読んだが、応募するものは皆、母思い、子思いの幸せな家族であった。
さて、本題。
バス発着の食堂兼土産物店「一筆啓上茶屋」に、丸岡城を国宝にしよう、という垂れ幕があった。
日本全国、どの自治体もこういうことが好きである。
城郭で国宝になっているのは、姫路、松本、彦根、犬山の4つで、最近、松江が追加された。
丸岡を国宝に指定してもらうための一番の売り文句は、現存12天守の中で最古(犬山と同時期?)ということだろう。
しかし古いというだけでは弱い。
古い建物など、もっと昔の平安、鎌倉、室町時代のものが山ほどある。
国宝にしてもらうには古さより、城郭としての美しさ、貴重さが重要と思われる。
丸岡城の弱点は、天守閣以外何もないことだ。
城と言えば、櫓、石垣、堀。
天守のある小山以外すべて市街地となってしまったのが残念である。もう一つ、丸岡城を国宝にしようとする根拠に、もともと国宝だった、ということがある。
しかし、これもどうであろう。
上の写真の城碑は、昭和9年の国宝指定を記念し、同17年に霞城保存会が建立した。その後、23年の福井大震災で城は石垣ごと完全倒壊、同30年に再建したが、すでに昭和25年には国宝でなくなっていた。地震で壊れたからではなく、国宝の制度、基準が変わったからである。
戦前は国宝と重要文化財の区別がなく、すべて国宝であった。
昭和25年の文化財保護法で、いったんすべて重要文化財となり、その中で、重要なものだけ国宝に再指定された。
建造物にかぎると、1059件あった国宝が223件になった。だから丸岡城以外に、国宝から外れたものは山ほどある。
松江城も長年の運動の結果、国宝になったが、丸岡城も同じようになるとは限らない。
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