2018年6月2日土曜日

足利政氏館跡、甘棠院と叔父

6月1日、夕方、先月まで叔父のいた久喜の施設へ挨拶に来た。
久喜に来るのは最後と思い、この寺に立ち寄る。

住宅街の中に不自然なほど広いが車の通らない道(大門通り)があって、これが参道。
寺名は永安山甘棠院(かんとういん)という。
上の写真で分かるだろうか、門前両脇の石柱の「丸に二つ引(足利二つ引)」は、将軍家はじめ足利一門の家紋。

総門をくぐると、子ども用の滑り台と石塔がわずかにあるほか、何もない土の空間。
普通の寺とどこか違う雰囲気。

進むと、中門の前に空堀。ぐるっと囲んでいるようだ。
中門をくぐると、今度こそ境内かと思いきや、びっしりと墓石。
これだけの敷地に伽藍、樹木がなく、ずっと墓地になっている。
格式の高い寺なのか、墓も皆大きい。

墓地の奥には門構えの屋敷があって、これが寺の本堂だろうか。
日中なら開いていたのだろうか。18時ころ撮影。


1349、足利幕府は関東支配の拠点として鎌倉府を置いた。
その責任者が鎌倉公方、補佐するものが関東管領。
初代鎌倉公方は尊氏の四男、足利基氏。
1455、幕府と対立した5代目鎌倉公方の足利成氏が追われて下総古河に移り、古河公方の初代となる。(鎌倉府消滅)。

1458、幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は鎌倉へ行けず伊豆の堀越を御所とした(堀越公方)。以後およそ30年にわたり、下野、常陸、下総、上総、安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、上野、武蔵、相模、伊豆を範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦った。

1483、古河公方と幕府の和睦が成立。堀越公方足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の関東公方の地位があらためて幕府に承認された。

足利政氏はその成氏の子。
1489、父から家督を譲られ、2代目古河公方となる。
しかし関東管領、両上杉氏の対立、後北条氏の台頭で、不安定になった関東で、嫡男高基と対立、孤立して古河城を追われ、小山氏や岩槻太田氏を頼って流浪。
1515年ころ、この地に屋敷を構え、隠居状態のまま1531、没した。

ところで、なんで久喜だったか?
見晴らしがいい高台でもなく、要害堅固でもなく、ただの平地である。
ひょっとすると、もともとあった適当な寺に入り、周囲に環濠を掘ったのかもしれない。
甘棠院は、政氏が開き、子の貞巖が開山と案内板にはあるが。


・・・
叔父は子どもがおらず、一人暮らしで心臓が悪かった。
起きると足がむくみ、寝ると息が苦しくなって眠れない。
食料は宅配だったが、ゴミ出しに行くのも不自由となり、今年の1月3日、久喜にある3食付き、24時間見守りの桧家リビングという老人施設に入った。

外出は家族が来た時だけに制限され、月に一、二回、すぐ隣のドラッグストアにお菓子を買いに、私がゆっくり歩いて連れ出すだけとなった。
4月は比較的元気だったので、28日にタクシーでガストへ外食に連れ出した。
彼は昨年7月の鰻以来の外食に喜んでくれた。

しかし、翌日から容体が悪化。
5月1日に救急車で東鷲宮病院へ搬送される途中、25分心肺停止。
懸命の救命活動で心拍戻ったが、ずっと意識不明のまま。
先週86才となった。

退院の見込みがなくなり、久喜の施設からは月末までに荷物を引き取ってほしいと言われていた。
しかし仕事が忙しくてぎりぎりとなり、先日の夜、これまた忙しい息子を無理に頼んで深夜、レンタカーで千駄木まで少ない荷物を運んだ。

6月1日、目覚めぬ叔父を病院に見舞った帰り、中村屋の菓子2箱もって久喜で降り、お世話になりましたと、施設へ退去手続きと挨拶をしに来た。

久喜は、30年ほど前、叔父が商売不振で、浦和の家を売って離婚、久喜のとなり鷲宮に引っ越して以来、たびたび来た。彼はいつも駅まで車で迎えに来てくれた。
しかし、この駅はこの日が最後となろう。

足利政氏館跡、甘棠院は、前から知っていた。
1月に叔父が入った老人施設からは、歩いてわずか5分。
いつでも行けると思って行かなかった。
そのうち彼の調子が良くなったら一緒に歩いて来ようと思っていた。

こういう形で、久喜最後の日に訪ねるとは思ってもみなかった。


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