2018年6月10日日曜日

北の丸・武道館と近衛師団

6月10日、第39回日本インターナショナルダンス選手権大会を見に、武道館に行った。
田安門はいつ来ても大きくて立派。
北の丸公園は、最近ダンスの大会を見によく来るが、散歩、花見、単なる通り抜けも含め、何回も来ている。清水門(→クリック)ではなく、ほとんどこの門から入る。

当たり前だが、田安家の屋敷があったから田安門になったわけではなく、田安門にあったから田安家と呼ばれたのである。

この巨大な門を最初にくぐったのは、1975年4月。
大学の入学式。誰も知り合いがおらず、長野高校の同級生、T倉氏と待ち合わせた。
親と一緒の新入生が多い中、我々は二人で巨大な城跡をうろうろし、彼は立派な石垣に興味を持ち、ブレザー、革靴でよじ登ろうとした。

2018年6月、ダンスのほうは、海外招待選手を含め、プロ、アマ国内最高選手が出る。
自由席のチケットをいただいたので見物に来た。
しかしずっと座っているのも疲れるので、ひとり抜け出して雨中の北の丸公園を歩いた。

北白川宮能久親王像
陸軍軍人として台湾遠征中に死去。

国立近代美術館工芸館は、旧近衛師団司令部。
ちょっと窮屈な場所にある。
北の丸公園の南の端で前庭が全然ない。

もともとこの場所にあったとは思えない。
移設したのだろうか。
しかしレンガ建築の移設は難しい。
建設 明治43年、
文化財指定 昭和47年。

ひょっとして、首都高を作るのに南の庭をつぶしてしまったのではないか?
そう考えて、昔の近衛師団の建物配置図を探したが、見つからない。

そうだ、便利なGoo地図があるではないか。
その昭和22年の航空写真をみたら、近衛歩兵連隊の兵舎まで全部写っている。空襲で焼けていないのは意外だった。連隊本体は外地に派遣されても皇居守護を任された精鋭の留守部隊なら、焼夷弾を落とされても、必死に鎮火しただろう。
下の方、千鳥ヶ淵の近く、今の近代美術館工芸館の場所に確かに司令部らしき建物が立っている。そして今の地図を重ねると、首都高が前の庭を削り取っている。

ひどい話である。
高度成長時代、高速道路の建設が第一で、日本橋をはじめ、江戸、東京で一番大事な景色をつぶしてしまった。
goo地図、昭和38年(1963)の航空写真には建設中の首都高がある。

まだ連隊兵舎は残っている。
いったい何に使っていたのだろう。

注目すべきは右側、清水門の近く。星形の外観が目立つ、科学技術館が見えることだ。
1961(昭36)年、皇宮警察職員宿舎跡地に建設が決定。1964年4月9日、竣工、4月12日に一般公開とあるから、まだ建設中だ。

1964年9月竣工の武道館はまだない。63年10月着工、昼夜問わずの突貫工事だったという。

この日、師団司令部の建物を見た後、千鳥ヶ淵南堤の遊歩道を歩く。
皇居を守るため設置されたB29迎撃用の高射砲台座は、化粧石を張り付けて、ベンチ代わりになっていた。
全部で7基。
撤去しなかったというのは、残そうという意思があったのだから、原型のまま保存して案内板もつけ、休憩用のベンチは別に作るべきであった。
この変わりようはあんまりだ。
これでは廃物利用で、記念にならない。
2018-06-10

武道館に戻ると、競技会は休憩時間。
一般観客にフロアを開放し、老若男女のダンスタイムになっていた。
戦争と平和。



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