谷中墓地から根岸に降りる坂は北から、御殿坂(日暮里駅北口)、もみじ坂(日暮里駅南口へ)、芋坂(羽二重団子)、御隠殿坂 となる。線路ができて、いずれも跨線橋によって電車は良く見えるが、坂は中断されてしまった。
御隠殿坂の下に寛永寺の住職・輪王寺宮親王の別邸があった。
江戸時代、日光輪王寺の管主は代々親王か天皇の養子が就き、上野寛永寺の管主も兼ね、これを輪王寺宮と称した。輪王寺宮は1年のうち9か月は上野に常駐しており、上野山の坂下にあった屋敷が御隠殿である。敷地3500坪あったが、彰義隊の上野戦争で完全に焼失、いまは跡形もない。
国会図書館デジタルコレクション・尾張や版江戸切絵図
御隠殿は東叡山とつながって、その一部のように書いてある。その上の三嶋大明神は今も鶯谷駅の近くにある。御隠殿のまえの善光寺はもちろん善性寺の間違い。その前の植木屋の角が羽二重団子、「芋坂ト云」の文字が見える。
御隠殿は東叡山とつながって、その一部のように書いてある。その上の三嶋大明神は今も鶯谷駅の近くにある。御隠殿のまえの善光寺はもちろん善性寺の間違い。その前の植木屋の角が羽二重団子、「芋坂ト云」の文字が見える。
この根岸に豆腐料理の笹乃雪がある。
元禄四年(1691)、公弁法親王(1669-1716、後西天皇の第6皇子)が輪王寺宮となり関東に下向したとき、京都からお供して来たという。創業326年。
法親王はその豆腐を「笹の葉につもりし雪のごとき」と褒め、それが屋号になったという。
この店は学生時代から知っており、前の通りも何回か通ったことがあるが、60過ぎまで一度も入ったことがなかった。
そこで今日入ってみた。
ちょうど法事の団体客が入っていった。
老舗らしい店構え。
ランチは2200円だが土曜なので一番安いものでも2800円。
何品めかにでた雲水という湯葉とそうめんを豆乳で煮たものに入っていた肉団子1つが唯一の動物性食品。あとはすべて豆腐。
ごま豆腐がうまかった。
なお、JR鶯谷や谷中初音の森の由来となるエピソード、京都から美声で早鳴きの鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥したという輪王寺宮は、この公弁法親王である。
食事後、その輪王寺宮の別邸、御隠殿の跡に寄った。
3年前に一度来たが場所が分からず、うろうろした。
御隠殿跡は、焼けて更地になったせいか、線路や住宅地となり跡形もない。
公民館みたいなお寺(根岸薬師寺)に、記念碑がある。
なお、御隠殿が焼けた上野戦争の時の輪王寺宮、つまり最後の輪王寺宮は、公現(こうげん)入道親王(1847-1895)である。
(入道親王と法親王の違いは略)
彼は慶応4年、徳川慶喜の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、東征中止の嘆願を行うが、一蹴され、寛永寺へ戻った。
その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、5月15日の敗北により寛永寺を脱出、榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に転戦、7月、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。
官軍による奥羽平定後、江戸に護送され、実家の京都、伏見宮家で蟄居、親王の位も解かれた。
しかし明治2年、処分を解かれ伏見宮に復帰、能久の諱に戻った。
その後プロシアに留学、ドイツ軍で訓練を受けたり陸軍大学校で学んだりした。留学中に北白川宮家を相続、明治25年(1892)に中将に昇進。
明治28年(1895)、日清戦争後、日本に割譲された台湾で起きた乙未戦争に征討近衛師団長として出征するも、マラリアに罹り、台湾全土平定直前に薨去。
北白川宮能久親王の像は、近衛師団のあった北の丸公園にある。
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