2018年8月15日水曜日

中野小館と高梨家

信州中野は、廃藩置県のとき今の長野県の半分を管轄する中野県の県庁がおかれた。
江戸時代は天領で代官所(中野陣屋)がおかれていたものの、城下町ではない。

城下町ではなくとも、市街地の東に中世の館のあとがきれいに残っている。
その主であった、高梨氏こそ、扇状地に用水を整備し、寺社を建て、中野の市街地の基礎を作ったとされる。

2018-08-13

はじめて中野小館(おたて)の高梨氏館跡を見たのは中学生のころだろうか。

中野にいた頃、歴史などまったく興味はなかったし、たまに買い物、立ち読みする商店街からも離れていたから、近くに来ることすらなかった。
しかし当時盆栽に興味があり、苗木を取りに自転車で東山へ行ったことがあるから、その帰りにたまたま「発見」したのだろう。

今のように整備されていなくて、土塁の切れ目から中を覗くと、古い平屋の家と菜園があり、誰かが暮らしているようだった。洗濯物やリンゴの木もあったような気もするが、記憶はあいまい。

当時、私が高梨氏のことを知っていたかどうか不明だが、家に帰って聞くと「住んでるのは高梨さんじゃなくて、子孫は東京にいるらしい」と父か祖父は教えてくれた。

高梨氏は越後の長尾家と縁戚関係にあり、上杉氏の家臣となって会津、米沢までついていったことを、父らが知っていたかどうかは不明だが、私も知識がなかったから突っ込めず、会話はこれしか記憶がない。
 40年前、正面に見える家のあたりに古屋はあった。

二度目に来たのは、ずっとあと。
叔父が、自分の養父母(わたしの大叔父にあたる)の墓を東山に買い、迎え盆のとき、この前の道を車で通ることになった。たいてい私が墓掃除要員として同乗した。
ある年、館跡がきれいに整備されていることに気が付き、中に入ってみた。
中学生のころと違って、室町時代の貴族の館として、土塁や庭園あとなどを興味深く見た。史跡に指定されたのが平成19年とあるが、その前か後か、はっきりしない。



2018-08-13
叔父は心臓が弱く、一人暮らしの後、今年初めにグループホームに入り、5月1日、苦しくなって救急車で搬送されるときに25分心肺停止、蘇生したが、意識は戻らず、6月28日亡くなった。その新盆である。

分譲墓地を買ったときは景気が良かったころだから、一番上の広いところを買ったのだが、毎年落ち葉の掃除ははんぱでなく、雪とともに枯れ枝や土砂も少しずつ落ちてきて、埋まりそうである。すぐ上にはイノシシ除けの柵がある。
この墓地のすぐわきから鴨が嶽城跡に上がれるが、仏さんを迎えるのが13日の夕方だから、すぐ帰らねばならず、この二、三十年、看板を横目に見るだけで今まで一度も行ったことがない。

この山城は、高梨氏が平時すごす館の背後にあり、戦時にはここに詰められるようになっていた。

実家にあった「中野市史」(1981)によれば、
高梨氏の前には中野氏がいた。
平安末期以来の中野西条の開発領主として、この地に勢力を持ち、鎌倉初期の建久三(1192)年、藤原(中野)助広が地頭職に補任されている。しかし一族の内紛から所領の細分化が進み、市河氏に所領を奪われたりして、南北朝時代には、一分地頭として史料に若干登場するが、だんだん消息が分からなくなる。北の市河、南の高梨らの圧迫によりだんだん小さくなっていった。

いっぽう高梨氏は(系図上は)須坂の清和源氏頼季流井上氏から分かれ、南北朝時代に北朝に味方し、椚原荘(小布施あたり)を中心に北信濃各地に所領を持っていた。1400年の大塔合戦では高梨朝高の嫡子、樟原(くぬぎはら)次郎の名が見える。

1463年、幕府は信濃南半分を守護の小笠原光康、北半を越後守護職の上杉房定にそれぞれ支配権を与えたが、房定らは、古河公方足利成氏と組んで反抗する高梨政高(1418-1468)を討つため、上杉右馬頭を信濃に攻め込ませた。政高はこれを高橋の地で迎え撃ち、右馬頭を討ち取り勝利した。この時、上杉氏に味方した大熊高家、新野朝安らの土豪も滅ぼされ、高梨氏の中野進出が進んだ。(大熊も新野も中野市南部の字の名として残っている。高橋も西条あたりとされる)

当時高梨氏は、小布施あたりを本拠とし、中野市西南部(草間、立ヶ花?)、山ノ内、岳北方面を支配していたが、中野扇状地はそれらの中心を占め、かつ灌漑水路の掌握(夜間瀬川扇状地の要部分)からも重要で、中野氏完全排除は悲願であっただろう。その時期(中野小館築城)は永正10年(1513)以前とされる。

1507年、越後守護代・長尾為景は、守護の上杉房能を滅ぼし、越後は長尾為景派と、房能の実兄、関東管領・上杉顕定を中心とする反為景派による内乱状態にはいる(永正の乱)。この乱に際し為景の外祖父?だった高梨政盛(1456-1513、政高の子)は1509年、為景に味方して越後に攻め入り、顕定軍と交戦、苦戦に陥っていた為景軍の再起に貢献した。
1510年には越後長森原で政盛は上杉顕定をうちとり、嫡男憲房は上野白井城へと撤退し、高梨の名声は上がった。

戦国時代に入ると、周辺の諸侯が武田信玄に落ちる中、政盛の孫、高梨政頼(1508-1576)は武田と対立。1559年、第4次川中島の戦いのまえに、中野小館をすて、自らは千曲川のほとり、防御に適した飯山城に籠城、長尾景虎の援軍を求めた。この後、高梨氏の拠点は飯山城に移り、実質的に越後長尾氏の庇護下に入る。
1582年、武田氏が滅亡し、織田信長が信濃を領有するも本能寺の変。
すぐに上杉景勝が川中島を領有し、高梨頼親(政頼の子)はふたたび中野小館に戻った。しかし独立した有力国人だった父の時代と異なり、上杉の家臣となり、1598年、上杉景勝の会津、米沢移封に高梨氏も同道、中野小館は廃城となった。

その後中野は天領となったが、江戸、明治と、小館の所有者は誰だったのだろう?


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