2018年8月16日木曜日

50年前のエノキダケ栽培

我が家は私が小学校5年生のころ(1967年)、えのきだけを始めた。
瓶詰によるえのきだけ栽培は1930年代に松代町で初めて行われ、戦争で中断されたあと60年代には中野でも始まった。
当時、生産量の100%が長野県で、そのうち9割が中野市だと聞いた。

父は、冬場の作物として、その数年前から畑で信州シメジ(ヒラタケ)の人工栽培をしていた。輪切りにしたリンゴの木に菌を植え、半分地中に埋め、切り藁でおおう。ナメクジによく食われた。
そんなとき、岩船地区で最初の人が始めた翌年、えのきに舵を切った。
初期投資はそれまで蚕、水田、リンゴしかしなかった農家にとっては莫大なもので、技術指導もふくめて農協の存在が大きかっただろう。中野市農協というのは政府が減反を言う前に、どんどん新しい作物を奨励した。後にアスパラと巨峰は農協単位で全国1位になったと聞く。

さて2018年夏、たまたま母屋の東、北にある廃屋に行ってみた。
懐かしかった。

2018-08-14
(母屋の敷地内であるが、いまや用がないから誰も近づかない)

(エノキをやめた当初は物置に使ったようだが、朽ち果てるままになっている)

えのきだけ栽培の工程を書いて置こう。
(このブログは、かろうじて頭に残っているが消えつつある思い出を書くのが目的)

当時えのきだけは牛乳瓶のようなガラス瓶におがくずをいれ、殺菌した後、種菌を植えて生やした。
当時のおがくず置き場は、草だらけになっていた。

1.まず、おがくずを篩にかけ、木っ端やごみを取り除く
おがくず置き場の隣には攪拌機があった。

 2.おがくずと米ぬか、水を混ぜ、撹拌する。
おがくずと米ぬかは3:1(?)、リンゴ箱一杯に入れることで体積を測り、攪拌機に投入する。水の量はおがくずの湿り具合で変えねばならないと思うが、どうしたのだろう。秤がおいてあった。これは父の仕事。

3.成分調整したおがくずをビンに詰める。
どんな機械だったか、思い出せない。

4.ビンにつめられたおがくずに垂直に穴をあける。これは後で種菌を入れる穴である。作業は、穴の開いた導入用栓(A)を瓶の口に押し込み、Aの導入穴に先のとがった棒(B)を入れ、ビンの奥まで刺す。
これは小学生の私の仕事だった。A,Bの順に入れ、B,Aの順に抜く。スピードを上げるための姿勢、所作を工夫し、子どもながら名人の域に達した。

5.びんに紙のふたをかぶせ、ゴムで止める。紙のふたは、家畜の餌袋を小さく切ったもので、二重にして、水を通さないように間に油紙を挟んである。ゴムは自転車のチューブを自分たちで輪切りにした。

6.蓋をしたビンを圧力殺菌釜に隙間のないように一本一本詰めていく。ステップ5まで、すでにギリギリ最大限の本数を作ってあるから、いい加減に詰めると入らなくなり、父に怒られた。一釜500本くらいだったか。

当初、殺菌釜のあった場所
釜は地中に半分埋められた巨大なもので、瓶を出し入れするときは、腹を釜の縁にひっかけ、体を二つ折りにして、頭を逆さに突っ込み、一番下の瓶を取るときは手をめいっぱい伸ばす。
燃料は重油。圧力をかけて120度まで上げた。

のちに籠に詰めたまま人間が運び込んで殺菌できる大型のものができた。
(このころ私はあまり手伝わなくなった)
場所は、おがくず置き場の南に増築した。
のちの大型殺菌釜を置いた場所

ステップ1~6は1日でやり、一家総出で手伝った。
当初は週に2釜くらい詰めたが後にだんだん増えていく。
日曜は1日で2釜詰めることもあった。詰めるのは時間的には1釜分半日で終わるが、釜がある程度冷めて取り出さないと次の分が詰められないから、難しい。年末年始に需要が高まるので、それに合わせて詰めるよう、農協が指導し、各農家も頑張った。

農家の長男として跡を継ぐはずだった私が、たまたま長野高校に進んでしまい、周りに流されて東京の大学に行きたいと親に言ったのは、この釜出しの作業中だった。
瓶は熱いが、冬は暖かくておしゃべりしながら比較的楽な仕事だった。

7.(菌つけ)
殺菌したビンは熱が冷めると種菌を植える。
菌つけ室。

ここは密室で、天井には暗い紫の光がでる電燈があり、目を傷めるから見るな、と言われた。
他の菌が入らないよう、納豆は食べるなと言われたが、のちに皆平気で食べた。靴下はいちおう取り換えて入った。

培養室。
ここは昔、鶏小屋で、この建物を中心にエノキ栽培用に増築したのである。
かなりの部分は祖父らが古材を使って自分たちで作ったのではなかったか。

8. (培養)
菌つけの終わった瓶はまた蓋をかぶせ、
ここで白い菌糸をビン全体に回らせる。
培養室は常に20℃くらいに保たれ、冬は暖かく、洗濯物やスキー靴を干した。
ごくたまに雑菌が入ると、緑や黒になって、ここで判明した。

9.(菌かき)
菌が回ったら、菌床の上部を覆う古いおがくず(種菌)を削り除去する。
新しいおがくずの表面を乱してはいけないのだが、何百本もやらねばならないから、あまり慎重にはできない。
これ以降は紙蓋をはがす。蓋はもちろん再利用する。
飴だし室
 10.(飴だし)菌かきが終わり、低温に置くと、表面に飴色の液が出てくる。
キノコ室
11.6度くらいに保ち、キノコを出す。
冷房のない時代、冬に栽培した理由である。

12.(紙巻)キノコの頭がビンの縁をこえるころ、それ以上広がって寝ないよう、高さ20㎝くらいの紙を巻いて、下部を輪ゴムで止める。

13.(収穫) 先端が紙の縁を出るくらい伸びたら、収穫。
紙は縁側に干して再利用。
(ここまで60日くらい)

えのき栽培を始めると、みな、大いに儲かることが分かり、一本でも多く詰めようとした。しかし建物は小さいから、棚にびっしり並べる。また、11以降のステップも、発育がビンごとに違うこともあり、各工程では一本一本手に取って、20本入りの籠につめ、それを別の場所に運んでまた一本一本並べるという、非常に重くて手間のかかる作業となった。

(祖父母が老いて子どもたちも進学すると人手がなくなり、場所をとっても楽な、籠ごと棚に並べるという風に変わっていったが)
キノコ室

さて、収穫すると茶の間に持ってきて、夕方から夕飯を挟み、テレビを見ながら荷造りである。
これも一家全員で分業。

1.100グラムずつ測る。
水っぽい不良品を除く必要もあり、最も重要なステップだから父の仕事。

2.(袋つめ)これはキノコをガイドとなる紙にまいてビニール袋に入れた後、紙だけを抜く。
主に母と祖母の仕事。どちらかが夕飯の準備で抜けると妹が入った。

ステップ1、2はコタツの上でやるから、2の作業が滞ると、父の秤量したキノコの置き場所がなくなる。母はテレビを見たり話をすると手が止まり、よく父に怒られた。

3.(口とじ) 
詰めたビニール袋を膝の上で押し、空気を出して軽い真空にする。口をひねってアルコールランプで溶かし、手でつぶして密封する。祖父と私が良くやっていた。

4.(箱入れ)
かつて蚕も買った古い農家の広い茶の間といえど、出来るそばから箱に詰めないと、足の踏み場がなくなる。私の仕事だった。20袋ずつ5段、1箱に100袋入る。詰めた箱を茶の間の端に積んでいくのが楽しい。

年末でいっぱい出たときなど夜中まで作業することもあった。
翌朝父親が集荷場に持っていく。だれだれさんちは何箱出したとか、そういう話をしてくれた。
荷造りは正月の2日くらいしか休みがなく、野菜や果樹と違い、家族総出で毎日やった。

高校に入ると帰りが遅くなり、手伝いは減った。
その分弟が働いたのかもしれない。
かきだし場 2018-08-14
大事なことを忘れていた。
(かき出し)
ガラス瓶は再利用するため、収穫した後のおがくずをかき出して空にし、回転利用する。
(収穫した後の菌床は、かき出さずに放置してもキノコが出てくるが、二番ものは、味は変わらぬが太いから売り物にならない)

おがくずのかき出し器は、いわば、垂直に立って高速回転する金属片である。
それを股の間に挟むような位置で、前で丸椅子に座る。そして上から両手でビンを回転刃にかぶせるように押して沈めると、中に入った回転刃が固まったおがくずを崩していく。
祖父が主にやっていたが、小学生の私もやった。

がりがり、ぎーぎー、大きな音の出る中、人間が、ビンをもって上下させるから、軍手をはめているとはいえ、ちょっと怖い。ガラスが割れたら、飛び散って大けがする。そうなったらガラスだけでなく高速回転する金属刃が直接、手のひらに接触するかもしれない。ひびの入っているビンは結構あり、割れることがたまにあったが、幸いけがをした覚えはない。
雑菌の周ったビンは、嫌な臭いがした。色が違えば臭いも違った。

6年生だったか、スキーの新しい板が欲しくなった。
それまでは叔父や従兄のお下がりをはいていた。お年玉以外、小遣いはもらったことがなく、スキーが欲しくてもおねだりできる雰囲気ではなかった。そこでビン1本かき出したら1円もらえないかと提案した。
承諾されて、私は喜び夜中までやった。音が夜遅くまで響くと近所にみっともないと、大人たちに言われたが、目標を達成した。
中野のサンライズという店で、新型金具の付いた1万円くらいのものを6900円で買った記憶がある。

それにしても昔の子供はよく働いた。
同じ岩船の同級生、MKは暑い中、たんぼの稲の間を重い草取り器を押していたし(ふつう大人がする)、NS嬢は台風が来た日、家から学校に電話がかかってきて、リンゴが落ちる前に取らなくてはならない、と急いで帰って行った。
小、中の同級生たちは皆、農家の子供で、宿題もなく、勉強は授業のときだけ。
中間、期末試験があっても当日の休み時間にするくらいで、高校入試の直前まで誰も勉強ししなかった。
しかしキノコ栽培など農作業と自然に関する知識はあり、自分たちでもいろいろ考えた。いい時代だった。
(こうしてみると義務教育は読み書きそろばん、あとはボランチアでいいのかもしれない)

父は、かき出したおがくずの再利用を考え、一部混ぜる実験をしていた。
しかし結果が出るまで60日もかかり、一冬ではよく分からない。結局、新しいおがくずだけを使い、かき出したおがくずはリンゴ畑にまいた。おがくずを入れると、土がほくほくして水持ちもよくなった。

その後、ガラスビンはプラスチックに代わり、だいぶ軽くなった。
かき出し器も、2本同時にセットでき、人間が押し込まなくても自動で回転金属刃が上下するものが出てきた。自分でビンを掴んでいる必要がないから、かき出している間に次のビンを手に取って待ち、入れ替えだけで済む。

数多くの行程ごとに、効率よくできる装置がつぎつぎと出てきた。どれも実用新案出願中といったラベルが貼ってあったが、農家の人々が考えたものも多かっただろう。装置ではなく手順などは、もちろん各農家が独自に工夫した。

エノキは当初、100グラム100円もした。当時田舎の工場の求人広告は、給料3万円?くらいではなかったか。えのきは高級品で、正月のお吸い物に、桜エビか鳴門巻きとほうれん草に、えのきだけが3本くらい入っていた。

2018年、えのきの機械や資材がないか、物置の2階に上がってみた。
父が死んで8年、
ゴミ屋敷のようだった。

装置は捨てたのだろう。
ビンを入れた籠は使い道があるせいか、いくつかあったが、プラスチック瓶はなかった。
(そういえば、お墓の花入れがエノキの瓶だったな)

70年代になり、エノキダケ栽培が儲かることが知れると、参入者が続いた。
後から入る人ほど大規模になり新型の装置を入れる。立地に制限のある母屋の横などでなく、田んぼに体育館のような建物を建て、フォークリフトで瓶を籠ごと移動させるようになった。もちろん冷暖房設備はあるから、彼等は電気代はかかっても真夏でも生産した。

父も、大規模化を考えたようだったが、もう市場は飽和するだろう、今からでは遅いだろうと考えて動かなかった。
その後も他の人の参入と大規模化は進み、父の予想は外れた。

えのきだけ栽培は畑仕事のない冬を中心に、細々と父と母、二人だけで続けたが、いつ辞めたのだろう。
92年に母屋を新築してから、袋詰め・荷造りが茶の間から汚い物置に移り、たまに帰省しても私たちは手伝わなくなった。
エノキは父母二人だけのものとなり、客人には様子が見えなくなった。

2006年、父は75才で巨峰を切り、ピオーネに変えた、とブドウを描いた年賀状をくれた。
その3か月後、がんが発覚。このときすでにエノキをやめていた。
田舎の専業農家で子どもを3人とも大学に出せたのは父母祖父母の働きとエノキダケのおかげである。



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