10月14日、旧千駄木町の散策を続けている。
千駄木一丁目の山の手住宅街10番地と11番地の間を南に行くと突き当たる。
いい感じの門の家、わきに細い通路
のぞくと石段。お化けだんだんというらしい。
弥生にお化け階段があるから区別のためにだんだんというのかもしれない。
自転車で降りられない。
東に行くと
8番地と9番地の間、こちらも石段。
右の朝倉響子邸も大きいが、あまり住んでいる感じでない。
ここも自転車で降りられないので、来た道をとおって、薮下通りに戻る。
先ほどの8番地と9番地の間の石段を薮下通りから見上げる。
この坂は名前がないのかな。
朝倉石段とでも名付けるか。
41年前、学生実習が終わるとこの汐見坂を國枝卓氏と帰った。
一緒に伊勢正三やイルカを歌いながら私は自転車を押した。
当時、左は林と古い門構えの家、右はレンガの塀だった。
汐見坂を下りたところを西に入ると
千駄木ふれあいの杜がある。
ふれあいの杜の入り口は、お化けだんだんの下に当たる。
2013年に千駄木に引っ越してきたとき、まだ右側に古い門のある家があり、お化け段々の名前がふさわしかった。
写真を撮っておけばよかった。
後で撮った地図だから現在地はちがう。
さて、ふれあいの杜に入ってみる。
この崖の上は11番地、太田家などの邸宅がある。
もともと太田摂津守の下屋敷にあった庭園であるから、江戸時代からあった庭の石や祠がそのまま残っている。
他の公園だったら石を処分、木を切って、ゴミ箱、遊具、ベンチを置いて、遊歩道を危なくないように、緩やかに付け替え、舗装して、花を植えて、・・・・
・・・お金がないほうがいい場合もある。
漱石の『猫』は太田ヶ原、太田ヶ池で拾われた。
(池は大正期に埋められ宅地になったとか)
崖下の湧き水は昭和40年代まであったらしい。
2001(平成13)年から文京区が緑地として太田家から借りていたが、平成28年、太田家は緑を後世まで残すことを条件に区に寄付した。
そうそう、千駄木から縄文時代の人骨が出たのは、この崖の上である。これも以前書いた(別ブログ→千駄木遺跡)。
以前、大雨の時、ここは崖崩れの恐れがある所として注意報だか避難準備の緊急メールが出されたらしい。都内のほとんどの崖地や斜面は階段状に造成されコンクリートに覆われたが、ここだけは昔のままの土の斜面になっている。
今、文京区ハザードマップを見ると、須藤公園のところと、弥生お化け階段の近くは土砂災害警戒区域になっているが、ここは指定されていなかった。
南側の家も古そうだ。
人通りもほとんどない。
崖の上は11番地である。
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