2017年5月5日金曜日

千駄木貝塚と人骨

千駄木菜園 総目次


3月に文京ふるさと歴史館に行ったとき、いきなり目に入った人骨が気になっていた。
身長165(縄文人の平均は158)。
骨格はたくましく、また歯がすべてあり、すり減っていなくて、関節面もきれいなことから年は20代後半。
そして脛骨の下の関節面にひび、それが治りかけているから、亡くなる少し前に高いところから飛び降りたらしい。


千駄木貝塚から出土したとあるが、千駄木在住者として、どこだか気になっていた。
ネットで見ても出ていない。
「文京区千駄木貝塚他発掘調査報告書」(1989)を取り寄せてもらった。
ところで真砂図書館などにあるのに、地元千駄木の本郷図書館にないのはどういうことか?

それによれば、千駄木貝塚というのは明治34年以来、太田邸内発見として報告されたが、正式な調査がなく、具体的な位置が不明であった。
それが昭和63年にいたり、千駄木1-11-3で縄文、弥生の遺跡が発見された。ここは太田が池のあった現・千駄木ふれあいの杜の西の高台である。同年さらに同1-10-5、1-9-2でも遺跡が発見された。

上野台地と本郷台地に挟まれた不忍通りの低地は、北区の石神井川まで続く長い谷で、両側の丘に貝塚が集まる。貝塚があるから縄文時代は海が入り込んでいたと思われるが、谷ができたということはそれ以前は陸で石神井川が侵食したのだろう。
本郷台地東淵には弥生町遺跡群(下図12,13)、千駄木貝塚(11)、動坂貝塚(4)などが知られる。下図11の池が太田が池で、湧水が豊富であり、縄文時代は海に近く、弥生では湧水を利用して稲作に適し、いつの時代も住みやすかったようだ。
「文京区千駄木貝塚他発掘調査報告書」(1989)
さて、この人骨は1-9-2で出土した。
 左に見えるのが頭蓋骨。

以上、「文京区千駄木貝塚他発掘調査報告書」(1989)


骨は少しでも酸性なら溶けてしまい、日本では残りにくいが、この人骨は貝塚の下層にあったため珍しく残った。
貝塚といえば古代人のごみ捨て場というイメージがあり、ゴミ捨て場に葬るものだろうか、と疑問がわいたが、貝殻に遺骨を保存するはたらきがあることを知ったうえで、貝殻で覆ったのではないかと言われる(前田潮、1983)。

この遺跡では人骨が二体でて、1989年の報告書では片方は性別不明の若者、片方は男の成年~壮年とされるが、写真がふるさと歴史館のものと同じなので、この場所から出土したことに間違いないだろう。

その場所に行ってみた。

藪下通りの汐見坂を上がったところである。
石垣の向こうの家、道路より数メートル高い場所で出土した。道路の右側は急な崖で、下に汐見小学校がある。

遺跡が出る10年前、毎日この道を通った。もう40年近く前になる。


0 件のコメント:

コメントを投稿