2018年11月18日日曜日

富士見坂と太平洋美術会

2017-05-28  私も映っている

新宿中村屋で太平洋美術会に触れた。
谷中、千駄木に関係深いので、もう少し書く。

1887、長岡藩士族・小山正太郎、千駄木世尊院の借家で画塾・不同舎を主催。
   汐見坂、団子坂の上、鴎外邸に接していたらしい。
   浅井忠、松井昇らが指導。
最盛期には300人を数え、満谷国四郎、鹿子木孟郎、青木繁などを輩出。
1887、中村不折、信州高遠から上京、入門

1889 小山正太郎、浅井忠ら、明治美術会を結成。
   工部美術学校出身者が中心となり、東京美術学校に対抗した。
(1899 M32、荻原碌山、安曇野から上京、不同舎に入門。)
1901 このころ不同舎は本郷通りの向ヶ丘高校あたりに新築移転した。
1901、明治美術会、黒田清輝率いる白馬会の分離独立などで勢力衰え、解散。
1902、明治美術会の後身として太平洋画会結成
  丸山晩霞(信州小県郡祢津村、駒込神明町に住む)、石井柏亭(日暮里渡辺町に住む)、吉田博(久留米出身)、満谷国四郎、中川八郎、らが中心となる。

1904、太平洋画会洋画研究所を開設(谷中清水町12番地)
1905、太平洋画会研究所を谷中真島町に移す。
2018-10-21 谷中真島町
この道の右側にあった。
若いころすぐ近くのアパートにいたが興味なくて知らなかった。

1905、フランス留学から中村不折帰国。
   白馬会と洋画界の二大潮流を形成する。
1907 M40、中原悌二郎、中村つね、白馬会から太平洋に移る。

1923 関東大震災。このあと、桜木、谷中、千駄木、日暮里、田端という徒歩圏に集中していた芸術家たちは焼け出されて落合、世田谷など郊外にアトリエを作って出ていく。

1929、太平洋洋画会研究所を太平洋美術学校と改称(彫刻家も多かったしね)。
   なお初代校長は中村不折。

1945、東京大空襲3/10で真島町の美術学校消失。
   以降、事務所は下落合、千駄木、世田谷と転々とする。

1957 太平洋画会を太平洋美術会に改め、太平洋美術学校を西日暮里に再建。
1982 美術学校を美術研究所に改称

それがここである。

2017-05-28
道は谷中からずっと続く諏訪台通り。
右の杜は諏方神社。

この近くに富士見坂がある。
以前撮った写真があった。
2013-08-04
富士見坂 2013-08-04
2013-08-04

2013-08-04
都内に富士見坂はいくつもあるが、長らく実際に地上に立って見える唯一の坂として知られた。
2013年6月22日、不忍通りにマンションができて見えなくなった。
上の写真は、その1か月半後。

見えなくなったのは、千駄木に家を買ってから2年、引っ越して2か月後。
もっと早く来るべきだった。
もちろん晴れていても見えるとは限らなかったが。


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