2018年11月19日月曜日

東大8 無縁坂、鉄門など

11/15 医学図書館に古い雑誌を見にきた。

会社で代謝部門から薬理に移るとき、1987年4月から1年2か月、薬理学教室に内地留学した。
毎朝、東大宮から電車で上野駅まで来て、公園をつっきり、池之端門から入ったが、帰りはよくこの坂を降りた。
2018-11-15 無縁坂
当時はまだ坂の右側にもう一、二軒くらい古い家があり、その隣に雁(かりがね)荘という渋い和風旅館があった。「雁」とはもちろん鴎外の小説からとっている。休憩、宿泊とあったから、雰囲気ある連れ込み旅館だったか。
「雁」では岡田青年が散歩で無縁坂を通り、坂の途中に住むお玉を何回か見て心惹かれる。
1987年はそれが想像できるほど、古い民家が残っていた。

1980年、池之端文化センターで他大学の研究室とボーリング大会をしたとき、幹事の合田氏がわざわざ春日通でなくこの坂を下りるよう道案内の紙を配布した。

今「かりがね荘」を検索したら1987年11月には荒れ果て廃業しているような写真があったが、日付があっているだろうか。
この年、ここをよく歩いていて、そのような枯れた蔦に覆われた建物は記憶にないからだ。まだ営業していた記憶がある。

無縁坂を上がって左折。
秀和湯島レジデンス。
このマンションはちっとも変わらない。

左は元岩崎邸、司法研修所だったが今は何だろう?

秀和レジデンスを過ぎて右に曲がれば竜岡門に向かう。
その角に守衛室がある屋敷があった。表札は岩崎。
いま、そこは建て替えられ、三菱資料館になっている。
その岩崎邸の南のブロックにも岩崎邸があった。
その屋敷は今もあるが表札は確認できず。
こちらの岩崎邸の隣は文京体育館だった。
薬学のバドミントン大会はここでやった。
今は竜岡門のそばの区立4中が廃校になって体育館になったから、ここは区の別の施設になったようだ。建て替えられていた。

無縁坂に戻り坂を上がりきって突き当りに新しく門ができている。
東大鉄門
医学部創立150年記念事業として2006年に再建。

東大は近年になって急に、他にも門を新たに作ってきた。
文字通り開かれた大学ということか。
・春日門。昔は外に(近所の人の?)青いポリバケツが置いてある誰も通らない通用口だった。
・懐徳門。大江戸線ができたから?
・伊藤学術センター門。昔は学士会館分館の門から入り、フェンスの破れみたいなものから出入りする近道だった。
・西片門。南北線ができたからだろう。
・北門。地震研、東大球場の裏。これを使う人は地震研で根津に住んでいる人くらいだろ

鉄門の復活は良いのだが、なにか威厳がない。
軽薄な車止め遮断機のせいか、あるいはすぐ後ろの巨大な病院ビルのせいか、ちょっと残念。
鉄門の前にあった地図

明治13年には医学部本部の隣に、薬学部の始まり、製薬教場がある。
明治42年を見ると今の総合図書館のあたりに基礎医学の教室があり、医学部はかなりでかい。
このあと前田邸が駒場に移り、その一部を医学部がもらって、基礎教室の敷地は放棄した。
池之端門のほうをみると、崖下に塀があるが、今は崖下が道路になっている。また看護師住宅がない。

竜岡門からの通りから病院の新棟を見る。
かつて、ここにはテニスコートがあり、あとは土の空き地だった。木の下に流し台や机などの粗大ごみが捨てられていた。雨が降るとぬかるんだ。
この赤い建物の向こうに好仁会の建物があった。
2年の冬だったか3年の春だったか、薬学に進学した我々に学部がここで歓迎会をしてくれた。水野伝一先生が学部長。田村善蔵先生が元気で粕谷豊先生をからかっていた。当時学内の宴会はここか山上会議所をつかった。

1986年
今と比べるとだいぶ空き地がある。
2017

車道と歩道が整備され、病院のビルが迫る道を歩いて池之端門に向かう。
坂を下りて振り返ると、看護師宿舎のあたりは昔と変わらない。

池之端門

池之端門を入って右の坂
ここを上がっていくと病院の洗濯場をすぎて第二食堂、生協書籍部に向かう。
卒業して10年くらい、本を買うときは、ほとんど埼玉から上野に来て、この坂を上がって10%引きで買った。
(生協会員証のキーホルダーを返さなかった)


0 件のコメント:

コメントを投稿