2018年11月20日火曜日

三崎坂、蛍坂、七面、夕焼け段々

坂道を何回か書いたので、ご近所、文京区東半分の坂を全部写真にとることにした。
11/15、東大図書館に用事があったのでついでに寄り道。
2018-11-15
 三崎坂
坂の手前、千代紙のいせ辰。
1864年神田岩本町で創業、谷中に来たのは1942年という。
右からの道を越えた角が喫茶店乱歩。
江戸川乱歩は団子坂で古書店を営んでいた。
その上が谷中小学校。今の校舎は1991年竣工のようだ。

40年前、1978-1981の3年間、谷中のアパートにいた。
ここから歩いて3分くらい。
日暮里駅に行くときは、写真右側からこの坂に出て横断した。

三崎坂は上野寛永寺に向かう古い坂で、上野戦争の時は攻防口となった。
上りきり右にカーブする部分だけ、広くなっている。
補助92号線である。
ルート上、おそらく空襲あるいは建物疎開で、広げやすかったのだろう。
しかし他の部分が寺、民家が密集し、また開通しても渋滞緩和などに意味がないため、反対運動を考慮して中止になった。
ただしお役所は、北の道灌山通りから田端方面はまだ作るつもりのようだ。
 三崎坂を上がりきって右折すると、寺町のなかに、こんなところが残っている。
防火用コンクリート製の水槽があった。
紅葉坂の天王寺の塀のところにもある。

三崎坂を谷中小学校のところまでおりて北へ向かう。
六阿弥陀道。
40年前、日暮里駅まで歩いた道。
このあたり変わらない。
左は大圓寺。
以前、十四地蔵について書いた(→)

初音の森、防災広場
ここには1980年代まで旗本の末裔、近藤家の屋敷があった。
本邸は本郷弓町、ここは別邸だったが、慶喜と一緒に静岡から帰ってきた後、谷中に住んだらしい。当初は3300坪あったという。
(駅まで歩いていた当時、塀でもあったのだろうか。全く記憶がない。)

1986年、邸を壊してスポーツセンターにするにあたり、近藤氏は六阿弥陀道側は通学用に歩道を広げるよう100坪ほど提供し、崖側は百メートルほど緑地として残した(谷根千27号、1991)。

その後セブンラックス・スポーツプラザが1988年竣工。
プール、テニスコート、ゴルフ練習場もあったらしいが、私は全く知らない。
私がいつの頃か来たときは、知らぬ間に更地になり初音の杜、防災広場になっていた。

調べると
2002年6月ごろ、セブンラックス閉鎖。
2003年3月、台東区が、密集事業の防災目的で跡地を都市基盤整備公団から全面買収。
という。
左は新しい台東区立谷中区民会館、図書室もある。
今の建物は2015年オープン。
2013年千駄木に来て散歩した時は工事していた。

その前の建物は1979年開館というが、あまり記憶がない。
40年前、上の蛍坂の方から歩いてきたときは汚い建物だった気がするのだが。

この階段も新しい。上がると蛍坂の上。

蛍坂
学生のころは散歩の趣味がないから、1,2回しか通らなかった。
突き当り左に曲がって六阿弥陀道に出る。
六阿弥陀道の下に、愛染川に流れ込む川があり、蛍沢といい、坂名の由来となった。
昔の写真を見るとフェンスのところは近藤邸の塀であったようだ。

左、観音寺の築地塀。右、谷中御廟
右の塀は昔なかったと思う。

1978年1月、本駒込から(向ヶ岡寮に一時いて)谷中に引っ越した。
そのころ、日暮里駅からアパートに帰るとき、近道を探しているうち、この塀を見つけた。まだ有名になる前。

当時、さだまさしが人気あって、帰去来のジャケットのような風景に惹かれ、奥に入っていった。坂道(蛍坂)を曲がり、台東区の施設の軒下のようなところを通って、六阿弥陀道に出た。
しかし近道ではなかったので、その後は谷中墓地からの帰りに1回くらい歩いた程度。

坂下の六阿弥陀道にもどり、北へ行く。

防災広場、コミニティーセンターのすぐ北に岡倉天心記念公園。
2017-11-12 
昔は、石垣で囲まれている植え込みはなく、ブランコがあった気がする。
入り口近く右側のトイレはなかったと思う。
奥にみえる八角堂も記憶にない。

岡倉天心旧居跡、日本美術院発祥の地とある。

1890年(明治23年)、東京美術学校初代校長
1898年(明治31年)、東京美術学校を排斥され辞職。同時に連帯辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山らと日本美術院なる研究団体を下谷区谷中初音町に発足させる。

明治40年の地図には、この公園の南に日本美術院と書いてある。
敷地は岡崎雪聲所有地だったとあるが、天心も同時に転居してきたのだろうか。
美校を退職した大観らも近くに移り住んだ。

天心死後、日本美術院(研究所)は大正3年、大観が中心になって三崎坂を上がって右、瑞臨寺の南側の現在地に再建された。
今も有名な院展の主催団体である。

40年前、この公園の前を何十回も通り、ときに中のベンチかブランコに座った。
しかし当時の私は岡倉天心が何をした人か知らなかった。

六阿弥陀道をさらにいくと、左にかき氷のひみつ堂、いつも行列。
ここで右折。
(写真は6年前)
2012-10-15 七面坂
40年前、駅へいくときはここを上がった。
キャンディーズの末期の歌を聴くと、この坂を思い出す。

2012-10-15 夕焼けだんだん
40年前、階段下の右側(今のザクロのあたり)にチロルという当時はオシャレなパン屋があった。
谷中真島町へは平行する七面坂を通ったから、この階段はめったに使わなかった。

今、この下の谷中銀座は休日ともなると観光客で歩けないほど。
そして不忍通りにマンションが林立、夕焼けになる前に太陽が隠れてしまう。
富士見坂のように名前負けしそうだ。


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