2019年1月10日木曜日

上野公園3 彰義隊と小川一族

旧臘、上野公園でH氏と会うのに、10分ばかり早く着いた。
2018-12-23
フェルメール展
すごい行列
皆が並ぶものには行かない。

この行列のすぐそばに、上野戦争で亡くなった彰義隊士の墓がある。
割と大きいが西郷さんなどと比べると訪れる人も少ない。

彰義隊については、他所にいろいろ書いてあるだろうから述べない。
死者あるいは割腹は300名ほどと言われる。

義を彰かにした者たちだから「義」の字が扉にある。



説明文に、明治7年から
「以後120年余りにわたり、小川一族により墓所が守られてきた」と書いてある。
1874年に120を足せば、1994である。
これはどういう意味か?
ただ小川家による墓所の掃除なら、あえて120年で終わることもない。
1994?あたりで中断することもない。


もう知る人も少なくなってしまったが、西郷さんの裏の林の中に小屋があり、小川一族がずっと住まわれていらしたらしい。
らしい、というのは、私の記憶では観光案内所のような感じで、生活されているように見えなかったからである。

上野公園口から不忍池まで、ほんとうに何百回と歩いたが、普段通らないところなので、1,2回しか見たことがない。外と中に説明のパネルが貼ってあったような記憶がある。


上野戦争では、隊士の死体は見せしめかしばらく放ってあり、だれも西軍、新政府が怖くて葬れなかった。その後、三ノ輪の円通寺 (→) の和尚が許可を得て266の遺体を焼き、葬った。

一方、一橋家家臣、小川椙太(のち興郷)は、天王寺詰めの隊長で運よく生き残った。獄中から釈放され慶喜に従い静岡の開墾などして東京に戻る。かつての同志がきちんと祀られていないことを悲しみ、東京府に嘆願書を出し、許可を得て、激戦地の跡に墓を建てた。

墓石の達筆は、山岡鉄舟で「戦士の墓」とかいてある。政府への遠慮か、彰義隊士の墓とは書けなかったのだろう。

その後、小川家は興郷の死後、代々そばに住んで墓を守った。
先月谷中で運よくお会いできた東京学芸大名誉教授、小川潔先生もここに住んでいらしたという。

撤去されたのが120年後の1994年ということだろう。
先の墓所の説明版には
「現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている」
とも書いてあるのは、そういう経緯である。
この辺りもすっかり変わってしまった。

清水堂は寛永8(1631)築。
上野最古の建物で、上野戦争でも焼けなかった。
血を吸った床板もあるかもしれない。

広重の絵を模した松。
いま広重の「名所江戸百景」が浮世絵行灯として200基も公園内に飾られている。
全く不要である。
観光客を増やそうと、税金を使ってまで公園をいじくるのはやめてもらいたい。

木の間に見える不忍池は、当時向う側とつながっておらず、上野戦争では西軍が小舟で茅町あたりから渡った。


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