2019年1月19日土曜日

中島飛行機とグリーンパーク球場

2019年初めてのダンス競技会は武蔵野総合体育館。
2012年、2017年についで3回目。

裏がグラウンド、向かいが武蔵野市役所やクリーンセンター、公団住宅などで、一帯が異常に広々している。
もし以前が畑であったなら少しずつ宅地になるから、このような広い土地は得られない。

そう、ここには戦前、中島飛行機の工場があった。
東洋一の航空機メーカーである。

このダンス大会は毎年新春にある。
終わると暗くて寒いので散策はしなかった。
しかし今年は負けたらさっさと帰り支度をして、探索に出かけた。

そうそう、ここには戦後の一時期、プロ野球も行われた東京スタジアムグリーンパーク球場もあったはず。
2019-01-14
暗くなりかけているので急がなくてはと、市役所南の広場でキャッチボールをしていた親子にグリーンパーク野球場について聞くが知らないと言う。

公団(UR都市機構)の団地の見取り図を見ながら、球場の位置を想定し、どのあたりに記念碑を建てるかと考えて、中央の公園の南隅に行ったら果たしてあった。

1951年に完成、軍需工場時代の線路を利用して三鷹駅から鉄道も引かれたが、プロ野球は1シーズンしか使われず、閉鎖されてしまった。
この野球場、なんかの漫画に出てきた気もするが、思い出せず。
アストロ球団は新宿副都心だったし、ドカベンかアブサンだっただろうか?



興味深いのは、今の武蔵野市総合運動場のグラウンドが戦前から中島の付属施設としてあったこと。(下の写真)
中島飛行機武蔵製作所
 米国国立公文書館原蔵(武蔵野市HPから)

なお、写真上の円弧は千川上水。
武蔵境で玉川上水から分かれ、練馬を経て豊島区に行く。
玉川上水本流が新宿から麹町台地に行くのに対し、千川上水は江戸の北、本郷台地などに水を供給した。

中島飛行機 武蔵工場 正門あと
桜の木は小さいから当時のものではない。

中島飛行機は、海軍技術将校だった中島知久平が、
1910年フランスの航空界を視察し、研究を開始、第一次大戦で飛行機が実用化されて間もない1917年、海軍を退官、故郷の群馬県太田市に飛行機研究所(翌年、中島飛行機製作所と改名)を作ったのが始まり。

海軍を辞めるときにもめたのか、主に陸軍の飛行機を生産した。1919年に初飛行に成功、陸軍から20機受注し、以後発展、拡大する。このあと三菱重工業、川崎航空機、立川飛行機、日立航空機、愛知航空機といった航空機メーカーあるいは航空部門の誕生が続く。

陸軍の隼(5751機)、疾風(3500機)が有名だが、後には海軍の月光(477機)、天山(1266機)、彩雲(399機)、橘花(ジェット機)も生産している。
ゼロ戦のエンジン、栄も中島製である。

案内板の最後に書いてある、5万人の一般従業員が通った地下道というのは、
上空から米軍に見られないようにとの配慮。
でも大工場というのは一目瞭然だと思うが。


戦後GHQの命令で12社に解体され、そのうちの富士重工は2017年スバルに改名、富士精密工業は立飛の技術者が作ったプリンス自動車と合併、日産自動車の一部になった。

スバルが群馬太田にあるのは中島の故郷、創業地であるから。
(そういえば、熊谷から太田への軍事鉄道の予定だった妻沼線跡にいったな)

また、武蔵製作所の5キロほど南、三鷹研究所跡地は、いまスバルの事業所とともに、国際基督教大学ICU、東京神学大学(吉平の結婚式で行った)、ルーテル大学などになっている。

そうだ、大宮にもあった。
1989年から96年まで7年間、伊奈町に住み、ニューシャトルで通勤するときスバルと書かれた大煙突が見えた。戦前、大宮競馬場(1930-39)の跡地が、1943年中島飛行機大宮製作所となり、海軍機のエンジンを作った。戦後そのまま富士産業となり、1955年から富士重工になった。

96年指扇に引っ越し、ニューシャトルは二度と乗らないと思っていたら、2013年転職、千駄木から伊奈町に通勤、再び毎日乗るようになった。しかし高い煙突は見えなかった。
調べたら富士重工は96年まで操業、99年解体、2004年ステラタウンとなった。
ステラは星、スバルである。

煙突は中島飛行機時代のものらしく、その気になれば戦時中の建造物が見学できたかもしれない。

ところで富士重工の富士は何だろう?
中島飛行機が計画、戦勢挽回の悲願であった渡洋爆撃機「富嶽」に通じているのではないか? すなわち、何か戦前の栄光を残したくて名付けたとも考えられる。


正門跡の向かい、グリーンパークと書かれた路地のあたりは、戦前の航空写真だと、アーケードのような細長い屋根が見える。

そのまま工場の南の縁を西へ歩く。

武蔵野中央公園の南から弧を描いている緑地は、武蔵境駅と工場をつないだ引き込み線の跡。
上が南

ダンスのカバンが写っている。




中島飛行機は米軍の格好の爆撃目標であったから、それを守るために高射砲陣地が作られた。
すっかり暗くなったが今のスマホの能力はすごい。

関前というのは武蔵野市の地名。

さらに引き込み線跡を歩いていると、玉川上水境浄水場の東に出た。
境浄水場は、新宿西口の淀橋浄水場が廃止されてから代わりに作ったものかと思ったが、1924年にできている。

ここから玉川上水に沿って三鷹駅まで向かう。


上水のそばはおしゃれな家が続く。
車道と交差するところは地下に潜る。
三鷹駅ぎりぎりまで暗渠でなく開放水路で、都市部では貴重な緑地である。
太宰が入水したのはもう少し下流。
17:45三鷹駅着。
朝8:40にここでバスに乗って以来、9時間ぶり。
この日、ラテン2競技11曲
スタンダード2競技10曲、合計21曲踊り、そのあとずっと歩いて、くたくた。

武蔵野市は戦争の遺産や玉川上水のおかげで広大な公園、公有地と緑地に恵まれた。ケーキや、カフェなど中央線らしいおしゃれな店も多い。
店といえば団子か煎餅、住民も年寄と外国人が多い谷根千とはえらい違いであった。


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