2017年12月16日土曜日

熊谷1 東武・妻沼線の線路あと

12月16日、熊谷は上京、帰省のたびに通過していたが、駅に降りるのは61歳にして初めて。
熊谷と言えば、熊谷直実、陸軍熊谷飛行場、猛暑、くらいしか思いつかなかったが、駅に着いたら巨大ラグビーボールのオブジェ。
ああ、熊谷工業高校ね。
今も強いのかな。ラグビータウン熊谷というらしいが、熊工のほかは知らない。

ロータリーの中にやっぱりあった、熊谷次郎直実の騎馬像。
(上の写真中央)
熊谷氏は、桓武平氏、平盛方の子、直貞が武蔵熊谷郷に移り住んで初代となる。
二代めが直実。
直実は、挙兵した源頼朝を攻め撃破したが(石橋山の戦い)、後に頼朝に従って平氏追討で活躍した。一ノ谷の戦いで16歳の美少年、平敦盛を泣く泣く討ったのが有名。

さて、熊谷は用事で来たのだが、来る前に目的地の地図を見たら、熊谷駅から北東にカーブした緑地が見える。鉄道の廃線跡だとすぐわかる。

東武熊谷線(妻沼線ともいう)である。
戦時中、群馬の太田にあった中島飛行機(今スバル)に人、物資を運ぶために作られ、昭和18年に利根川の手前、妻沼まで開通したところで終戦。
太田市側も西小泉から南へ利根川のそばまで開通していた。
戦後、両線をつなげる話もあったが結局そのまま、車社会になり乗客へって、群馬側が1981(昭56)、妻沼線が1983(昭58)、廃止になった。
(太田市側も、西小泉から南に廃線跡とわかるカーブした緑地がある)
右下の上熊谷駅は秩父鉄道。
熊谷より北にあるのに「上」なのは、中山道で京に近いからであろう。

用事が終わったので早速、行ってみた。

かめ号
途中、電車の形をしたモニュメントというか、コンクリート製の小屋
中は空っぽで、防災訓練用グッズが入っていた。

線路あとは延々続く。
細くなったり広がったりするが、遊歩道は続く。
この道はカメの道というが由来は知らない。
右側に見える高架は新幹線。
右側のフェンスの向こうは秩父鉄道

熊谷駅にもどると壁画があった。原画は戦前のもの。
左上(石原)に熊谷製糸工場、右上に熊谷陸軍飛行学校が見える。

陸軍でも航空機の重要性が高まってきた1933(昭和8)年、陸軍少年飛行兵の制度が定められた。もちろん、それまで所沢などに飛行学校はあったが、陸軍部内からの志願者(航空学生といった)を対象としたものであり、ひろく民間から10代の若者を募集したものではなかった。

翌年、所沢で全国からの少年志願者(こちらは航空生徒といった)に操縦、整備などを教え始める。1935(昭和10)熊谷陸軍飛行学校開設、所沢から操縦技術を教える部門が移管された。1937年所沢飛行学校が廃止されると、熊谷が中心となり、各地に分教所が開設された。
海軍と比べると地味だったし、知覧のような実戦の基地ではなかったから知名度は低い。戦後米軍に接収されたが、返還後、航空自衛隊熊谷基地になっている。滑走路はなくヘリポートのみ、籠原駅のほうが近い。


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