2019年2月4日月曜日

目黒・防衛省1海軍技術研究所と大和の水槽

目黒の旧海軍技術研究所本館が取り壊し中という。
もう壊されているかも、と聞いて慌てた。
行かねばと思うも、さすがにいきなり行ってもダメだろう。

目黒は2005年ころ、ダンスパーティに行ったことがあり、その時は守衛さんにその旨を話したら、連絡が通じていて、一人で目的の建物まで歩いて行った。
だからそれほどうるさくはなさそうだが、それでも何か要件がないとまずい。

大学時代の実験パートナー小林松男・元陸上装備研究所長に頼もうか。
階級の偉さでは申し分ないが、彼は相模原で、しかも定年退官しちゃったし。
10月に特務艇「はしだて」でお世話いただいた方に頼もうか。
でも大げさになりそう。

そこで先進技術推進センターにいる知人K氏に頼んだ。
彼は三宿駐屯地でロボットの研究をしているが、たまに目黒地区まで歩いてきて実験するらしい。

なお海軍、海上自衛隊にとっては研究所であるが、戦後は陸上自衛隊、航空自衛隊も使用し、彼らは駐屯地、基地という言葉を使うため、今は目黒「地区」という。

2月3日、朝倉家住宅見学のあと、恵比寿駅から歩く。

15年前は門に至るまで並木道があったような気がしたのだが、構内の記憶違いか。

門が二つある。

右側はかつての門で、敷地の北(右)を売却したため、この門もじきに壊す。

左側の新しい門。
艦艇装備研究所だけが表札にかかっている。
彼が身分証を見せるとこちらは名前も書かずに入れた。


ちなみに、防衛省の防衛研究所は政策研究をするところで、戦史や外交などを扱う文系の研究所。(2016年までここから市ヶ谷に移転、跡地は今回の売却部分)

理系の研究所は技術研究本部というのがあり、かつては第1から第5まであり、その後、陸海空に相当する
 陸上装備研究所、
 艦艇装備研究所、
 航空装備研究所、
それから
 電子装備研究所
 先進技術推進センター
に改組された。

2015年に技術研究本部は、装備施設本部とともに防衛装備庁というものへ統合された。

入るといきなり右側に解体中の建物が目に入る。
 現 防衛装備庁(前は技術研究本部)艦艇装備研究所
 前 防衛庁技術研究本部第一研究所
 元 海軍技術研究所
の本館。
平賀譲(目黒に移った時の所長、東大総長)や徳川武定(水戸家、子爵、終戦時の所長)などもここにいたのだろうか。
米軍は占領後の接収、調査を予定していたため、空襲しなかった。
背伸びしてスマホを覆いの中に入れて撮影。
中を見たかったなぁ。

思わず進んでしまい、通り過ぎた門の方を振り返ると
手前の建物(模型船工場?)の向こう、見にくいがマンションの手前、白い建物がフローノイズシミュレーター実験棟。潜水艦スクリューの静粛性などを検査するところらしい。
ドーナツを縦にした風洞のような水槽だから建物も大きくはない。

ふと四角い碑が目に入る。
この形は意味あるのだろうか?
技術報国。 良い言葉だ。
兵と同じように戦闘のつもりで研究すれば良い成果も出るだろう。
現代の防衛省技術陣に対しても使える言葉だ。
紀元2600年に建てられたというより、2600年を記念して建てたのだろう。

揮毫は都築伊七中将。(知らない)
海上勤務の中将なら艦隊司令長官に補されるが、やはり技術系は地味である。
そういえば小林松男氏も所長だったから中将クラス。
世が世ならとんでもなく偉い人だったのだ。

大水槽
戦艦大和の模型を使った実験を行ったところ。

水泳選手のトレーニングのように流水プールを想像しがちだが、これほど巨大な水量を動かすポンプなどない。波は起こせるが静水である。

4mから6mの相似形の模型船に紐をつけて引っ張り、そのときの張力で粘性など抵抗特性を測る。
曳航車の最高速度は10m/s。
K氏はレイノルズ数とか流体力学の話を始めたが、半分耄碌した頭では付いていけない。

すぐ西に平行して、高速水槽棟がある。
こちらはより高速で引っ張る曳航車があるのだろう。
ヒラ技官のK氏に中を見たいとは言えない。

大水槽は長さ255m、幅12.5m、深さ7.25mの水槽。
もちろん建物はもっと大きい。
高速水槽は長さ346m、幅6.0m、深さ3.0mである。

昭和20年4月15,24,25日の空襲で大水槽の屋根が焼失、戦後はオーストラリア軍が駐留(恵比寿キャンプ)、大水槽は完全に排水され10年間放置された。昭和31年返還されると、水槽内の機器は雨ざらし、側壁のひびが総延長1600メートル、水槽の底にはテニスコートらしきラインが引かれていた。
構造図、地盤調査図がなかったため復旧は困難を極めたらしい。

緑の大水槽はさすがに目立つ。

この地は「立ち入り禁止」を意味する「お留め山」といわれ、将軍の狩猟用地であった(目黒のサンマの舞台)。
幕末に幕府が火薬製造所を作り、明治後、海軍目黒火薬製造所となった。

その後、明治26年から陸軍施設となるも、関東大震災後、築地で被災した海軍技術研究所が昭和2年、移転がきまり、昭和5年大水槽が完成、研究所も正式移転した。

玉川上水から下北沢で分かれる三田用水が敷地内に流れ、大水槽の水はここから取水した。昭和49年、三田用水をやめ上水に切り替えられた。


2003年ころの目黒地区。
当時は技術研究本部第一研究所といった。
敷地内には防衛研究所も北にあった。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/technom/875/0/875_KJ00003227190/_pdf
から引用(佐藤隆一、2003)

( 続く )


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