何回も来ており、最近のものは
染井霊園1 下瀬雅允、水原秋桜子、若槻礼次郎、幣原喜重郎、高村光雲、濱尾新
染井霊園2 坪井家四代、信良(1823 - 1904)正五郎(1863-1913)、誠太郎、正道
をブログに書いている。
今回も目的なく歩いた。
葵の御紋、松戸徳川家之墓がある。
松戸は水戸街道で、千住、新宿について3つ目の宿場町だったから、水戸家になじみがあったのだろう。明治に最後の藩主・徳川昭武が家督を先代慶篤の遺児・篤敬に譲り、松戸に住んだ(戸定邸)。彼は第9代・斉昭の18男。
第15代将軍慶喜の異母弟にあたる。
長兄慶篤が水戸家10代目をつぎ、慶喜は一橋家を、昭武は清水家を継いだ。
パリ万博に将軍慶喜の名代として派遣され、この間に将軍・慶喜が大政奉還、兄の水戸藩主・慶篤が死去したため、急遽帰国し11代水戸藩主となった。
松戸徳川家は、松戸公とも称されたこの昭武の実子、徳川武定が明治25年(1892)に子爵を授爵したことで、新たに創設された。武定は海軍技術中将で以前ブログに書いた(→海軍技術研究所)。
写真右の墓石、大きいほうに萬里小路氏睦子之墓とある。
昭武の生母、すなわち烈公の側室であったから、水戸徳川家の墓に入るべきかと思うが、昭武と一緒に松戸に住み、昭武が明治43年に58歳でなくなったあと、大正10年、88才で死去した。
なお、昭武の墓は常陸太田市の水戸家歴代藩主の墓所、瑞竜山にある。
写真で小さいのが徳川武雄君之墓。
早世した昭武の三男である。
南となりも徳川家之墓。
2019-07-11
比較的新しい墓誌を見れば、徳川圀禎 昭和61年4月21日没とあった。水戸の本家12代侯爵徳川篤敬の次男である。
とするとこの墓も水戸家の分家である。
ところで本家は
兄、徳川圀順1886年- 1969年(昭和44年)が13代をつぎ、
その長男が圀斉(1912年ー1986年)14代
その長男が徳川斉正(1958年 - )15代である。
なお、12代篤敬の三男、圀秀は子爵松平(宍戸)頼安の養子に、
四男、圀弘は子爵松平(守山)秋雄の養子になった。
宍戸、守山というのは水戸家の支藩である。
水戸家初代徳川頼房(家康の11男)に始まる水戸家の連枝は、讃岐高松松平家、陸奥守山松平家、常陸府中松平家、常陸宍戸松平家の4家あった。水戸徳川本家も含めて相互に養子のやりとりをし、いずれもそれ以外の他家から養子を迎えることはなく、現代まで頼房の血統で続いている。江戸時代の藩では珍しい。
また昭武が列公18男だったように、江戸時代中期以降、水戸本家や分家から、多くの養子を他家へ出している。
Wikiによれば、血統上、高須松平家や会津松平家のほか、紀州家連枝の伊予西条松平家、御家門の越智松平家、さらに幕末以降現代までに徳川宗家・徳川慶喜家・一橋家・清水家と、大半の徳川家や御連枝の家系が頼房の男系子孫となっている。旧華族の徳川姓諸家のうちで一度も水戸頼房の男系子孫の相続がなかったのは、紀州家と田安家の2家のみらしい。
しかも、慶喜はじめ優秀な人が多い。
前述、徳川武定は海軍技術研究所長、東大教授。
東大を卒業し農学博士となった一橋家12代当主、徳川宗敬も、水戸家第12代当主・篤敬の次男である。
なお、初めて飛行機を操縦した徳川好敏は清水家であるが、父、伯爵徳川篤守は水戸家10代当主、慶篤の次男。
ところで染井霊園は、もともと水戸徳川家、府中松平家の墓所があった。
府中松平というのは、水戸家初代頼房の五男・松平頼隆が常陸府中(いまの石岡市)に陣屋を置いて立藩した。
しかし長々と書いて分かりにくい。
水戸家当主を柱にして初代から整理すれば
1.頼房:家康の11男
2.光圀:頼房の次男だが、兄(長男)松平頼重が高松松平祖となる。
・・・
8.斉脩:7代治紀長男、子のないまま33歳で死去
9.斉昭(烈公):7代治紀の4男であったが、長兄斉脩死去のあと当主に。
七男・慶喜は一橋家当主のあと15代将軍に、十八男・昭武は清水徳川家当主のち水戸藩11代藩主に
10.慶篤 :斉昭長男。
11.昭武:斉昭18男。子の武定は松戸家初代、海軍技術中将
12.篤敬:慶篤の遺児。弟が清水家当主徳川篤守
13.圀順:篤敬の長男。弟は一橋家12代当主、徳川宗敬
14.圀斉:圀順の長男
15.斉正:圀斉の長男
分かった?
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