2019年7月13日土曜日

染井霊園4藤堂、樺山、山内恭彦

7月11日
徳川家の墓はブログでずいぶん長くなってしまったが、現場にいたのはほんの2,3分か。

ここは家からいつでも来れるから目的もなく散策する。
次々と目立つ墓が現れる。
伯爵樺山資紀墓
大きい。
2019-07-11
樺山は1890年から92年海軍大臣をつとめ、94年日清戦争直前に海軍軍令部長に就任。
海軍大将にもなったから海軍のイメージが強いが、薩英戦争、戊辰戦争、西南戦争でも活躍し、陸軍少将まで昇進している。

二葉亭四迷 
本名、長谷川辰之助
樺山を見た後のせいか、思ったより狭く感じる。

中央の光る石には「永久の平和 岡倉」
左の四角の石室のようなものが墓だろうか。上に土がたまり草が生えていた。
正面側面には「釋天心」とある。これは戒名のようなもので、浄土真宗で法名に「釈」の字をつけたもの。
案内が何もなくこれでは岡倉天心と気が付かない。

盛り土、石垣の立派な墓があった。
山内恭彦先生墓所という比較的新しい石柱があったが、
東京都の警告板がたてられ、無縁墳墓になりそうである。

帰宅後調べると、山内恭彦(やまのうち たかひこ、1902 - 1986)は、理論物理学の東大名誉教授。小柴昌俊の恩師とある。wikiにも載っているほどの人、誰か縁者はいないのだろうか?
山内家墓所の後ろに回ると石室への入り口があり、奥津城とよぶにふさわしい。

理論物理の大河内正敏に似た名前、小河一敏は知らなかったが墓所が広い。
調べると堺県知事、宮内省御用掛をつとめた人(1813-1886年)。
写真左にうつる記念石碑のうしろ、発起人は知らない人ばかりだが、賛成人は三条、岩倉、副島、松方、山田、海江田など明治の元勲が名を連ねていた。

小河一敏の向かいは塀に囲まれた墓所
横の空き地(公園?)から覗くと松浦と書かれた墓石がいくつも見えた。
肥前平戸藩松浦家の墓所であろう。

松浦家墓所を覗いた公園の西隣、樹木の切り株が残る空き地のような墓所。
岩崎豊弥 大正15年1月10日没
室 武子 昭和9年4月23日没
豊弥は郷純造の四男として生まれ、数え2歳で弥太郎の養子となった。
弥太郎長男の三菱3代総帥の久弥とは血縁関係にない。

藤堂家の墓所も塀で囲まれている。

中に入るといきなり倒木。

従三位伯爵藤堂高潔墓 
従三位伯爵藤堂高潔室量子墓

あれ? 伯爵?
藤堂は伊勢で32万石だった。
武家で15万石以上は浅野、池田、細川、蜂須賀ら侯爵になった。
早めに西軍に従ったものの佐幕で鳥羽伏見を戦ったからか?
右は正二位勲二等藤堂高猷墓
左の小さい墓石は、藤堂高紹、室 信子

伊勢津藩は藩祖高虎(1556-1630)から高の字をつける。
11代 高猷(たかゆき1813-1895)
12代 高潔。最後の藩主 高猷の子。
量子は正室、徳島藩12代藩主蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘。
13代 高紹(たかつぐ1884 - 1943年)高潔の長男。 信子は真田幸民の娘
14代 高廷 1917-1946
15代 高正 1944-
1909(M42) 
藤堂邸は染井霊園のすぐ南にあった。 
いま染井温泉SAKURAやスイミングスクールの場所。

なお、写真でも見える藤堂家墓地南側の森は三菱の敷地。
グーグルで上空から見れば墓のようだ。弥太郎ら岩崎家の墓所か。
既に1909年には一般人の染井墓地とは別に囲いのある墓地があった。


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