仙台は今まで
1991年9月26-28日(生物物理学会)、
2006年3月28-30日(日本薬学会)
2回歩いた。
29年前は、まだ34歳。
当時は、カオス、フラクタル、ゆらぎなどに興味があって、神経活動など自然現象を物理の目で見ることが好きだった。製薬会社にいながら業務と関係ない学会に来れたのは良い時代である。終日、東北大青葉山キャンパスの学会会場にいて物理から東大生理の教授になったばかりの宮下保司先生や、まだお若かった高安秀樹先生の話に感銘を受け、市内散策はしなかった。
それでも仙台城だけは名所というので演題聴講のあいまに訪ねた。
14年前の薬学会は49歳。
RNA干渉の医薬品への応用を考えていたが、もう日常的には興味が人文科学に移っていて、片平の東北大史料館や青葉城などもじっくりみた。
つまり2回とも仙台城に登った。
江戸時代の大藩の城として、もっとも地形が複雑、難攻不落の城ではなかろうか。
29年前、14年前、過去の2回は写真を撮らず忘れてしまった。
忘れてしまえば3回目も楽しめるだろう。
仙台城見聞館の配布資料から
仙台城見聞館パンフレット
2020-03-09
橋を渡ってすぐ左に片倉小十郎屋敷跡
三の丸との間に外堀(長沼)が残る。
当主が代々小十郎を名乗った片倉家は1万8千石。伊達家の重臣。
幕府の一国一城制の対象外として残った白石城を任された。
片倉屋敷の南(本丸下)は馬場と関連役人の屋敷があり、一帯は追廻と呼ばれた。
仙台ではいつも東西南北を間違える。
こういう西が上の地図が実に多い。
それが頭に残り、駅から青葉通りを北上してきたと錯覚する。
しかし西口からは文字どおり西に進み、大橋はむしろ南西方向にわたり、大手門は東向き。そして三の丸、本丸は大手門から南にぶら下がるように広がっている。
片倉家屋敷跡の北に軍馬・軍用動物彰忠塔
廃城後の明治4年、二の丸を中心に東北鎮台(仙台鎮台)のちの第二師団が置かれた。
戦後はGHQが進駐する。
三の丸の北の濠となっている五色沼。
14年前は遊歩道はなかった。同じ3月だが凍っていた気がする。
あるいは「日本フィギアスケート発祥の地」という記念碑を見て勝手に凍った濠をイメージし、記憶と勘違いしているのかもしれない。
大手門跡
門は昭和期まで残っていたが(国宝)、昭和20年空襲で焼失した。
石垣が当時の位置なら門は相当に大きい。
仙台城見聞館の配布資料
明治10年ころの写真を見ると大橋から大手門までは直線ではなく、大手門の前で土手を上がるようにクランク状に曲がっていた。
すぐ左折し(すなわち南へ)山道のような坂を上がっていく。
右側は谷になっている。
とても城内二の丸と本丸の間とは思えない。
石垣は中の門の跡
杉並木の間の歩道は以前なかったように思う。
すぐに本丸北側の石垣が見えてくる。
以前は右の歩道を歩いた気がする。
江戸城でもそうだが、本丸への登城で目立つところの石垣は丁寧に作ってある。
ここは城壁が道沿いに長く続くから、手のかかる場所が広い。
石はどこから持ってきたか知らないが、いずれにせよ長い坂をあげ、形を一つ一つ整え、いったい積み上げるのにどれだけかかったのだろう?
最初の石垣はもっと素朴なもので、きれいになったのは4代綱村のころとか。
本丸北壁に沿って登っていくと、大きな鳥居。
ああ、そういえば本丸に神社があったな、と思い出しながら通り過ぎた。すると歩道がなくなり人もいない。
やっぱりあそこが登城口だったのだと戻ろうとするも道が非常に狭い。
バスがきて私が石垣にへばりついてもすれ違いができず、渋滞した。
車に怖い思いをしてやっとのことで本丸入り口まで戻った。
本丸への登り口。
宮城県護国神社の石柱以外なんの案内もない。
この鳥居はいつ立てたものか知らないが、ここは本来神社でなく城である。
私のように城と思わず通り過ぎる間抜けは少ないにしても、この鳥居は自分のことだけ考え周囲に配慮しない景観公害であろう。
土地は神社が1950年国から払い下げを受けた。仙台市は本丸を神社が所有することを望まず、一部を買い上げたが、本丸はなおも我らのものだ、というアピールなのかもしれない。
それにしても過去2回は迷わずに本丸に行けたのに今回気が付かなかったのは、コロナウィルスで人がほとんどいなかったからかもしれない。
この神社の案内板もいらない。
先に述べたように、仙台ではたいていこの図のように広瀬川を下に書いている。
護国神社が作った地図だが、当時の建物配置と地形が分かりやすい。
この種のものでは非常によくできている。
三の丸、二の丸の外、すなわち大手門への道を挟んで片倉屋敷の右(北)には一門の登米(とよま)伊達氏(2万石)、水沢伊達家(1万6千石)の屋敷が描いてある。
その両伊達家の屋敷跡には仙台国際センターが建つ。
この看板地図には、本丸の地が仙台七崎のひとつ、青葉ケ崎であることから青葉城の俗称が生まれたと書いてあった。竜の口渓谷と広瀬川の合流地点は松ケ崎といった。では青葉ケ崎の名はどこから来たか?
1602年、福島信夫山にあった青葉山(せいようざん)寂光寺が本丸と二の丸の間あたりに移され、その後,一帯をあおば山と称されたという説もある。二代忠宗が二の丸を造営、藩の政治を本丸から二の丸に移すにあたり、寂光寺は移転した。
井上ひさし「青葉繁れる」ではないが、ずっと普通名詞と思っていた。
しかし江戸初期の絵図にも青葉城の言葉はあるらしい。
本丸御殿あと
ここは国分氏の山城があったが、慶長5年の関ヶ原のあと正宗が千代を仙台と改め縄張りを開始、翌年城普請に着手した。
1603年正宗入城、
1610年本丸大広間が完成した。
1627年幕府から仙台屋敷(若林城)の造営を許され、翌年完成、正宗はそこに隠居した。
二の丸、三の丸が完成したのは二代忠宗の時代。
天守閣は作られなかった。
アジア人のいない中、欧米人の集団が来た。
誰一人マスクをしていないのが新鮮。
本丸から仙台平野を望む
景色は素晴らしいが、御殿の風は強くなかったのかな?
片平キャンパスが見えるはずだが建物の姿を知らないためよくわからない。
高所からの景色は土地の知識がないとつまらない。
本丸御殿は明治維新まで残っていたが、民間に売却され木材として使われてしまった。
東西33m、南北26m、畳敷きの部分だけで260畳もあった。
トイレと背中合わせで同じ棟の仙台城見聞館は前回も入ったことがある。
コロナウィルスの影響か、閉館間際のせいか、誰もいなかった。
ビデオを見て若林城の場所を確認。いまの宮城刑務所の場所。
一人で見るのに音がびっくりするほど大きかった。
仙台城の要害ぶりがよくわかる。
360度のうち330度くらいは崖で囲まれている。
2006年に来た時も竜の口の崖を見に来た。
これで南側の防御は完璧。
愛知揆一
懐かしい名前である。子供のころ聞いた記憶はあるが、具体的に何をしたか知らなかった。沖縄返還の時の外務大臣という。こういう公的な場所に政治家の像を建てていいものだろうか?
近くに西南戦争、日清戦争戦没者を慰霊する昭忠碑があった(明治35年設置)。こういう公的なものなら不自然でない。それにしても昭という文字は昭和まであまり使われなかったといわれているので意外だった。
滝廉太郎は岡城を、土井晩翠は青葉城をイメージしたというが、どこの景色だろう?
この石垣は97年から2000年に解体修理したこともあり、東日本震災でも崩れなかった。
本丸から三の丸、清水門に降りる道
清水門跡
築城初期の石垣といわれる。
三の丸、仙台市博物館の前に林子平の記念碑。
そしてここにも魯迅の像があった。
中国の人、2人が写真を撮っていた。
魯迅は後年国民政府を非難した左翼的愛国者として(この時期の左翼は嫌いではない)、中国共産党が最も好きな文化人である。
像は2001年紹興市人民政府が寄付、日中友好のあかしというが、中国側が自国偉人の顕彰を望み、日本側自治体が例によって喜んで受け入れたようにみえる。
仙台での魯迅は、92年に魯迅像が片平キャンパスに設置され、98年江沢民が医専階段教室を訪問、留学100年の2004年には魯迅のいた下宿を仙台市が取得、観光地化し、2011年には東北大史料館に魯迅記念室が設けられた。今はインバウンド中国観光客の人気スポットである。
実は阿Q正伝はじめ、作品は読んだことがない。
三の丸は子の門から出る。なるほど、三の丸の北である。南東には巽門がある。
五色沼の横にでて一周した。
なお、本丸への登城路は、大手門、中の門をへるのと巽門、三の丸、清水門、沢門を経るルートがあり、当然後者の方が古い。
道路を渡り、国際センターは一門の登米伊達家、水沢伊達家の屋敷だったが、明治以後は第二師団傘下の工兵第二連隊の跡地。
再び大手門を入り入城、二の丸にいく。
本丸と違い、市街地に近く土地も広いから江戸時代から、明治以降も戦前、戦後を通じ最も利用された地域である。
多門櫓
あちこちで石垣が崩れたらしい。
津波ばかりに目が行くが、相当揺れも大きかったようだ。
支倉常長像(1571‐ 1622)
1613年10月アメリカ経由でヨーロッパに行き、1620年9月帰国した。
しかし日本ではキリスト教の弾圧が始まっており、通商が始まることはなかった。
伊達家の当主は二の丸に居住し、政務もここで執られた。
今は東北大学川内キャンパスになっている。
法、文、経、教、と文系4学部と図書館がある。
春休みとはいえ学生がいない。文系だからか。あるいはコロナのせいか?
仙台城周辺すなわち広瀬川の西、青葉山のまわりはたぶん県有地、私有地、大学用地が入り組んでいるだろうが、少なくとも見た目はキャンパスと城址公園、国際センターなどが一体となっている。広いし、観光地化されていないし、素晴らしい環境。
なお、理系が集まる青葉山キャンパスはもう少し上(西)のほうで、ここからも行けるが、私が怖い思いをした本丸を回り込む道路からも行ける。
戦時中の食糧不足の時、ここにあった第二師団が青葉山を開墾した。終戦後大陸からの引揚者が入植、そのあとに東北大が移転したのである。だから山林を切り開いたわけではない。
(続く)
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