2020年3月13日金曜日

仙台1 片平の帝大

3月9日、翌日の業務のため仙台に来た。
大宮からノンストップの67分。
東口は初めて降りる
いくら裏の東口とはいえ、駅隣接の広い駐車場にびっくり。
ヨドバシカメラの専用駐車場だが、一般車も止められる。

ホテルはレオパレス仙台。
アパート経営ではあまりイメージ良くないけれども、ホテルはきれい。
ロビー
階段などは木をふんだんに使い、壁も美しさを意識している。
機能重視、コストだけ考えて作られた味気ないビジネスホテルとは違う。
広いロビーや豪華さを競うような有名ホテルとも異なり、おしゃれで居心地がよい。
10年前にオープン、震災でヒビが入り雨漏りする箇所があるというが、全くそんな様子は見えない。
コロナウィルスで客がいないのか、従業員はたいそう愛想が良かった。
翌朝撮影
ダブルの部屋で定価11,000円、ネットだと7000円程度という。
テーブルも広く、私がふだん泊まるビジネスホテルよりずっといい。

レオパレスは首都圏で不動産仲介業をしていたミヤマが、1985年、敷金無料型賃貸マンションのレオパレス21事業を開始してから発展、2000年に社名をレオパレス21に変えた。87年か89年、妹が北浦和のレオパレスに入ったことを思いだした。

部屋で仕事しようと思ったが、まだ明るかったので街を歩くことにした。
仙台駅東口
東口から西口に向かう連絡通路もあか抜けている。

こちらが表玄関の西口
仙台には過去3回来たが、市内を歩いたのは1991年、2006年の2回。
91年は仙山線東照宮駅のそばに泊まり、ほとんど東北大青葉山キャンパスの学会会場にいたから街の記憶がない。

2006年はよく歩いていくつか記憶に残るが、もう14年前だ。
サンモール一番街
これと直行して東西にもアーケードがある。

2006年に訪ねた東北大学片平キャンパスに向かう。
北門から入る
ここはメタセコイアと黒松の並木が良い感じ。
門柱がないが裏口というわけでもなく、市街地から自然と大学に入ってしまう。

魯迅が学んだという仙台医専の階段教室
見た通り平屋であるから、階段?と思うが、写真を見れば、東大医学部の講義室のような急角度ではなく、傾斜はゆるやかである。
1904年築。
魯迅はこの年9月に入学、1906年自主退学し上京。1909年清に帰国。

1998年江沢民国家主席が見学したように、インバウンド中国人にも人気の観光スポットらしい。
白い標柱を見れば、医専の階段教室はのちに理学部化学科講義室になったようだ。

仙台医専は、千葉、岡山、金沢、長崎と同様、旧制高等学校付属の医学部が1901年分離独立したもの。建物、校地は(帝大予科となった)旧制第二高等学校と共用した。
1912年、東北帝国大学に吸収され医学専門部となり、1915年東北帝大医科大学へ昇格した。
メタセコイアの向こうにしゃれた校舎
近づくと東北大学史料館だった。
2006年、ここに入った。
企画展として星陵(大学病院看護師寮)のひな人形のセットが飾られていた。
史料館は1924年(大正13年)に図書館本館として建設されたもの。
残念ながら閉館。
工事のためではなく、コロナウィルスの影響らしい。

魯迅の像。
このあたりに仙台医専があった。階段教室は移築したもの。

史料館に入れないので他の建物を見て歩く。
2006年の記憶はほとんどない。
東北帝大理学部化学教室はいま大学本部になっている。

片平キャンパスは古い校舎が残る。

1992年に片平、雨宮(農学部)キャンパスを売却、青葉山県有地へ全面移転する計画が浮上した。しかし県有地(ゴルフクラブが使用)の売却問題が長引くうちに、1998年、二人の市民が「片平たてもの応援団」を立ち上げ、歴史建造物の重要性を訴えた。

大学人というのは昔から毎日見て来た風景に麻痺して、古いものを平気で壊して建て替える。
こういった市民運動が大学の政策決定に影響したのだろう。売却される県有地が当初より狭くなったこと、バブル崩壊で売却益が移転費用を賄えないこともあり、全面移転は見直され、多くの歴史建造物が残った。
金属材料研究所と本多光太郎先生像
本多は当時世界最強の永久磁石であったKS鋼、新KS鋼を発明し、1932年のノーベル賞候補にもなった。なおKSは多額の資金を寄付した住友財閥の住友吉左衛門のイニシャルである。

高い建物もなくゆったりとして外国の大学のよう。

まだ使えるようなものが廃棄されている。
東大なら自転車に乗せて持って帰るのだが。

東北帝大理科大学創設の地
東北大は伝統的に理科が強い。
旧制第二高校も、たいてい文科2クラス、理科5クラスだった。
そして、東北帝大は1911年、理科で出発した。

すなわち、1907(明治40)年、3つ目の帝国大学を作るにあたり、札幌農学校を農科大学に昇格させ、二高のあった仙台に理科大学を設置し(1911年開学)、二つ合わせて東北帝大とした。初代総長は信州松本出身の澤柳政太郎。
この辺りの話は14年前、史料館で詳しく見た。

離れた2つの都市で1大学というのは、今なら違和感あるが、昔はたとえば一高(東京)、三高(京都)、五高(熊本)の付属医学部はそれぞれ千葉、岡山、長崎にあったし、1910年の九州帝大のもとになった福岡医科大学は1903年、京都帝大の第二医科大学として出発している。

もともと1900年に九州、東北、北海道に帝大を設置する案が議会から政府に出されたが、予算不足で実現しなかった。
1906年になって札幌農学校を核に理工科大学と予科を新設し北海道帝国大学とする案が文部省に陳情されたが、東北帝大を目指す東北出身の代議士に反対され、結局、札幌と仙台にひとつずつ分科大学を置くことになった。
農科大学が分離独立して北海道帝大ができるのは1918年である。
なにやら良い感じの建物。
旧第二高等学校書庫である。

黒松が同じ方向に傾いているのはなぜだろう?

生協も安っぽい平屋だが板壁で歴史がある。
インド中近東方面の人たちがおしゃべりしている。
昔なら留学生だが今は工事など作業者も外国人になっているから、どういう若者か不明

温室がある。
ここは学部横断的な大学院、生命科学研究科の裏に当たる

西の正門近くの大イチョウ

東北大学正門
ここから出ると商店どころか人家もあまりない。駅が近いわけでもなく利用者もいない。
門というのは城でも屋敷でも大事なものだが、裏門のような雰囲気。
片平キャンパスの唯一残念なところ。

大学正門を出て塀に沿って歩く。
右が大学、左が広瀬川の絶景。
東京ならばしゃれた店を開く一等地であろう。
ふと、キャンパスに運動場がなかったことに気が付いた。
地図を見たら広瀬川ほとりに東北大学評定河原陸上競技場というのがあった。

(続く)

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