2020年3月30日月曜日

築地本願寺、真宗と浄土真宗のちがい

3月25日銀座にいった。
有楽町からの晴海通りを東へ。銀座4丁目交差点、歌舞伎座を過ぎ、
目的地、築地本願寺到着。
と言っても目的はないのだが。
2020-03-25 
あれっ? こんなに広々していたっけ?
むかし、雨の中歩道を歩いたとき、もっと何かあった気がする。
塀がもう少し高かったとか、歩道側に建物とか樹木があったとか、なんか違う。

帰宅後調べたら記憶は正しかった。
国土地理院地図 2014年4月撮影。
歩道側に樹木。まだ北側のカフェはない。

2001年9月1日、中島宏通さんの通夜に来ている。
個人的には話をしたことがなく関係は薄かったのだがダンス練習の帰りお参りにきた。黒ネクタイはしたが、ほかの人は土曜日でみな自宅から礼服できて肩身が狭かった。
それから
2012年1月30日、聖路加病院、築地市場を歩いたとき、横を通っている。
2020-03-25 
本願寺というよりイスラム、インドの寺院を思わせる。
正面の空間も寺の境内というよりヨーロッパの寺院広場みたい。
 
もともとこの寺は1617年、西本願寺の別院として日本橋横山町に建てられた。しかし明暦の大火(振袖火事)で本堂を焼失。その後、幕府による区画整理のため再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。
そこで佃島の門徒が中心となり、海を埋め立てて土地を築き(築地の由来)、1679年に再建。
なお、このときの本堂は西南を向いて建てられ、いまの場外市場のあたりが門前町となった。
goo地図(明治40年ころ)
今の場外市場のところは赤いのがすべて子院、灰色は墓地だろう。

1923年関東大震災では、倒壊は免れるも、火災で再び伽藍を焼失。
58あった子院は、被災後の区画整理により各地へ移転した。
江戸時代以来の佃島の人の墓なども杉並区の和田堀廟所に移転した。

1934年、今度は西北を向いて本堂竣工。
もらったパンフレットに大谷光瑞と親交のあった東大・伊東忠太による設計とある。

はて? 大谷光瑞は西だったか、東だったか。
大谷光瑞は浄土真宗本願寺派第22世法主。本願寺派というのは西本願寺。
正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺(西はつかない)。
親鸞の死後、浄土宗から分かれて以来、延暦寺など既存宗派から迫害を受け各地を転々としたが、1591年、大阪から秀吉の寄進で現在の堀川七条にきた。

一方東本願寺は、真宗大谷派。寺の正式名称は真宗本廟(山号なし)。
1602年、家康から烏丸七条の寺地を寄進された。

光瑞は西だが、大谷派は東であるからややこしい。
なお、親鸞の墓所、東山の大谷本廟は西本願寺である。

広い石段を上がり、本堂に入ると伝統的な日本寺院。

伊東忠太(1867-1954)は、辰野金吾や曾彌達蔵の次の世代である。西片に住み、千駄木の近所では東大正門や清水橋などを設計した。それまでの造家学を建築学と改めた人。

振り向けば大きなパイプオルガン。
月1回、最終金曜にランチタイム無料コンサートがあるらしい。

本尊阿弥陀如来に向かって左(北側)には講堂があるようだが公開されていない。
はて?中島さんの通夜はどこだったのだろうか、とあちこちきょろきょろする。

本堂から地下と錯覚する1階におりると、寺というより大震災後に建てられた大学の建物みたい。
たまに僧服をきたひとが忙しく歩いているのが見える。
本堂の下(1階)

ところで一向宗、浄土真宗、真宗の違いは何か?

浄土真宗の宗旨は、他力本願。阿弥陀仏の智慧と慈悲のはたらきを拠りどころとする。浄土宗から分かれ、戦国時代までは一向宗といったが、幕府により時宗と一緒にされいったん時宗一向宗と改称、のちに一向宗が公式名称とされた。

しかし江戸時代、東本願寺が一向宗という幕府公称を浄土真宗に変更するよう請願した。ところが浄土宗の大寺、将軍家の菩提寺・増上寺が混同を招くと反対。ようやく明治になって政府が一向宗の宗名を「真宗」とする旨定め、最終的に決着するまで1世紀かかった。

いま、東本願寺は真宗、西本願寺は浄土真宗である。
現在では、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ昔からの一向宗教団は10派存在する。

真宗興正派(興正寺)
浄土真宗本願寺派(本願寺)
真宗大谷派(真宗本廟、東)
真宗高田派(専修寺)
真宗佛光寺派(佛光寺)
真宗木辺派(錦織寺)
真宗出雲路派(毫摂寺)
真宗誠照寺派(誠照寺)
真宗三門徒派(専照寺)
真宗山元派(證誠寺)
つまり、浄土真宗を名乗っているのは、西本願寺だけである。

外に出ると親鸞聖人像のほかに、きれいに整備された道路側の塀に沿って酒井抱一墓などが記念碑のようにあった。

九条武子の歌碑があった。
武子は西本願寺第21世法主・大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれた。つまり大谷光瑞の妹である。1909年に九条良致と結婚、才色兼備の歌人としてもてはやされたが、42歳で亡くなった。

なお、公爵九条道孝の子は道実(公爵家を継ぐ)、範子(山階宮菊麿王妃)、良政(男爵、鍋島茂子と結婚)、籌子(大谷光瑞妻)、節子(大正天皇皇后)、良致(男爵、大谷武子と結婚)など。

北側に新しくインフォメーションセンターができている。
ずいぶん開かれた寺のようだ。
中にブックセンターやカフェがあった。ショーケースの中に18品の朝ごはん(1944円)を見つけた。これは人気でテレビでも見たことがある。しかしカフェは思ったより狭く、これでは行列になるだろう。

道路側には合同墓も作られていた。
これらのために木が切られたのである。

寺も墓を求める人も必要に迫られてのことだろう。
公式サイトをみれば
・合同区画にお預かり30万円以上
・個別保管6年間まで(その後、合同区画にお預かり)50万円以上
・個別保管32年間まで(その後、合同区画にお預かり)100万円以上
とある。


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2020年3月29日日曜日

中野サンモール、まんだらけ、私の蔵書漫画

昨日のアド街ック天国で中野をやっていた。
2019年12月25日、仕事で中野に行った時の写真を整理してなかったので、ここにまとめておく。
2019-12-25
この駅は出るといきなりサンモールの入り口。

そのまま濡れずにアーケードに入っていける。

2019-12-25
かつてはサンプラザへ行くには駅のすぐ西の広い通りを渡ったのだが、いまはデッキと一体となった歩道橋がある。

2019-12-25
中野サンプラザは1973年竣工。
この一帯の再開発前、お犬屋敷から陸軍中野学校については以前書いた。
(別ブログ)

そのとき書かなかった中野サンモールの写真を載せておく。
昨日のアド街でもいっぱい出てきた。
2019-12-25
都内ほとんどの商店街は寂れているが、ここは珍しいほど賑やか。
衣料品、レストランなど、駅ビルにあるような店が並んでいる。


学生、若者だけでなく一般人も住みやすそうな町だ。

脇に出ると、味のある飲食店が多い。
昨日のテレビではラーメンがうまそうだった。

昭和のまま


再びサンモールに戻り、北上する。

道路がそのままブロードウェイというビルの通路に入っていく。アーケードからつながっているから道路と室内の区別が分からない。駅改札から一直線である。

ブロードウェイ、名前といいビルといい、昭和っぽい。
中野そのものが昭和らしい。
ブロードウェイにはなぜか高級腕時計の店が多かった。
外国人も結構いる。
並行輸入品と中古品であるが、100万、1000万円以上するものも多く、時計の聖地として知られる。

しかし中野ブロードウェイといえばオタクの聖地。
まんだらけはローマ字である。

ウィキペディアによれば、
『ガロ』で安部慎一、鈴木翁二と並び「ガロ三羽烏」や「一二三トリオ」と称された漫画家の一人・古川益三が、1980年(古川益三『まんだらけ風雲録』によると1982年)に中野ブロードウェイに漫画専門の古書店「まんだらけ」を開店したのが始まり。

相場が確立していなかった漫画本に対し、希少価値を考慮した価格設定を行い、古書としての取引相場の基準を作った。
という。
ブロードウェイをあるくと各階に何店舗もある。
コミックだけでなくフィギアなども。
全部中野店なのだが、
1F 1 門
2F 16 DEEP館、ミクロ館、コスプレ館、UFOなど
3F 6 本店、スペシャル3館、インフィニティなど
4F 9 へんや、海馬、こんぺいとうなど
32店舗入っている。
ただブロードウェイ自体はシャッターのおりたテナントスペースも目立つ。
2019-12-25

しかしまんだらけを見てもなんとも思わなかった。
昔来ていたら懐かしいコミックに感動したかもしれない。

30年位前、古本屋で懐かしい漫画を買い集めたことがあった。
キャンパスクロッキー、バンパイヤ、トーマの心臓、魔太郎が来る、プロゴルファー猿、めぞん一刻、、、
 銭ゲバ、紫電改のタカ、ゼロ戦レッド、12の三四郎、青の6号、翔んだカップル、

 包丁人味平、元気です俊平、アストロ球団、柳沢きみお、土佐の一本釣り、、
天晴れ桜田、少年の国などは井浦秀夫先輩に頂いた大事なもの。

 
 後ろの百太郎、海商王、男大空、ダッシュ勝平、魔物語、みこすり半劇場、ヒット&ラン、長男の時代、ズウ、一生懸命ハジメくん、

老後はもう新しい本は読まずに、お茶飲みながらこれらを読んでいこうかな。

 
あばれ天童、バビル2世、漂流教室、釣りキチ三平、伊賀野カバ丸、鉄平、

このほかに課長島耕作全巻と沈黙の艦隊全巻をそれぞれ中心にした段ボールが2箱ある。

多くは10代、20代にリアルタイムで読んだのだが、90年代に懐かしさを求めて古本屋で買いあつめたもの。まだダンスも歴史散歩もしておらず古本屋巡りが趣味だった。

ただし萩尾望都「百億の昼と千億の夜」、のがみけい「ナイルの鷹」などは70年代に東大生協のサービスカウンターで注文した。
20代のころの趣味は歌謡曲の録音と漫画だった。

 

別ブログ
20200221 中野刑務所跡、新井薬師
20191230 中野の犬屋敷、陸軍中野学校、帝京平成

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2020年3月28日土曜日

銀座4丁目交差点の和光、三愛、

3月25日銀座にいった。
有楽町からの晴海通りを銀座4丁目交差点に向かう。

交差点、東南の角は銀座プレイス
1911、築地精養軒がカフェーライオンを開業、
1931、経営が大日本麦酒にうつる。
1945、戦災で焼失。バラック、改装、、
1970年、サッポロ銀座ビル竣工。
2014年解体、2016年新ビルでオープン。
日産ショールーム、ライオンビアホールなどがはいる。

2020-03-25 
北東の角は三越銀座店。ライオン像は見なかった。
本店は三井の本拠地日本橋。

振り向いて北西は和光本店
時計、宝石、衣料品だけでなくケーキなど食品も売っているらしい。
明治27年初代時計塔竣工(服部時計店)。
建て替え中に関東大震災、
1932(昭和7)年6月10日、時の記念日に合わせ現在の建物が竣工。
戦後1947年、服部セイコーの小売部門を継承する形で株式会社和光が設立された。

2020-03-25
南西は三愛ビル。
三愛ドリームセンターというらしい。
上にリコーの広告があるのは、三愛もリコーも市村清が創立しグループを形成していた名残だろうか。

佐賀出身の市村は1900年生まれ。
1929年、縁あって理研が開発した感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、業績拡大した。
1933年、理研所長・大河内正敏から理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。
1936年、理研感光紙(株)として独立。取締役就任。
1937年、理研光学工業に改称、(1963リコーと変更)。
1945年、戦後、三愛商事を設立、銀座4丁目角の土地を取得、食料品店を開業。後に婦人服専門店に転業した。
1963年、ガラス張りの三愛ビル竣工。
1968年、市村死去
2015年、水着、下着などはワコール、婦人服は名古屋のアイリンに売却。
銀座本店、ビルも売却したが、San-aiの文字は3階の壁に見えた。

やっぱり銀座は立派だな~
中国人が買い物に来るのも分かる。

しかし、銀座は私には敷居が高い。
最近は長女の結婚式のモーニングの衣装合わせ、次女の結婚相手の家族との食事会など、この交差点は通るが、目的地以外立ち寄らない。
よそ者だから、のんびり、ぶらぶらすることがない。

死ぬまで和光で買い物することはないだろう。
一流の品を使うという人間にはならなかった。
金がないわけではないのだが、使い捨てのような安物を壊れるまで使ってきた人生。

一度くらいライオンに入ったことがあるかもしれないが池袋と記憶が混じっている。
しかし敢えて入る気はないし、日産ショールームのほかに何があるのだろう? 探検する気も起きない。三愛ビルも入ってみる好奇心がない。
三越はもっと興味がない。

・・・・
この場所に初めてきたのは覚えている。
1975年5月。
高校卒業して上京、1か月たったころ。
同時期にやはり信州中野から上京したHさんとデートした。
妹の高校の先輩で高3の文化祭のとき顔を見たことがあるだけ、手紙のやりとりのあと実際に会ったのはこの日が初めてだった。
上野公園にいったのだが、特にプランもなかった。上野広小路が歩行者天国になっていて、おしゃべりしながら歩いていたら、秋葉原、神田を過ぎ、日本橋から銀座に入っていた。銀座4丁目の交差点を過ぎ、新橋から電車に乗って別れたはずである。

御徒町のマックで彼女が「あっ、シェイクだ。食べたい」といった。
私には初めて聞く食べ物だった。彼女は何で知っていたのだろう? 一か月で覚えたのだろうか?
まだ女性にも都会にもなれておらず、マックでは大勢の人がみな並んでいないので、いつまでたっても注文できなかった記憶がある。

オシャレな彼女とは続かなかった。
続いていたら、もう少し身なりに気配りし、まだ何にも染まっていない初期のころからセンスのある学生生活となり、ひょっとしたら銀座にも慣れたかもしれない。
銀座に来るようになっていたらずいぶん違う人生になっていたのではなかろうか。

3年前、朝の畑仕事を終えてから自転車で日本橋まで来て、三越本店の立派さに驚き、自分のみすぼらしさが恥ずかしく、どこにも寄らずに帰ったことがある。
45年前と変わっていない。

和光にすっと入っていける人をうらやましく思う。



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2020年3月24日火曜日

谷中墓地4 東大・千人塚と土井利与墓

3月22日、三連休最終日、コロナで遠出、イベント自粛は続くが、慣れて来たのか、テレビでは上野公園を歩く花見客を写していた。
ダンス練習場、日暮里ファーストプレイスは通常通り営業している。
そのまえに駅の反対側、谷中墓地に立ち寄った。

なお、谷中霊園というときは都立霊園をさし、寛永寺墓地、天王寺墓地をあわせて谷中墓地という。
2020-03-22 16:27 谷中墓地 七分咲くらい?

せっかく来たのでいつも歩かない西側の天王寺墓地にお邪魔する。
墓地の出入り口、すなわち日暮里駅さらには根津や上野、観音寺築地塀、芋坂、御隠殿坂に行く通り道ではないので普段通らない。
いつものように何の目的もなく墓石を見て歩く。
この区域は40年前一度くらい入ったかもしれないが、千駄木に引っ越してからは初めて。

急に広いところに出くわした。
近づくと東京大学医学部 納骨堂とある。

16:31
ドームと尖塔は朝倉彫塑館やウエムラショウゾウのある銀杏横丁からも見えていた。
しかし前に立つのは初めてかもしれない。
お彼岸だから生花と天王寺の桶がある。

ふと東隣に古い石塔があった。
16:36
大きく「千人塚」とだけ書かれた石塔が3本

中央の塔の横
明治三年十月至十三年九月在東京大学医学部〇剖觀屍體計一千有裨益于医学不為鮮
仝?十四年六月建石于其埋廃之處以表之
東京大学医学部総理正五位勲四等 池田謙斎題
東京大学医学部解剖学教授 田口和美記

最初の解剖が行われた明治3年は大学東校と呼ばれていた。
7年、東京医学校、
9年、神田和泉町から本郷に移転
10年、開成学校と合併、東京大学医学部。
19年、東京帝国大学医科大学となった。
(だから左の塔、下の写真では医科大学となっている)
3塔の向かって左は
明治十三年九月至二十一年九月、剖觀屍體計一千有裨益
右は
明治二十一年九月至三十七年八月 剖觀屍體計一千有裨益

つまり、千人塚の文字通り、解剖された人の骨を千人ずつ埋めたのである。
最初の1000人は10年、次の1000人は8年、次の1000人は16年。
16:46
3つの塔の右手前に小ぶりの塔があった。
明治三十七年八月十七日より大正14年まで862体。
そのご、西側の大きなドーム型納骨堂に収めたのであろう。

彼岸のときだからか、草もなく清められていた。

なお、順天堂大学の解剖供養塔は吉祥寺にある。(別ブログ)

東大納骨堂の南に大きな墓があった。
大きく戒名しか彫ってないので誰だかわからない。
16:50 
裏に回ると、右の墓は
子爵土井利與 昭和四年一月二日薨享年七十九 とあった。
子爵は小藩の大名、「利」の字、昭和4年で79歳なら、下総古河の最後の藩主だろう。

帰宅後調べたらの確かに土井利勝以来の宗家14代目である。
しかし8万石だったから伯爵でもよかったはずだが。

明治以降も本駒込の古河藩下屋敷跡(駒込曙町、別ブログ)に屋敷をたて住んでいた。明治42年の地図で中山道を挟み酒井邸と斜めに位置している。

ウィキペディアを見たら墓所は古河市大手町の正定寺とあった。あちらが正式なのだろうか。
2020-03-22 16:54
午前中畑仕事をしたので疲れが残っている。
余り歩くと練習できないので切り上げた。
練習場は地下2階、みな激しく動き回っているから誰か一人感染していたら全員うつるだろうな。

別ブログ
20170531 谷中墓地3 寛永寺の新規墓地分譲
20170527 谷中墓地2 佐藤泰然の墓さがし、代々の善甫、良甫
20170527 谷中墓地1 徳川重好、伊達宗城、佐藤尚中

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2020年3月18日水曜日

善光寺坂とムクノキ、幸田露伴から四代

3月8日、雨。
堀坂を上って下り、
堀大膳坂をのぼり、六角坂を下って、次の坂道へ。
緩やかに上る善光寺坂。
江戸時代はこの辺りから伝通院の敷地で、
近吾堂版、小石川辺図には坂下に裏門が書いてある。
写真のあたりは塔頭の瑞真院があった。
明治25年巣鴨に移転、そのあとまっすぐの坂ができた。

中ほどに善光寺。
もとは伝通院の塔頭、1602年創建の縁受院であったが、明治になって独立。善光寺月参講を組織して栄えた。明治17年、善光寺と改称し信州善光寺の分院となった。
だから坂名は明治以降である。
江戸時代の坂は北から蛇行し、縁受院、慈眼院の前を通り伝通院本防の前に通じた。

善光寺本堂
「手が二つ」は「拝」の旧字である。
私が国語の先生で「拝」の字を教えるなら、手を二つ書いて、左の横棒1本を右にスライドさせれば新字となる、と教えようかな。
巡拝講とは善光寺参りのことだろうか?

善光寺のすぐ上(隣)は澤蔵司稲荷 慈眼院
2020-03-08
この坂を上がって左(南)は伝通院の学寮があった。
江戸初期、学寮に澤蔵司(たくぞうす)という修行僧がおり、優秀でわずか3年で浄土宗の奥義を習得した。
ある夜、学寮長極山和尚の夢枕に立ち、
「われは太田道灌公勧進せる千代田城の稲荷大明神なり。今より当山を守護するから境内に祀るべし」といった。
そこで1620年、伝通院では稲荷神社を作り、慈眼院を別当寺にしたという。

これは澤蔵司稲荷公式サイトの説明だが、他にも尻尾を見られたなど他の説がある。

狐の親子が遊ぶレリーフ

これも親子。赤いよだれかけ。
ところで地蔵のよだれかけはよく目にする。
死んだ我が子をあの世で守ってもらうために使っていたものを掛けたと聞いたが、お稲荷さんにまで掛けるのはなぜか? 

稲荷神社の本殿ではなく、慈眼院本堂らしい。
右奥に狐が住んでいたという霊屈「お穴」があるらしいが、気づかず行かなかった。

明治20年ころ善光寺坂は広げられて、坂上にあったムクノキが切られそうになった。

しかし澤蔵司の魂が宿る神木ということで切られず、
平成元年頃までは木をはさんで左右共に車の通行が出来たという。
迷信の残る明治だから切られなかったが、今だったらどうだろう?

樹齢400年、樹高13メートル、幹周5メートル(我が家の桜は3.1メートル)
大正時代の調査では高さ23メートルもあったという。
しかし昭和20年5月25日の空襲で上部が焼け、危険なため昭和30年代に3分の2ほど幹が伐採されたらしい。
椋の木が枝を伸ばす写真左の家は有名だ。

幸田露伴(1867-1947)は正岡子規・尾崎紅葉・斎藤緑雨・夏目漱石・南方熊楠・宮武外骨らと同じ慶応3年生まれ。
谷中天王寺をはじめ転居が多かったが向島の蝸牛庵を気に入っていた。しかし震災で井戸に油が浮くようになり、大正13年伝通院のそばに来た(小石川表町66番、現小石川3-3-8)。小石川は妹の延子、幸子、樋口一葉の妹、邦子がおり便宜を図ってもらったといわれる。

そして昭和2年(1927)ここ表町79番(現小石川3-17-16)に移り小石川蝸牛庵とした。
蝸牛は家を背負い簡単に引っ越すが、ここに落ち着いた。

昭和13年(1938)、幸田文(1904~1990)が離婚、一人娘の玉をつれて露伴のもとに身を寄せ3人の生活が始まる。(露伴の子は3人いたが2人病没、一人娘、一人孫である)
20年3月、3人は信州坂城に疎開。
  5月、空襲で小石川の家焼失。10月伊東へ。
21年1月 千葉市川市菅野へ
22年7月 露伴、市川で没
22年11月、文と玉がここ、椋の木の前に戻り新居を再建した。


幸田文は平成2年になくなったが、表札はまだ「幸田 青木」のままである。
露伴、文、青木玉(1929~)、青木奈央(1963~)、4代の作品がこの椋の木の前で書かれている。昔はそれこそ枝が道、庭を覆い、窓のすぐそばまで来ていたのではなかろうか。

西側にも門。こちらは表札があるが白いまま。

どちらが正門だろう?と前回来たとき同様に思った。
というのは、青木玉のエッセイにあった、母・幸田文の葬儀(平成2年)のことを思い出したからである。

幸田文は葬儀のときは古くから庭を見てもらっていた植木屋に頼むように遺言していて、青木玉が連絡すると、親方がピシッとした服装(作業着?法被?)で手下を引き連れ、庭を掃き、参拝者が上の門から祭壇の間、下の門まで下りる仮設スロープを作ってくれた。玉はどうしても自宅で母を送りたかったが、葬儀業者は会葬者が多すぎてここでは無理という。しかし作りつつあった仮設スロープをみて、なんとかやりましょう、と言ったそうだ。
その日は、椋の木の周りが喪服姿の人だかりで善光寺坂は通行止めになったらしい。

2014-10-19
葉っぱの落ちた写真ばかりなので昔撮った椋の木をのせておく。
千駄木に引っ越して1年半たったころ、文京区の胃のレントゲン(無料)で東京健生病院に行った帰り、小日向あたりの住宅地を自転車で回りながら帰路、ここを通った。
こころなしか、葉っぱのせいだけでなく、樹勢も今より強く見える。
2015年9月のミニストップ巡りでも来ているから2020年は3回目。

埼玉にいたころ、本郷小石川に憧れていたから、捨てずにとってあった。
左の椋の木は安野光雅である。

もうすっかり忘れているので通勤電車で読んだら、青木玉は(1961年長男が生まれてから)3軒隣に住んでいたようだ。
そして、玉の夫がムクノキの下で葬儀のあいさつとして幸田の名跡は息子に継がせると話していた。
調べたら、夫は青木正和(東大医卒、結核研所長など ~2010)。息子は幸田尚(東大農芸化学卒、もと東京医科歯科大准教授、いま山梨大教授)である。
「幸田・青木」という表札の疑問がこれで解けた。


別ブログ
20200317 大膳坂、六角坂と立花隆の猫ビル
20200311 堀坂と違法マンションの今
20200310 こんにゃく閻魔と皮膚病の木
20191218 上野・本郷、全126坂道の一覧、ランキング

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