2020年2月21日金曜日

中野刑務所跡、新井薬師

2020年2月17日、年末に続き、中野共立病院での面談。

中野駅北口の陸橋
銘板をみると2012年6月建造とある。
その6月15日、Tさんと来ているが、橋も工事現場も記憶にない。

今回はこの道を北上、中野刑務所跡を訪ねる。
住宅街の中、
2020-02-17 
矯正会館、矯正協会の本部である。

1888年、監獄官吏・刑事司法関係者・国会議員などが会員となり会費を出し合って創立した大日本監獄協会を前身とする。
1900年、監獄協会に改称。
1922年、刑務協会に改称。
1957年、矯正協会に改称。
2013年、公益財団法人に移行した。
監獄、刑務、矯正って全然違う言葉だけど。

ここから北西一帯が中野刑務所の跡である。
何か遺構がないかと、周囲を回ってみる。

監獄にしては低すぎるコンクリートの塀が見える。
ひと気がない。
解体するのだろうか、工事のフェンスで囲まれている。

保存されていた中野刑務所の正門が見えた。

市ヶ谷監獄が手狭になったことから1915年竣工、豊多摩監獄と称された。
とくに思想犯が収監され、大杉栄、荒畑寒村 、亀井勝一郎、小林多喜二、三木清、中野重治、埴谷雄高、河上肇、大塚金之助、戸田城聖などが知られる。

戦後、GHQが接収、1957年返還され中野刑務所と改称した。 
1983年、閉鎖。

妙正寺川に接する4万坪に及ぶ敷地は、法務省矯正研修所東京支所、水再生センター、平和の森公園になった。
体育館のような建物。矯正研修所が使っていのものか。
右は水再生センター。

矯正研修所というのは全国の刑務所で矯正に当たる職員の研修施設である。
ロゴマークが調教されているイルカのようだ。

ぐるっと西を周って南に来ると、梅の木の向こうに監獄正門が小さくみえた。
案内板もあるということは、以前は見学もできたということか。

見学できるかどうか矯正会館に入って聞いてみる。
正木亮博士像
売店のようなところを覗くと全国60の刑務所で作られた商品を売っている。
残念ながら月曜は定休だった。

誰もいらっしゃらなかったが、ひとり職員の方が歩いてこられたので聞いてみた。

法務局管轄の研修所は昭島に移り、建物は全て解体するらしい。
敷地はもうどこか別のところが所有しているらしく、私どものものではないので正門の見学はできませんという。中野区が小中学校を統合して学校を建てるといううわさがありますが、詳しくは知りません、と。

彼は親切にも外に出て、正門が見えるかもしれません、と水再生センターとの間の道に連れて行こうとしたが、いや、見てきました、と断った。
となりの水再生センターをぐるっと周って、平和の森公園に行こうとしたが、工事中のフェンスがはるかかなたまで続いていたので断念した。4万坪は広い。
10万坪あった水戸や金沢の上屋敷(後楽園、東大)より狭いのだが。

 中野駅に帰る途中、新井天神通りという道をとおった。
なるほど北野神社があった。

新井薬師公園は工事中

北の裏口から新井薬師に入るとなぜか聖徳太子像

東京都左官職組合連合会の中野支部が昭和35年に境内に建立したらしい。
「組合員鶴谷善平氏が 昭和34年10月5日より多忙の寸暇をさき 意に満つるまでの一念に折りをこめて制作したるもの」という。

「戦後建築職人の技能の低下が嘆かれ、特にわれわれ左官職も稍もすると技能を軽んじ、社会的にも軽視されがちな傾向多々ある今日、鶴谷氏これを大いに憂い、技能者養成指導員の技術に対する重要性の再認識と、次代をになう後輩諸氏が、聖徳太子の遺徳を遵じ奉ると共に、技能の向上を促す念願にて制作せるものなり」とあり、びっくり。

左官職人と言えば壁をできるだけ平らに塗るのが大事と思っていたから、このような造形技能を持つ人がいたとは驚いた。
本堂裏の会館
新井薬師は、新井山梅照院薬王寺と号する。真言宗豊山派。
西武新宿線の駅名だから名前だけは聞いていたが、初めて来た。

もちろん本尊は薬師如来。空海作という伝承は真言宗だから。
諏訪系神社の御柱みたいなものが立っている。
中野区最大の寺院という。面積だろうか?

足立区の西新井大師も同じ真言宗豊山派。
こっちが西新井で向うが東新井ならすっきりするのに。

足立区の西新井は、弘法大師ゆかりの井戸が本堂の西にあったということで地名になったそうだ。仕方がない。
こっちでも新しい井戸が本堂の東ででて、東新井大師なんて名づけたらややこしかっただろう。

裏から入り、最後に山門を出ることになった。

薬師あいロード
ゆっくり蛇行して古そうな道だが参道ではない。
駅そばのサンモールとはまた違うが、長く続く店もありそうで、中野区の住みやすさを感じさせる道である。駅まで10分くらいか。

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