2020年4月5日日曜日

築地市場と海軍発祥の碑

3月25日銀座にいった。
有楽町から晴海通りを東へ。
銀座4丁目交差点、歌舞伎座を過ぎ、
目的地、築地本願寺到着。(別ブログ)
と言っても目的はなかった。強いて言えば歩くこと。

本願寺南門から出る。
震災前はこちらが正門だったはずである。
goo地図(1907、明治40年ころ)
今の場外市場のところは赤いのがすべて子院、灰色は墓地だろう。

一帯は1923年の震災で焼けた。
帝都復興計画で晴海通りや新大橋通りなどの建設と区画整理が行われ、本願寺の子院や墓地、さらには南の海軍経理学校、海軍軍医学校が移転。
復興が一段落した1935年には日本橋の魚河岸が海軍跡地に移転してきて、築地市場となり、北に隣接する本願寺の塔頭のあったところは場外市場となった。

2020-03-25 16:33
場外市場はほとんどしまっていた。

前回2012年に来た時も午後この時間だった。
この時間はこうなのか、市場が豊洲に行ってから閉店したのか、コロナでインバウンド外国人観光客が減って閉店したのか、よくわからない。


何店かあるすしざんまいが客の呼び込みをしていた。

わずかに開いた店がある。
しかし、ほんとに歩いている人がいない。

この通りの左が築地市場のあったところ。
前回来た時の記憶はほとんどない。

そうだ、海軍発祥の地という碑があったな。
小さな神社の前にあったような気がする。
 
しだれ銀杏とは珍しい。
波除神社
明暦の大火の後、1659年、ここの埋立は困難を極めた。
堤防を築いても築いても波にさらわれた。ある夜、海に光って漂うものがあり、不思議に思って拾うと、稲荷大神の御神体だった。早速この地に社殿を作り祀ると、波風がピタリとおさまり、埋め立てはやすやすと進んだという。
文久元年だから幕末。海側に御軍艦操練所がある。
その向かいの道路脇にイナリ。波除神社の現在地である。

狭い境内に魚がし碑、活魚塚、鮟鱇塚、海老塚、すし塚などさまざまな石碑が並ぶが、海軍の記念碑はなかった。巫女さんにについて聞いたが二人とも知らないという。

海軍の碑は神社の南にあった気がするのだが、ぎりぎりまで場内市場の撤去工事がすすんでいる。
どこかに移転したのだろうか。

グーグルの航空写真はまだ往年の建物を映していた。

鳥瞰図にしてみていたら海軍発祥之地碑というものが映っていた。
記憶というのはいい加減なものだ。
波除神社でなく、ずっと西の場内市場の中ではないか。
そうか、2012年1月は、午後だったけれど市場のほうにも来たのか。

ストリートビュウが築地市場の中にも入っていた。
なんとなく記憶が戻ってきた。
小さな神社と思っていたのは、水神社(本殿は神田明神境内)の遥拝所だった。
日本橋以来の水産関係者が信仰する。

このあたり、江戸時代は稲葉長門守、一橋殿、松平越中守(白河、松平定信)、尾張殿などの屋敷があった。幕末、すぐ近くに軍艦操練所があったことから、明治になってこれら大名屋敷が海軍用地となる。
海軍省が置かれた大名庭園(白河松平家)の築山に海軍卿の旗が掲げられたことから、そこを旗山と称した。
日米開戦時の軍令部総長、永野修身の「旗山」と書かれた碑が水神社の前にある。
彼は海軍の三つの最高職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。A級戦犯とされ巣鴨で獄死した。
それにしても2012年私が行ったときは誰もいなかったのに、このグーグルでは魚河岸水神社遥拝所、海軍発祥の碑(旗山)などという小さく地味なものを多くの人が訪ねている。
ガイドブックでも見た外国人だろうか。



20200330 築地本願寺、真宗と浄土真宗のちがい 
20200328 銀座4丁目交差点の和光、三愛、


千駄木菜園 総目次

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