2020年3月30日月曜日

築地本願寺、真宗と浄土真宗のちがい

3月25日銀座にいった。
有楽町からの晴海通りを東へ。銀座4丁目交差点、歌舞伎座を過ぎ、
目的地、築地本願寺到着。
と言っても目的はないのだが。
2020-03-25 
あれっ? こんなに広々していたっけ?
むかし、雨の中歩道を歩いたとき、もっと何かあった気がする。
塀がもう少し高かったとか、歩道側に建物とか樹木があったとか、なんか違う。

帰宅後調べたら記憶は正しかった。
国土地理院地図 2014年4月撮影。
歩道側に樹木。まだ北側のカフェはない。

2001年9月1日、中島宏通さんの通夜に来ている。
個人的には話をしたことがなく関係は薄かったのだがダンス練習の帰りお参りにきた。黒ネクタイはしたが、ほかの人は土曜日でみな自宅から礼服できて肩身が狭かった。
それから
2012年1月30日、聖路加病院、築地市場を歩いたとき、横を通っている。
2020-03-25 
本願寺というよりイスラム、インドの寺院を思わせる。
正面の空間も寺の境内というよりヨーロッパの寺院広場みたい。
 
もともとこの寺は1617年、西本願寺の別院として日本橋横山町に建てられた。しかし明暦の大火(振袖火事)で本堂を焼失。その後、幕府による区画整理のため再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。
そこで佃島の門徒が中心となり、海を埋め立てて土地を築き(築地の由来)、1679年に再建。
なお、このときの本堂は西南を向いて建てられ、いまの場外市場のあたりが門前町となった。
goo地図(明治40年ころ)
今の場外市場のところは赤いのがすべて子院、灰色は墓地だろう。

1923年関東大震災では、倒壊は免れるも、火災で再び伽藍を焼失。
58あった子院は、被災後の区画整理により各地へ移転した。
江戸時代以来の佃島の人の墓なども杉並区の和田堀廟所に移転した。

1934年、今度は西北を向いて本堂竣工。
もらったパンフレットに大谷光瑞と親交のあった東大・伊東忠太による設計とある。

はて? 大谷光瑞は西だったか、東だったか。
大谷光瑞は浄土真宗本願寺派第22世法主。本願寺派というのは西本願寺。
正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺(西はつかない)。
親鸞の死後、浄土宗から分かれて以来、延暦寺など既存宗派から迫害を受け各地を転々としたが、1591年、大阪から秀吉の寄進で現在の堀川七条にきた。

一方東本願寺は、真宗大谷派。寺の正式名称は真宗本廟(山号なし)。
1602年、家康から烏丸七条の寺地を寄進された。

光瑞は西だが、大谷派は東であるからややこしい。
なお、親鸞の墓所、東山の大谷本廟は西本願寺である。

広い石段を上がり、本堂に入ると伝統的な日本寺院。

伊東忠太(1867-1954)は、辰野金吾や曾彌達蔵の次の世代である。西片に住み、千駄木の近所では東大正門や清水橋などを設計した。それまでの造家学を建築学と改めた人。

振り向けば大きなパイプオルガン。
月1回、最終金曜にランチタイム無料コンサートがあるらしい。

本尊阿弥陀如来に向かって左(北側)には講堂があるようだが公開されていない。
はて?中島さんの通夜はどこだったのだろうか、とあちこちきょろきょろする。

本堂から地下と錯覚する1階におりると、寺というより大震災後に建てられた大学の建物みたい。
たまに僧服をきたひとが忙しく歩いているのが見える。
本堂の下(1階)

ところで一向宗、浄土真宗、真宗の違いは何か?

浄土真宗の宗旨は、他力本願。阿弥陀仏の智慧と慈悲のはたらきを拠りどころとする。浄土宗から分かれ、戦国時代までは一向宗といったが、幕府により時宗と一緒にされいったん時宗一向宗と改称、のちに一向宗が公式名称とされた。

しかし江戸時代、東本願寺が一向宗という幕府公称を浄土真宗に変更するよう請願した。ところが浄土宗の大寺、将軍家の菩提寺・増上寺が混同を招くと反対。ようやく明治になって政府が一向宗の宗名を「真宗」とする旨定め、最終的に決着するまで1世紀かかった。

いま、東本願寺は真宗、西本願寺は浄土真宗である。
現在では、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ昔からの一向宗教団は10派存在する。

真宗興正派(興正寺)
浄土真宗本願寺派(本願寺)
真宗大谷派(真宗本廟、東)
真宗高田派(専修寺)
真宗佛光寺派(佛光寺)
真宗木辺派(錦織寺)
真宗出雲路派(毫摂寺)
真宗誠照寺派(誠照寺)
真宗三門徒派(専照寺)
真宗山元派(證誠寺)
つまり、浄土真宗を名乗っているのは、西本願寺だけである。

外に出ると親鸞聖人像のほかに、きれいに整備された道路側の塀に沿って酒井抱一墓などが記念碑のようにあった。

九条武子の歌碑があった。
武子は西本願寺第21世法主・大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれた。つまり大谷光瑞の妹である。1909年に九条良致と結婚、才色兼備の歌人としてもてはやされたが、42歳で亡くなった。

なお、公爵九条道孝の子は道実(公爵家を継ぐ)、範子(山階宮菊麿王妃)、良政(男爵、鍋島茂子と結婚)、籌子(大谷光瑞妻)、節子(大正天皇皇后)、良致(男爵、大谷武子と結婚)など。

北側に新しくインフォメーションセンターができている。
ずいぶん開かれた寺のようだ。
中にブックセンターやカフェがあった。ショーケースの中に18品の朝ごはん(1944円)を見つけた。これは人気でテレビでも見たことがある。しかしカフェは思ったより狭く、これでは行列になるだろう。

道路側には合同墓も作られていた。
これらのために木が切られたのである。

寺も墓を求める人も必要に迫られてのことだろう。
公式サイトをみれば
・合同区画にお預かり30万円以上
・個別保管6年間まで(その後、合同区画にお預かり)50万円以上
・個別保管32年間まで(その後、合同区画にお預かり)100万円以上
とある。


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