2020年6月19日金曜日

十二社、角筈村、淀橋、浅田次郎の大名倒産、

6月15日、妻が免許更新、そのあと四谷に出てランチしようと新宿に来た。
10:30、都庁前で別れた。

優良の講習動画は30分だろう。
待ち時間がある場合と、逆に動画が始まっても途中で入れてくれる場合もある。
11時過ぎに三井ビル前の広場で待ち合わせることにして、私は30分の散歩に出かけた。
2020-06-15 10:34
新宿中央公園
高層ビルが建ち始める1970年代に先立ち、1963年着工、1968年に都立公園として開園。
73年に新宿区に移管。ナイアガラの滝は1982年完成。
75年、大学に入ったころ、アベックのメッカという話を聞いたが、見物でもデートでも来ることはなかった。今まで45年の間、通り抜け程度に1,2回歩いた程度。
だから公園は初めて来たようなもの。
コロナというより月曜の10時半だから、人出はこんなものだろう。

10:38
実の一つだになきぞ悲しき、の上の句がなかなか思い出せなかった。
七重八重花は咲けども山吹の。

ほんとに東京は道灌が好きである。
寄贈 油井一二、製作 山本豊市 1978年4月 とある。

日暮里の、馬で去る道灌の後ろから枝をかざす女より良い。
(別ブログ)

・・・

公園の北西隅に熊野神社がある。
紀州熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)から熊野権現を勧進した神社は全国にある。本来祭神は3柱だったが(スサノオ、イザナギ、イザナミ)、熊野でも祭神が増え、熊野十二所権現ともよばれ、全国の神社も、熊野神社のほかに十二所神社、十二社神社とも呼ばれる。このあたりに残る十二社という地名の起源である。
なお、出雲大社と並び出雲一宮で知られる熊野大社は別系統らしい。

新宿の熊野神社は、室町時代、中野長者と呼ばれた紀州出身の鈴木九郎によって応永年間(1394年 - 1428年)に建てられたとされる。
彼は当初ふるさと熊野三山の若一王子を祀ったところ(王子権現と同じ)、馬の売買などで財を成したので後に熊野三山から十二所権現をすべて勧進したという。

10:41
江戸時代、甲州街道の南を流れる玉川上水から分水し、角筈村を北に流れ青梅街道辺り(淀橋付近)で神田川に入る用水があった。その途中に用水溜が2つあり、まわりは「熊野十二社」の境内になっている。
地形から見て標高差があるから、池を作ったら滝になるだろう。

復元江戸情報地図

江戸時代からここは郊外の景勝地として知られ、弁天を祀った大の池のまわりには茶店、料理屋ができた。明治になると花街となり、最盛期には茶屋や料亭が約100軒も並び、この賑わいは戦前まで続いていた。大滝の水が枯れたのはいつか知らぬが、池は中央公園が完成した昭和43年に埋め立てられたらしい。

角筈村の十二社権現や、それを建てた中野長者で思い出すのは浅田次郎「大名倒産」である。この辺りが舞台になっている。
文芸春秋2016年12月号
コメディタッチでありながら、きちんとした時代考証と巧みな言葉遣い、
さすが浅田次郎と感心した。

主人公である丹生山松平家の先代は家督を譲ったあと、角筈村の北隣、柏木村にある下屋敷に隠居し、ときに百姓与作あるいは茶人に変装して、破たんした藩財政をなんとかしようとする。すなわち妾の子を当主にして「大名倒産」させ(公儀による取り潰し)、最悪彼の切腹と引き換えに借金を帳消しにしてもらおうと画策するのである。

大陰謀の合間に百姓仕事を楽しむ先代は、毎朝下屋敷から神田川の土手道をあるき、淀橋まで来て、欄干に腰かけ青々した畑を見ながら莨を一服した。

淀橋は姿不見(すがたみず)橋ともいった。
さらに昔、中野長者が金銀財宝を下男に運ばせ、甲州街道辺りに隠した後、この橋まで来て口封じのため下男を殺害した。村人たちは律儀だった下男を探して、この橋で血だまりをみて、納得、姿不見(すがたみず)橋と名付けた、との伝説がこの小説にも書いてある。

淀橋から用水路沿いに上れば、熊野十二社権現である。
茶人に変装したご隠居がしばしば腹心と大名倒産のために密談するのは、境内、大池のほとりの茶室であった。

浅田が創作した越後丹生山藩松平和泉守は、小石川に上屋敷、駒込に中屋敷、柏木村に下屋敷をもっていた。
三つ葉葵を紋所とする御家門で、小石川に上屋敷を持つものは確かに松平播磨守(常陸府中)、松平大学頭(陸奥守山)とあり(別ブログ)、架空の藩であっても、いかにもありそうな設定で感心した。

10:44 
熊野神社前交差点。十二社通り(左右)と北通り。
右向うが新宿公園、熊野神社
池は神社と今の道路をはさんで西側(写真、右手前)にあった。
江戸時代どころか戦前の面影もないが、かつて畑の広がっていた角筈村を歩いてみる。

10:45
ビルに囲まれた交差点から入るといきなり昭和。
このギャップはすごい。

カレーの匂いがしてきた。45年前も同じ匂いだっただろう。
余計懐かしさが募る。

10:48
柳橋。川は暗渠になっている。
柳は記念するため近年植えたものだろう。
かどの八百屋さんも良い感じ。

古地図をみれば幡ケ谷村と角筈村の境を流れ、神田川に合流する川がある。
杉並区和泉の窪地を源流とし、玉川上水と神田川の間を流れた。
暗渠となったのは昭和30年代で、橋も川跡もしっかり残っているのに固有名詞としての川名がない。
神田川笹塚支流、東京都下水道局十二社幹線(法律上の名称)、和泉川、砂利場川などさまざまに呼ばれる。

橋の袖に昭和7年と書いてある。
ちょうど淀橋区となり東京市に編入された年で、往来も賑やかだったであろう。

振り返ると都庁のビルが見えた。
1977年、中学の同級生町田憲一君が高専を終えて、さらに勉強するため上京した。
彼のアパートは東中野にあり、泊まりに行った翌日、新宿の高層ビルを目指して二人で歩いた。
この道を通ったかもしれない。

10:55
幡ヶ谷村(左)と角筈村(右)の境をあるく。
この辺り丘もあって地形が複雑。たぶん江戸時代は境に川があったのだろう。

10:56
左、角筈村(いま新宿区西新宿5丁目21)
向う、幡ケ谷村 渋谷区幡ヶ谷3丁目23
右、本郷村 中野区弥生町1丁目1
すなわち3区の境になっている。中野区側の家が貴重。

角筈村は文政元年の朱引きの内側、すなわち江戸市中だった。
(ただし墨引き線には入らない)

3区境からすぐ先に橋が見えた。
神田川が北東に流れていた。
そのままいけば淀橋をすぎて、4月に歩いた落合で妙正寺川と合流する。(別ブログ)
10:57 菖蒲橋
アヤメ橋の名は新しそう。
すぐ上流に宝橋、その上流が山手通りの中野長者橋である。
ここまでくると、宝を隠した中野長者による殺害現場?淀橋まで行ってみたくなる。
しかし、待ち合わせ時間が迫っている。
高層ビル街に戻らねばならない。

10:59
柳橋に通じる暗渠道。
グーグルビューを見たら、真ん中に滑り台があり、右街灯の向こうは錆びたトタンの家だった。変化は速い。

11:00
再び都庁が見えた。
どう考えてもこういう家が残るとは考えにくい。
新宿から歩ける便利さ、マンションにならないのが不思議なくらい。
と思いながら急ぐ。

11:03
新宿中央公園の北まで来た。
バス停を見たら「十二社池の下」という名前だった。
よく「熊野神社北」、「中央公園北口」などとつけなかったものだ。

早歩きしながら妻にメールする。
11:06 「ごめん、いまセンチュリー」
11:08 「住友三角ビルにしよう」
と、ふと気づいたら
10:48に「講習、11時半からだって」とメールが来ていた。

可哀想に、混んでいて1時間待ちか。
もう一度神田川、淀橋の方に行こうかと思ったが、高層ビルも懐かしく、12時までそちらを見物することにした。(別ブログ)

ちなみに、ヨドバシカメラに名を遺す地域名としての淀橋は、明治22年、南豊島郡柏木村、角筈村が合併した淀橋町から始まる。明治29年には 南豊島郡と東多摩郡が合併し豊多摩郡となり、郡役所もおかれた。
1932(昭和7) 淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町が合併、淀橋区となり東京市に編入される。
1947(昭和22) 四谷区・牛込区と合併、新宿区となった。



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