2020年6月6日土曜日

三百坂と手塚良仙、陽だまりの樹

小石川台地の東側を歩いてきた。

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千川通りから西に入り、大久保坂を上がると五差路に出る。

2020-06-04
右に進むと学芸大附属竹早小・中学の裏にぶつかる。
前回5月17日は学芸大竹早中の西(鷹匠坂)を下りてこの道の先に出て、光円寺のほうに降りた。
このまっすぐな道は明治以降に開かれたように見えるが、江戸時代からあった。

東都小石川絵図 尾張屋版 東京都立図書館

切絵図には三百サカ下トヲリと、珍しく名前まで付いている。
今の播磨坂にあった松平播磨守上屋敷の正門からまっすぐ伸びている。

播磨守上屋敷から江戸市中に行くには、三百坂を上がる。
三百坂 
右は学芸付属幼稚園、小学校。この敷地には都立竹早高校もある。
絵図を見れば江戸時代は大部分が松平讃岐守の下屋敷で、その外側に旗本の家々が一重に囲んでいたようだ。

2020-06-04
『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。
 主君が登城の時、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。
文京区教育委員会 昭和55年1月

読んではっとした。
手塚治虫「陽だまりの樹」ではないか。
三百坂は地図で見ていたし、陽だまりの樹も読んだことがあったが気づかなった。

連載はビッグコミック 1981年4月 - 1986年12月だから、結婚前の東大宮あたりの定食屋で読んだか。手塚作品は東大医学図書館にそろっていて、2013年に千駄木に来てから調べものをするときも読んだ。しかし気が付かなかった。

もう一度マンガを見てみる。
最初の部分はネットのシーモアでも見られる。
ちょっと意地悪に突っ込んでみるか。
マンガでは 「 この坂を上りきると江戸市中が一目のうちに見渡せ・・」(そのとおり)
しかし
「つまり、ここは江戸市中の一等地なのであって親藩、譜代の大名たちの江戸屋敷が軒を連ねて居を構えている・・・」

これは少し違う。

一等地は昔も江戸城前の大手町である。
伝通院裏は、三百坂を上がればはるか南にお城が見えたが、上がらなければ見えない。とくに播磨守の屋敷は小石川台地を北東に少し下がったところだから、東に小石川(千川)を挟んで御薬園(今の植物園)の森は見えたが、市中は見えない。

軒を連ねていたというより、上の絵図をみれば旗本など幕臣の屋敷が多く、伝通院裏で目立つ大名屋敷は
・松平大学頭(陸奥守山藩、2万石)の上屋敷(現 教育の森公園など)
・松平播磨守(常陸府中藩、2万石)の上屋敷(現 播磨坂や小石川パークタワーなど)
・松平讃岐守(讃岐高松藩、12万石)の下屋敷(現 学芸大竹早中学、都立竹早高校)
くらいである。上屋敷がお城からこんなに離れているのも珍しいほど。

奇しくもこれらは3家とも水戸徳川家の分家である。
大学頭、播磨守が江戸城にいくときは本家の水戸家上屋敷の裏(北)を通っていった。讃岐守は上屋敷が水戸本家と外堀を挟んで向かい合った場所(いまのエドモントホテルあたり)、中屋敷は本家の東、水道橋にあった。親戚は集まるということか。

マンガでは「三百坂に江戸屋敷のある松平播磨守は親藩だが・・・・」

いや、違う。
屋敷は三百坂よりもっと北のほう、今の播磨坂のあたりにあった。1万6千坪。


行列が三百坂に差し掛かると、早駆けの合図で走り始めたように書いてあるが、この坂は漫画のように急ではなく、また短い。脱落するものはいないだろう。

むしろ、文京区の説明文のように、出発前のお目見えのあと、すばやく衣服を改めて後から追いかけさせ、この坂までに追いつかせるほうが現実的だ。
文京区の説明版はコミック連載の1年前、1980年である。
ここで主人公の一人、手塚良庵が出てくる。三百坂の西側に座っている。
手塚治虫の曽祖父である。のち父の名、良仙と改名。
良庵、良仙、松本良順、前野良沢など、良は医師にとっていい文字だったのだろうか。

もう一度絵図をよく見れば、三百坂下通りとタカジャウ丁の交差点に「手塚良仙」とある。(角から二軒目にかいた地図もある)。
絵図では町人地は灰色、武家地は白である。手塚良仙は松平播磨守の侍医だったという。医師や僧侶も士分として扱われた。

マンガでは、早駆けで遅れたものが三百文徴収されている。

これが三百坂の起源というが、では元の坂名、三貊坂とはなんだろう?
貊は中国東北部にいた野蛮な(中華からみて)種族のことだが、猫又坂のように化け物でも出たのだろうか?

あるいは貊は狛の間違いだったとか。
つまり狛犬が3体、お地蔵さんのように道端に置かれていたとか。
貊を狛と誤記しても、逆は考えにくいけどね。

また、大田道灌の時代、長禄年間江戸絵図で桜田村に三貊院とあるのをみつけた。
この言葉と関係あるか?
坂上から見下ろす。

三百坂をあがり、江戸時代と同じようにクランクをまがると、伝通院山門前に通じる道ができている。すすむと法蔵院の北に出るが、このあたり、伝通院の塔頭、寮が並んでいた。
そのなかの一つ、処静院は道路と宅地になり跡形もないが、浪士隊結成の地として記念説明版があった。

読めば、新選組の前身、浪士隊がここで結成され、その中心となったのが相馬藩を脱藩した清河八郎だった。ここに近藤、土方、沖田らが集まった。彼らに協力して場所を貸した処静院住職はその後、すぐそばの三百坂で刺殺されたという。


手塚良庵とともに主人公の一人である播磨守家中・伊武谷万二郎は、漫画が始まって早々、清河八郎と決闘する。
二人はお玉が池の千葉周作玄武館で出会うから三百坂は関係ないのだが、3人とも三百坂周辺にいたことで物語に入れたのだろう。

また陽だまりの樹とは、樹勢が弱り腐りかけても陽だまりに立っている徳川幕府を指すものとして水戸藩の藤田東湖が伊武谷に言った言葉。
東湖は尊王攘夷、水戸学の中心人物で斉昭の側近として上屋敷の藩邸にいたが、安政の大地震で母親を助けようとして圧死した。その水戸屋敷もここからすぐである。

コミックシーモア 立ち読み


漫画の連載された1980年代は、幕末にそれほど興味がなくあまり読んでいない。知識がないときは読んでも面白さが分からないが、2013年も最初の2,3巻くらい読んで中断している。
もう一度読んでみようかな。

しかしこんな近くに陽だまりの樹の舞台があるとは気付かなかった。
「雁」の無縁坂、「光と影」の根津、「三四郎」の団子坂などは昔から歩いていたから読むときイメージできた。しかし「白き旅たち」の念速寺や、「立花隆」の猫ビル、六角坂など、読むときはもちろん知らず、実物に出くわしてはじめて気づいた。

三百坂は家から2.5kmだから、上野公園と同じくらいだが、小石川はだいぶ遠く感じる。
千駄木、谷中と地続きの上野・本郷と違い、いくつもの町、山、通りを越えると距離は近くとも住む人まで違って見える。


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