2020年7月31日金曜日

細川庭園の和室は半日700円

江戸川橋から西へ、神田川沿いに緑の遊歩道を歩くと、一休橋、大滝橋、椿山荘、芭蕉庵、水神社と過ぎて肥後細川庭園に至る。

江戸時代、神田川から山の上の目白通りまで細川家の下屋敷、抱え屋敷だった。
2020-07-26 14:35


かつてここは新江戸川庭園といわれていた。
このあたりの「江戸川」がとっくに死語となり、大部分の国民にとって江戸川区のほうだけが残ってしまったため、むかしから違和感ある名前だった。
平成29年、2017年に応募1257通の中から肥後細川庭園の名前が選ばれた。

池の南を歩いていくと日本家屋。
14:37
松聲閣
旧藩主の多くは明治になると上屋敷が官庁街になってしまったため、別に屋敷地を求めねばならなかった。元から縁のある下屋敷、抱え屋敷の一部に本邸を築いた家は、太田、土井、酒井、阿部、高松松平家、藤堂家など本郷区周辺だけでも何家かある。細川家もここ下屋敷の台地の上(いまの目白台運動公園)に本邸を構え、坂下に勉強所として松聲閣が建てられた。
明治42年
台地上に広大な細川邸が見える。

玄関 
区の公園の一部になっていて入場無料

関東大震災で本邸が被災したときは、この松聲閣が仮本邸となった。
その後、細川家16代、護立(1883 - 1970)が昭和初期に台地上に本邸をたてたが(和敬塾本館)、孫、つまり17代護貞の子、細川護熙(1938年 - )は子どものころ、この松聲閣で暮らしたことがあるという(二階で見た説明ビデオ)。

14:40
増改築、改修が繰り返されたため、戦前とは違うかもしれないが、ところどころ、昔の歪んだガラスも使われている。

戦後は一時西武鉄道が土地の一部を取得したが、1959年、東京都が低地の庭園部分を取得、61年に公園として公開、1975年文京区に移管された。

昭和32年1957年の地図を見たら目白運動場ができ、松聲閣の場所には細川ホテルと書いてある。西武が運営していたのだろうか?


14:41 

14:43 
短い案内ビデオが上映されている。

14:44
二階からの眺め。
池の水は和敬塾の敷地から湧き出たものという。
左の森の中を入っていくと永青文庫(細川家本邸の家政所)に通じる。

14:57 幽霊坂
昔は両側が細川邸だったからこの坂はなかった。
登り始めるあたりに公園西門がある。
坂が急になる目白台運動公園と和敬塾のあいだは鬱蒼としているが、このあたりは広くて明るい。松聲閣の西側はずいぶん開放的で、もう少し木々があったほうが良いと思った。管理は大変かもしれないが。


(追記 2020-08-02)
学習院出身で目白に住む友人からメールをいただいた。

>以前は始終散歩に行っていました。無料だし、帰りに早稲田の大隈公園に寄ったり、演劇図書館、都の風というレストラン、或いは永青文庫にそのまま抜けたり、椿山荘でランチやお茶したり……
そして以前はもっと素晴らしい事にあの建物で自由にお弁当とか食べられたのですよ。縁側に座ったり、テラスに椅子とテーブルとかあって。また、あそこで仕出しでクラス会とかも開いたり出来ました。


(追記 2020-08-05)
梅雨が明けて再訪した。
一週間後、2020-08-04
月曜のせいか、人が誰もいない。

かなり起伏が激しく殿様も散歩するのは大変だったのではないか?
まあ、40過ぎれば家督を譲ったから今の私より体力あったのかもしれない。

山を上がっていくと永青文庫。休館。

船が浮かべられるほどの大きさ

結婚式の前撮りだろうか。
映画俳優のようないい写真が撮れるだろう。
そういえば、息子たちは東京駅で前撮りしていたな。私たちの時代は結婚式、披露宴、同居、入籍、新婚旅行が同時だったから、こんな風に撮影する習慣もなかった。




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2020年7月30日木曜日

椿山荘冠木門から芭蕉庵、水神社まで

江戸川橋から西に歩く。
江戸川公園は大滝橋、大洗堰跡をすぎると終わり、遊歩道は神田川と椿山荘・藤田観光(会社?寮?)の建物の間をいく。

2020-07-26 14:27
椿山荘
「南口」ではなく「冠木門」と書いてある。
冠木門の定義が昔から分からない。
コロナで閉鎖中。

千駄木に越して、家の近くから早稲田行きのバスは神田川の南に止まるので、1回だけ、この門から入ったことがある。迷ったせいもあり講演会の会場まで遠かった。

14:28
右は椿山荘・木春堂の裏壁
向こうに見える二階建ては五慶庵。
京都・二条城前にあった三井邸の建物を譲り受け、昭和29年に移築。
東急五島慶太の名前を借りて命名されたという。
いずれも入ったことはない。

椿山荘のとなりは関口芭蕉庵。
14:29 
 バショウがあるから分かる。
ここの正門は常にしまっている。

芭蕉が二度目に江戸に入った後、主筋の藤堂家が請け負った神田上水の改修工事に携わり、1677年から4年間、当地付近にあった竜隠庵と呼ばれた水番屋に住んだといわれている。

そのご、芭蕉の33回忌にあたる1726年、芭蕉堂と呼ばれた芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られたのが芭蕉庵の始まりとされる。

芭蕉が改修工事に携わったというのはとくに意外ではない。
絵師や仏師とちがい、俳人というのは天才的なひらめきさえあれば良いから、大部分の時間は副業や他のことも可能な気がする。読み書きそろばんができれば、現場監督もできただろう。

この日、門前に野間記念館閉館のお知らせがあった。
不思議に思って帰宅後調べたら、ここは無料公開されているが、光文社・キングレコードを含む講談社グループが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されているらしい。

14:30 胸突坂
芭蕉庵の角を曲がれば、右に芭蕉庵入り口がある。
石段を上がり蕉雨園(田中光顕旧宅、非公開)と和敬塾の間を抜け、目白通りに出る。
魅力的な坂だが上るのは次回に回すことにし、まっすぐ川沿いを西に進んだ。


胸突坂の西も森である。
14:31
水神社(すいじんじゃ)
見ざる言わざる聞かざるの像あり。順番は決まっているのかな?
というより水神社と三猿の関係は何だろう?

いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという。日本最古の神田上水は徳川家康の命により大久保藤五郎によって開かれた。井の頭池を水源とし、神社の前を流し、すぐ下流の大滝橋あたりに堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋(とい)で地下を神田や日本橋方面に流した。(文京区公式サイト)
水神社といえば、築地市場にもあった。あれは日本橋魚河岸水神社の遥拝所であった(神社は神田明神境内)。
水神をまつる社は全国各地にある。主に淡水にまつわる神で、私の実家、信州中野・岩船の氏神、岩水神社もそうである(神社としては諏訪系で6年ごとに御柱祭もする)。

14:34
江戸川橋から細川庭園まで緑の遊歩道に、民家は水神社の西側に2軒あるだけ。
このあたり、都心、山手線内側でもっとも夏が涼しい場所ではなかろうか。
森を背に、素敵な家が並んでいる。


・・・・・・・

(追記 2020-08-05 )
梅雨が明けて近くに来る機会があったので水神社を再訪した。
2020-08-04
鳥居の内側に、日本の大イチョウが鳥居のように並んでいる。

2020-08-04
左は肥後細川庭園の森、右は胸突き坂の石段と関口芭蕉庵。
江戸時代は胸突き坂の両側に水神社があった。

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2020年7月29日水曜日

大井玄洞と薬学、江戸川公園と護岸工事

天気の変わりやすい梅雨の日曜、江戸川公園に来た。
2020-07-26 14:09
江戸川公園 男爵阪谷芳郎書

江戸川橋(別ブログ)のそばに石碑がある。
阪谷男爵書とあるように開園が1919年(大正8)。

公園というのは関東大震災(1923)の後の都市計画でできたものが多いが、ここは神田川(当時は江戸川)の洪水対策工事でできたもの。
明治最大の水害、1910(明治43)の大洪水のあと、大正に入ってから護岸改修工事に着工、完成は1919、同じ年に延長500mほどの細長い公園も開園した。

公園入口に銅像があった。
実は初めて見た。
14:15
大井玄洞像
左の説明版は神田上水や桜道など公園全体について書いたもの

上記護岸大改修の時、尽力したということで昭和3年(1928)建立されたという。

大井玄洞は薬学の人だが、いまの薬学関係者はほとんど知らないだろう。また、ここを訪れた人は像に気付くだろうが、説明が護岸工事のことしかないから、彼らも彼の本業(薬学)は全く知らない。

もちろん薬学者としての大井玄洞はwikipediaにもあるのだが、ネットにない、もっと大事なことを書いてみよう。

私はたまたま15年位前、日本最古である東大薬学の、それ以前のことを調べたことがあった。
本ブログでも「薬学昔々」第80話、81、82話と薬学会の起源について考察してある。

明治初期には大学は東大しかなく、そこの初代教授が長井長義、下山順一郎、丹波敬三の3人で、助教授が丹羽藤吉郎だった。そのため近代薬学の歴史は彼らから始まったように書かれてしまうのだが、下山、丹波、丹羽の3人は東大医学部製薬学本科の第一回卒業生(明治11年)である。
つまり歴史はそれ以前からあり、彼らを教えた人々がいる。
柴田承桂やお雇い外国人らのほかに、助教として
・熊沢善庵(1845-1906、化学)、
・飯盛挺造 (1851 - 1916、物理学)
・大井玄洞(1855 - 1930、製薬学、薬品学)
・松原新之助(1853-1916、動物学、植物学)
らがいた。

大井は、1853年生まれの下山 1854年の丹波より若い。
そして、現存するわが国最古の学会、日本薬学会の創立メンバーである。
東京薬学新誌 第2号 裏表紙
(明治11年12月)
社員51人の名前が書いてある。

下山らが卒業した明治11年、卒業したばかりの9人と在学生、教員ら51人が薬学の勉強会を開き、雑誌を出そうと学術結社を作った(だから社員という)。 彼らがそのまま設立メンバーとなり、明治13年、現在会員2万人の日本薬学会の前身、東京薬学会を作った。その51人の一人が大井玄洞である。

公園入口の大井玄洞の像をすぎ、左に川を見ながら西に歩いていく。
14:16
日当たりのよい芝生がある広場とは違い、ゆっくり散歩が似合う大人の公園。
北区の石神井川遊歩道にも似ているが、都心に近い分、こちらの方が洗練された感じ。

14:18
崖に上ってはいけないが、はしごが設置してある。
柵もないのだから自由に登れる。
この看板はどういう意味があるのか?
事故が起きた時のための責任逃れために設置するとは、税金の無駄使い。

目白台周辺は上品で、置かれた石も美術館の前にあるみたい。

どこかの城址みたいな石垣が続く。
いつ積まれたか知らないが。

細川庭園でもらった文京区パンフ

このあたり崖の上は目白不動と旗本、大名屋敷だった。


14:20 一休橋
左岸に一橋家の抱え地があり「いっきょう橋」からいっきゅう橋になったという話がネットにあったが、江戸切絵図に一橋家は見つからない。

千駄木に来た年、甥の結婚式が椿山荘であった。
妻と娘たちは着物の着付けで早くいき、息子と私は後から家を出た。動坂下から早稲田ゆきのバスは神田川の向こう側にとまり、一休橋か大滝橋をわたり、鬱蒼とした公園にはいり崖をあがって関口台町小学校の東を通って目白通り(旧道)に出た。

14:24 大滝橋
このあたりに神田上水の取水口があったという。このあたりの関口という地名は、地名の広さから言って関口という旗本がいたわけでなく、堰口が転記されたものだろう。

しかし本当に取水口はここだろうか?
まあ、「大滝」は堰き止めて取水した残りが本流に流れ落ちる様を言うから、このあたりに間違いないのだろう。

それより、大井玄洞が尽力した大正の神田川改修工事とはどういうものだったか?
明治40年 goo地図
明治のころは神田川本流と上水路のあいだが中州のようになっていて泥掃場があり、江戸川橋の近くには町屋もあった。

この中洲のような部分をつぶして川幅を広げたのだろうか?
いや、

昭和15年(1940)
周辺の都市化で水質が悪化、昭和8年には取水堰はふさがれたとある。
その場所は公園内の道路になっただけで、神田川の本流は明治と比べて広がっていないように見える。


では、大井玄洞の洪水対策、神田川工事とは何だったのだろう?
もしや!?
いろんな地図を見ていて気が付いた。

工事前、明治42年

工事後、昭和7年
細川庭園の少し上流、幽霊坂と豊坂のあいだ、豊(ゆたか)橋あたりの川の蛇行がまっすぐになっている。
江戸川公園が大正の洪水工事のあとにできたというから、てっきり銅像のあたりが工事場所だと思っていたが、大井玄洞が尽力した工事は、江戸川公園ではなく、もっと上流だったのではなかろうか?



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2020年7月27日月曜日

江戸川橋の不思議3つ。地名と分水路

江戸川橋とは奇妙な名前である。

1.江戸川、これは江戸川区と千葉県市川の間を流れる川ではない。
あちらは千葉から見て江戸との間にあるから彼らが江戸川というのは自然である。
しかし、東京の真ん中で江戸川と名付けるだろうか?
東京の人はおでんを関東煮とはいわない。

2.江戸川にかかっている橋に江戸川橋とつけるだろうか?
多摩川大橋はあるが、神田川橋、石神井川橋、妙正寺川橋など聞いたことがない。

2020-07-26 14:04
江戸川橋の上で
東(下流方面)をみる。
上は首都高5号線

1の答えとしては、おそらく昔は豊島郡高田村あたりからみれば、はるか下流の江戸に向かって流れる川だから江戸川といったのかもしれない。
ちなみに、江戸川は神田川の中流域、すなわち都電早稲田駅付近からJR飯田橋駅付近まで、3キロ程度の部分で使われた名前だが、いまは神田川に統一されている。

谷端川、千川、小石川はすべて暗渠になってしまったから、統一する必要がでたときにはどれも存在しなかった。

14:00
東から江戸川橋を見る
あの口は暗渠となった水窪川の出口だろうか。
(別ブログ)

2については分からない。
江戸川に橋が一つしかなかったときにつけられた名前だろう。
長さが3キロ程度の範囲であればうなづける。

13:58
左の口は暗渠となった弦巻川の出口だろう。
しかし、橋の下で川が3つに分かれているのはなぜか?

帰宅後調べたら、江戸川橋分水路という。
河道拡幅による洪水対策が困難であったため、昭和 47~52 年にかけて神田川の水を本流から分離し、並行する目白通りの下に流す工事をした。2本のうち、1本は 1,060m下の新白鳥橋下流で本川に合流、もう一本は さらに580m下流の船河原橋下流で神田川本川に合流する。(神田川には他に、お茶の水分水路、高田馬場分水路、水道橋分水路の 3 つの分水路あり)。
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/river/chusho_seibi/bunsuiro.html

14:05
じっと川を見ている老婦人とその嫁さんみたいな(少しだけ若い)老婦人がいらした。
絵を描いているわけでもなく、ただ川面を飽きずに見ていたらした。
日課のようで、椅子をたたんで南詰のほうに帰って行かれた。
左上は5号線の早稲田出口

14:09
橋のそばに江戸川公園の石碑 男爵阪谷芳郎書

下流にあった小石川江戸川町、西江戸川町という町名も昭和40年の地名変更で消え、いま付近での「江戸川」は死語になった。江戸川といえばほぼ全員が江戸川区のほうを連想する。
その結果、新江戸川公園が肥後細川邸園に改称された。しかし、ここは江戸川公園のままである。こんな立派な石碑があるからか、あるいは男爵とあるように開園が1919年で江戸川区(1932年成立)より早く、町に古くから親しまれているからか。

阪谷芳郎は大蔵官僚であったが、日露戦争の戦費調達などの功績により男爵が授けられた。戦勝で軍人、官僚、経済人に多くの華族が誕生した時期である。明治42年の地図に小石川植物園の北東、阪谷という大きな屋敷がある。彼の邸宅であろう。東京市長も務めた。



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7月のキャベツは結球せずに腐った

キャベツ栽培は4回目。
小玉だがそこそこのものを取る自信が出てきたところだった。
2020-07-12 この日の収穫

ところが今年は玉を巻かず結球しないものが多い。
日当たり不足、肥料不足は承知だが、条件の同じ昨年、一昨年とくらべても玉を作らないものが多い。

2020-07-12
例年と同じように昨秋種をまいて越冬させたのだが、苗が小さかった。
冬に小さくとも春になればいつも通り成長すると思っていた。
しかしダメだった。
いろいろ考えるに、種が古かったのが問題か。

2017年にダイソーで買った種を2017秋にまき
余ったので冷蔵庫に保存、2018秋にまき、さらに余ったので冷蔵、2019秋と3回にわたってまいた。

種のDNA、酵素、栄養は劣化するかもしれないが、そういう種は発芽しない。
発芽すれば育つだろう。生育には発芽よりもそのあとの日光、栄養のほうが重要だと思っていた。
しかし、やはり余って保存した種を使っているナス、ピーマンもだんだん発芽率と生育が悪くなってきた。たまたま今年だけ発育が悪いのではなく、古い種のせいだと感じるようになってきた。

また、落花生は古くはないが、小さい種をまくと発育が悪い。

つまり、植物は、人間で小さく生まれた赤ちゃんが大きくなるのと訳が違うようだ。

2020-07-12
巻かないキャベツの葉は固い。
食べきれないので抜くことにした。
葉っぱは地中から養分を吸い取っているから堆肥にして戻そうと思うが、連作障害を考えると戻さぬ方がいいのかな?


7月に入り、九州は今年も五十年に一度とか観測史上最大とかの豪雨。
東京はコロナで騒いでいるけど自然災害は少ない。
しかし梅雨が長く続き、作物は今一つ。
2020-07-22
ふと見るとキャベツが腐っている。
雨が続いたからだろうか?
病気の感染だろうか?
まあ、人間なら腐ったというだけで病気に間違いないが。

中まで腐り、貴重な結球キャベツも捨てる羽目に。
今までの最終収穫は2018年が8月5日
2019年が7月26日だから、そろそろ限界の時期だった。

来期は新しい種を使い、できるだけ高温になる前にすべて収穫したいものだ。


キャベツ以外の野菜も書いておく。

2020-07-07
手前からサツマイモ、落花生、トウモロコシ
ここまでは順調だったが、この2日後の7月9日夜、ハクビシン?にめちゃくちゃに荒らされた(別ブログ)

2020-07-15
4月10日にまいた枝豆はちっとも成長せず、来期の種にしようと思ったが、これも長雨の影響か、腐った莢が出てきたのですべて収穫。わずかこれだけ。

2020-07-22
トマトは大きくなるばかりで実がならない。
肥料をやりすぎたか?

2020-07-22
ナスはハダニにやられた。
マラソンで消毒すると一時的にいなくなるが、すぐまた発生する。
諦めて消毒してから抜根した。

2020-07-22
ミョウガだけは何もしなくても花芽が出てきている。

2020-07-22
今年初めて実がなったが、ほとんどすべて(95~99%?)自然落果した。
5個だけ残っている。

2020-07-15 インゲン
キャベツ(発育不良)、トウモロコシ(ハクビシン)、ナス(ハダニ)、トマト(実がならない)、実生ナス(発育不良)、と今年は不作が多い。楽しみがなくなった。
場所もあるので、今から間に合うものをさがし、インゲンをまいてみた。
6月26日、8粒まいたら7月1日7芽出て、2週間でここまで成長、ずいぶん簡単。


千駄木菜園 (庭・植物のみ)目次 (庭と野菜つくり)

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