江戸川橋から西へ、神田川沿いに緑の遊歩道を歩くと、一休橋、大滝橋、椿山荘、芭蕉庵、水神社と過ぎて肥後細川庭園に至る。
このあたりの「江戸川」がとっくに死語となり、大部分の国民にとって江戸川区のほうだけが残ってしまったため、むかしから違和感ある名前だった。
平成29年、2017年に応募1257通の中から肥後細川庭園の名前が選ばれた。
池の南を歩いていくと日本家屋。
14:37
松聲閣
旧藩主の多くは明治になると上屋敷が官庁街になってしまったため、別に屋敷地を求めねばならなかった。元から縁のある下屋敷、抱え屋敷の一部に本邸を築いた家は、太田、土井、酒井、阿部、高松松平家、藤堂家など本郷区周辺だけでも何家かある。細川家もここ下屋敷の台地の上(いまの目白台運動公園)に本邸を構え、坂下に勉強所として松聲閣が建てられた。
明治42年
台地上に広大な細川邸が見える。
玄関
区の公園の一部になっていて入場無料
関東大震災で本邸が被災したときは、この松聲閣が仮本邸となった。
その後、細川家16代、護立(1883 - 1970)が昭和初期に台地上に本邸をたてたが(和敬塾本館)、孫、つまり17代護貞の子、細川護熙(1938年 - )は子どものころ、この松聲閣で暮らしたことがあるという(二階で見た説明ビデオ)。
14:40
増改築、改修が繰り返されたため、戦前とは違うかもしれないが、ところどころ、昔の歪んだガラスも使われている。
昭和32年1957年の地図を見たら目白運動場ができ、松聲閣の場所には細川ホテルと書いてある。西武が運営していたのだろうか?
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短い案内ビデオが上映されている。
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二階からの眺め。
池の水は和敬塾の敷地から湧き出たものという。
左の森の中を入っていくと永青文庫(細川家本邸の家政所)に通じる。
14:57 幽霊坂
昔は両側が細川邸だったからこの坂はなかった。
登り始めるあたりに公園西門がある。
坂が急になる目白台運動公園と和敬塾のあいだは鬱蒼としているが、このあたりは広くて明るい。松聲閣の西側はずいぶん開放的で、もう少し木々があったほうが良いと思った。管理は大変かもしれないが。
(追記 2020-08-02)
学習院出身で目白に住む友人からメールをいただいた。
>以前は始終散歩に行っていました。無料だし、帰りに早稲田の大隈公園に寄ったり、演劇図書館、都の風というレストラン、或いは永青文庫にそのまま抜けたり、椿山荘でランチやお茶したり……
そして以前はもっと素晴らしい事にあの建物で自由にお弁当とか食べられたのですよ。縁側に座ったり、テラスに椅子とテーブルとかあって。また、あそこで仕出しでクラス会とかも開いたり出来ました。
(追記 2020-08-05)
梅雨が明けて再訪した。
一週間後、2020-08-04
月曜のせいか、人が誰もいない。
かなり起伏が激しく殿様も散歩するのは大変だったのではないか?
まあ、40過ぎれば家督を譲ったから今の私より体力あったのかもしれない。
山を上がっていくと永青文庫。休館。
船が浮かべられるほどの大きさ
結婚式の前撮りだろうか。
映画俳優のようないい写真が撮れるだろう。
そういえば、息子たちは東京駅で前撮りしていたな。私たちの時代は結婚式、披露宴、同居、入籍、新婚旅行が同時だったから、こんな風に撮影する習慣もなかった。
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