2.上水はなぜ南岸を通らなかったか?
神田上水は文京区関口で取水された後、関口(目白)台地、小日向台地、小石川台地の南端をとおって水戸屋敷に入り、今の水道橋の東で外堀(神田川)をわたり、猿楽町に至る。
嘉永6年
水道橋の東に上水樋が描かれている。
ここは行ってみればわかるが、お茶の水坂の中腹である。
水戸屋敷の東、小石川(千川)が流れる今の白山通りより高いところにある。
ここまで水は上がらないのでは?
どうやって小石川を越えたか?
本当は地形通りに下がらず、高架だったのではないか?
雨で暑さは緩んだとはいえ歩くのは大変なので白山から2駅地下鉄にのった。
2020-08-23 11:04
JR水道橋駅の東口、水道橋北詰
、江戸時代は延焼防止か、広小路になっていた。
いまは中央線の向こう千代田区側に(左から)東洋高校、日大経済学部、東京歯科大のビルが並ぶ。文京区側と合わせ学校の多い地区だ。
振り返れば後楽園ドームホテル、黄色いビル、ラクーアなど。
ここは小石川台地と本郷台地の間の谷で、小石川(千川)が流れていた。
低地だから丸ノ内線は地上に出てしまう。
この谷に神田上水が下りたら、懸樋の場所までどうやって水が上がるのか?
懸樋(水道橋)を描いたレリーフ
ここは思ったより景色が良い。
11:07
白山通りに架かる橋は江戸切絵図の時代から水道橋といった。
橋の名前は目印となるものに「橋」をつける。
ここは東に水道橋(すいどうきょう)があったから水道橋橋になるのではないかとも思ったが、水道に橋を付けたと思えばいいのか。
暗渠の出口のようなものがある。
先月、江戸川橋のブログでも書いたが、洪水対策で白鳥橋下流で分流し水道橋下流で本川に合流する水道橋分水路の吐き出し口と、昌平橋下流で出るお茶の水分水路の吞み口である。神田川がJRと並行するようになってからは、江戸川橋分水路と異なり、川の北側に掘られている。同じ側に掘られたのだから、吐口と吞み口が並ぶのは当然である。
11:08
外堀通りのお茶の水坂を上がっていく。
このモニュメントは上水道の懸樋を表しているのかな。
振り向けば水道橋駅に出入りする電車
11:10
お茶の水分水路の記念碑
この下は水道橋分水路の吐き出し口でもあるはずだが、吞み口を優先するのかな。
ありました。目的の神田上水懸樋(掛樋)跡。
だいぶ白山通りから坂を上っている。
どうやって水をここまで上げたか?
水戸屋敷からこの掛樋までの上水路の流路を知るため、この日は近くの東京都水道歴史館に行くことになっていた。そのためには外堀通りを渡らねばならない。
11:14
ところが外堀通りは水道橋駅からお茶の水橋近くの順天堂大学まで、ほぼJRの一駅区間にわたって横断歩道がない。それどころか、南側はガードレールにまったく切れ目がない。ひとたび足を踏み入れたら次の駅に行くまで散歩を中断できなくなっている。仕方がないのでガードレールを乗り越えて車道を渡った。
水道歴史館は1,2階が展示室で、3階がレファレンスサービスのある資料室になっている。
今はコロナでレファレンスサービスは予約が必要。
行くと係の人が待っていてくれて、『上水記』(東京都水道局編・発行)を見せてくださった。寛政3年(1791)の作図である。絵図の文字を活字に変えた図が添えられている。
神田上水は水戸屋敷を出た後、大下水(千川、小石川の下流)を掛樋で越えたあと、「万年石樋」となって神田川掛樋まで伸びていた。つまり、密閉された暗渠である。
これなら現在のゲリラ豪雨でマンホールから水が噴き出すのと同じで、一旦低くなっても開渠部分の高さまでは上がれる。
つまりこうした低くくぐる上水樋は多くあった。
しかしそうだとしても、大下水の上と同じ高さまでしか水は上がらない。
11:39
「もりやま」は鰻屋
このあと2階の展示室を見たら、懸樋はお茶の水坂の地面からかなり下を通っていることが分かった。よく考えたら当たり前である。あの記念石碑の高さから懸樋が渡っていると錯覚していた。
11:40
これだけ低いところを通るからには豪雨洪水の時は上水懸樋は流されたことだろう。
しかしもっと西、つまりお茶の水坂の下の方で神田川を渡せば深く掘る必要はなかった。なぜ中腹まで持ってきたか? 今ある江戸の地図は中期、末期ばかりで上水建設時の地図が少ない。だが水戸屋敷すら通過したのだから有力大名屋敷、寺院があっても障害にはならなかったはずである。
正保年中江戸絵図(1644ころ) 国立公文書館蔵
掛樋の場所には吉祥寺があった。
さて、2つ目の謎。
神田上水は関口で堰き止めた後、神田川の北、文京区を流れるが、千代田区に水を供給するなら、上水は南を流せばよかったのではないか? そうすれば神田川を渡す必要もない。
この答えは、考えると同時に思いついた。
昔の神田川は飯田橋を過ぎたあたりから平川として日比谷に流れ込んでいた。大名小路や日本橋など江戸城大手門の東に給水するなら神田川の左岸(北)を流したほうがいい。
と、安直に思ったが、神田川が駿河台を切り開いて東に行ったのはいつか?
伊達藩が請け負った仙台掘は1620年、秀忠の時代に正宗が受け1625年完成した。そのご万治4年(1661年)までには船が通れるように拡張された。
一方神田上水のほうはよく分かっていない。『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年(寛永6年)とあるから、その少し前だろう。
すでに駿河台の掘削が始まっているから、北側を流しても南側を流しても、川や濠を渡ることは避けられない。
ひょっとしたら南ルートは低湿地が多かったのかもしれないし、あるいは神田上水の前の小石川上水の設備を使うため北に流したのかもしれない。
水道歴史館は分かっているだけでも1997、2012,2015、2019、につづき5回目である。
地形と歴史を両方考えるから面白い。
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