家から歩いて5分。
前を何回も通るのだが、いつでも行けると思って入ったことがなかった。
2020-10-03
左は養源寺の塀、まっすぐ行くと大観音通りを渡り日本医大に至る。
最上徳内墓、平野金華墓という東京都指定旧跡の案内板がたつ。
この道は1977年、本駒込のアパートから大学に行く途中、毎朝通った。
(帰りは國枝卓氏と薮下通りを歩いた)
しかし当時は全く寺社に興味がなく、わき目も振らず自転車を走らせた。
2020-10-03
塀は大観音通りの光源寺墓地までつながる。
40年前は塀が低かったか、切れていたか、光源寺のほうだったか、道から墓が見えた気がするのだが、夢の記憶と一緒になっているのだろうか。
浄土宗蓮光寺は湯島で開山したが、明暦の大火でこの地に移転したという。
中は思ったより(かなり)広い。
南は墓がひろがり、駐車場を挟んで光源寺の墓地と隣接、大観音堂の屋根がみえる。
左は道路の東の駒込学園。ここも明治までは大保福寺だった(いまは墓地の一部だけ残る)。
本堂の南隣に塀に囲まれた一角。
大垣城主、戸田氏墓所。
昨年、大垣城に行ったとき、初代藩主・戸田氏鉄の騎馬像をみた(別ブログ)。
「濃州大垣城主戸田家累代之霊」という墓誌があった。
俗名がないが一番古いのは「姓徳院殿 明治二十四年」、新しいのは「光覚院殿 平成三十年」とある。華族として東京に移住してからの墓だろうか。
贈正五位最上徳内之墓
北方探検家としてわずかばかり記憶しているが、恥ずかしながら近藤重蔵、間宮林蔵とあまり区別つかない。
近藤重蔵については、3,4年前、滝野川の正受院で小さな像を見た(別ブログ)。
墓は同じ向ヶ丘だが本郷通りの西、西善寺にある。
最上徳内(1754-1836)は、出羽国村山郡出身(最上川の地名と関係あるのかな?)、29歳で江戸に出て本多利明の塾で天文学や測量術を学ぶ。老中田沼意次らが蝦夷地開発を企画していた天明5年(1785年)、師の本多は下僕の徳内を代わりに推薦した。徳内は蝦夷に渡り、樺太、国後など探検するも、田沼失脚後は江戸にもどった。その後何回か蝦夷に非公式でわたっている。
寛政10年(1798年)には老中の戸田氏教 (奇しくも明治後にこの寺に墓を作った大垣藩主家の7代目!)が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は幕臣の近藤重蔵(1771-1829)の配下として、7度目となる蝦夷上陸をはたす。このとき択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。
徳内はシーボルトを訪ね、北方事情などを対談し、樺太の地図を与えたが、これは間宮林蔵(1780-1844)が調査、作成したものである。
徳内は林蔵より26年上だが82歳まで生き、死んだのは8年早いだけ。
3人は同時代といってよい。
国土地理院 1979-1983
最上徳内墓の背後に道を挟んで駒込学園の体育館がみえた。
まだ新しいから毎朝通っていた1977年はどうだっただろう、と昔の航空写真をみた。
駒込学園は今ほど大きくなく、大観音通り側を含め、敷地の大部分はグラウンドだったようにみえる。
松平家という大きな墓があったが、どちらの松平か調べなかった。
柵の向こうは駒本小学校。
運動会でヨサコイソーランの掛け声がにぎやかだった。
左の墓石は大垣藩士族と書いてあった。
西隣に高林寺の墓と本堂がみえた。
金池山功徳院蓮光寺 本殿
そういえば、文京区は音羽にも蓮光寺があったな。
住職は戸田大晴氏という。
蓮光寺の開基は戸田采女正、慶長6年(1602)とある。
采女正(うねめのかみ)は官位の一つで大垣藩主の何人かはこれを名乗っている。
現住職も何か関係あるのだろうか。
動坂からの駒込病院通りに出た。
駐車場が広い。駒込幼稚園という表札が残っているから、その跡地だろうか。
2020-10-03
蓮光寺のすぐ横は養源寺(別ブログ)の参道。
このあたり、(バス通りの反対側も含め)かつてはびっしり寺が並んでいた。
蓮光寺は最寄りの南北線本駒込駅へ歩く途中、毎回通るが、今まで一度も入らなかった。
一昨日、I君がメールをくれた。優秀な若者で今年薬剤師にならず弘前大の大学院に進学した。読書と歴史が好きで、実家の菩提寺が蓮光寺というので、今度会うとき話ができるよう来てみたのである。
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