2020年10月4日日曜日

高林寺の洪庵、織田家、岡麓、

 10月3日、蓮光寺を出て隣の高林寺を訪ねる。

最寄りの地下鉄本駒込駅へ行く途中にある。
バス通りに緒方洪庵墓、岡麓墓と案内板が出ているが通りから寺は見えず、代わりに駒本小学校の正門が見える。

この日、「ふれあい運動会」という看板に国旗掲揚。
関係者以外入れないようにしているのか、係員が(保護者でなく)立っている。
いろいろ突っ込んでみたい光景だが。

2020-10-03
通りからは見えない、学校正門の横に高林寺の門。


来るのはたぶん3回目だが今回は本堂が開いていた。

法事でもあるのだろうか。

ここは緒方洪庵の墓で有名。
2020-10-03
侍醫兼督學法眼緒方洪庵之墓(中央石碑)
向こうは蓮光寺本殿と、遠くは駒込学園。

2014-10-19
最初に来たのは千駄木に来て1年半後。
文京区の胃の健診の帰りに立ち寄った。6年前とほとんど変わっていない。

緒方洪庵は幕末の蘭学、医学界で最も重要な人物の一人であり、その学識を幕府からも期待され文久2年(1862)奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕するも、1年もたたずに死去した。
墓は分骨されて大阪にもある。
惟準、惟孝ら子供たちは緒方病院を大阪に建てたから(別ブログ)、彼ら子孫の墓はそちらだろう。

今回気づいた下のチョコレート色の石板を読めば、
1924(大正13)東京府の史跡に指定。
昭和11年、道路拡張のため現在地に移転
昭和42年追賁碑移転整備とある。
追賁碑というのは、3つある石碑のうち右(西側)の一番高い四角の石である。
明治42年に洪庵に対して従四位が追贈されたことを記念して建てられたもの。
撰文は森林太郎。

緒方洪庵墓と通路を挟んで「織田家」とある五輪塔。
幸い右に墓誌がある。一番古いのが織田信敏子爵、明治34年
新しいのが織田信恒、昭和43年。
織田信敏(1853-1901)は出羽国天童藩3代藩主、のち藩知事。
旧大名の墓であるが柵はない。

信の字から分かる通り信長の末裔。
信長と嫡男信忠が本能寺の変で落命した後、当主は信忠の嫡男三法師となったが、庇護した信長三男の信孝は柴田勝家と組み賤ケ岳で滅亡、信長次男の信雄が残った。その四男が出羽高畠のち天童2万石の織田家である。

墓誌最後の織田信恒は、子爵貴族院議員でありながら、漫画『正チャンの冒険』の原案・文を作った。

信雄五男の高長(すなわち信長の孫)の系統ものこり、大和宇陀、のち丹波柏原藩2万石の大名となった。その現当主18代織田信孝氏は子どもに信の字をつけなかったことで話題となった。

・・・・
ちなみに五輪塔というのは下から、地輪は方形、水輪は球、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球、空輪は宝珠型によって表される。
織田家の西にもう一つ五輪塔があった。
こちらは松平家とあるだけで戒名が一つあるだけ、誰だか分からない。
石には上から空、風、火、水、と五輪の文字だけが彫ってあった。

松平家五輪塔の前、すなわち緒方家の向かいに大きな石碑。
今春、二回目に来たとき同行した長野の弟が読んでいた。
「故幕府侍医法印節斎岡先生碑」とある。
岡先生? 
道路に面した案内板の岡麓は歌人である。侍医ではない。
岡麓の墓はどこにあるのだろう?

前田家という墓も大きい。
梅の家紋は金沢前田家と同じ。
墓誌に前田雄之助平成二年1月13日没61歳という方が記されていた。

岡麓の墓
過去2回で行かなかった奥に足を進めると、あった。

岡 麓(おか ふもと、1877- 1951)本郷区湯島で幕府奥医師の家系に生まれる。
正岡子規に入門、長塚節、斎藤茂吉、島木赤彦らと知り合い、1916年(大正5年)より『アララギ』に歌を発表。我々が知るのはこちらである。

しかし墓所に整然と並ぶ先祖の墓石は全員が奥医師であった。
例えば字の鮮明な1つは、「征夷府侍医法眼宗観岡先生」と読める。
ほかの墓石は法眼であっても、侍医、医官、直医と肩書は微妙に違っていた。
墓石の古さと比べこの狭さは、ひょっとして道路拡張で移設されたものだろうか。
すると洪庵の向かいにある「故幕府侍医法印節斎岡先生碑」と一緒に、ゆったりと並んでいたのかもしれない。奥医師であった洪庵の墓が高林寺になったのも、侍医たちの墓が多かったからだろうか。

帰宅途中のバス通り沿いに新しいマンションがある。
2011年、この一角にあった、養源寺が地主の借地権付き中古住宅を内見したことがある。

廃業された水道、配管工事店。ここもマンションになるか。
高林寺から蓮光寺、養源寺まで隙間なく並んでいた寺町も幹線道路側からどんどん変わっていく。


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