桶川市の国道17号に坂田という大きな交差点がある。
1981年埼玉に住んで以来、長野の実家に帰るとき必ず通った。
高速道路ができてからここに来ることはなかったが、2011年4月、何十年ぶりかで通った。父の4歳下、昌親叔父が長野から出てきて鷲宮の兄の家から多摩の弟の家に向かう車に、道案内として同乗したのである。
まだ圏央道は桶川西までしか来ておらず、久喜のほうから田舎道をきて坂田交差点で17号を渡るとき、彼は突然昔話を始めた。
叔父は中学を卒業して中野の自転車屋に就職、間もなく独立、自分の名前の一字を入れた親輪舎という小さな店を開いた。
長野から深夜、小さなスクーターに乗って単身上京、日中、東京中の店を回り、中古の軽トラックを買って、さらに買い集めた中古バイクを荷台にのせ、深夜長野に帰ったという。中野では飛ぶように売れて一回来ると相当儲かったらしい。しかし体力的にはきつそうだ。道中、舗装されていない箇所もあったのではなかったか?
昭和30年代、1960年代のころの話である。
坂田交差点は、若かった叔父が早朝と夜中に通過したところで、よほど記憶に残っていたらしい。
2011年彼は肺癌であったが抗がん剤治療はしないで普通の生活を続けていた。周囲もすっかり癌を忘れるほどであったがこの2年後、2013年9月、79歳で他界した。
昔話を聞いた10年後の7月17日、その桶川市坂田にやってきた。
2021-07-17 8:26
坂田コミュニティセンターで子ども大学の世話。
上尾市、伊奈町、桶川市、聖学院大学、日本薬科大学の5者でやる小学生高学年向けのプログラム。2014年から毎年実行委員長と副委員長を交互にやっている。
私が関わった最初の2014年も自治体企画は桶川市の当番だった。
すぐ近くの紅花ふるさと館に集合した。ちょうど圏央道の工事中で、子供たちと一緒に国道17号をくぐるトンネル工事現場を覗いたり、坂田加納のインターチェンジ予定地で盛り土されたスロープの上を歩いたりした。
その時とても可愛らしい小学生がいて私になついた。賢くて、スタッフという名札を見てSTAP細胞という言葉が出てくるほど。名前を忘れてしてしまったが、卒業証書を渡すときの写真が残っている。伊奈町小針小学校だった。もう7年経つから大学1年生か。
フレスポの図書館と言えばいいから、スマイルピアザという名称はなくてもいい気がする。
この日の子ども大学テーマは、本と図書館について、桶川市立図書館の館長さんたち3人が講義された。
桶川の図書館は1975年に巡回を開始した移動図書館車「むぎぶえ号」が始まりというから、ながらく図書館はなかった。その後、分室が各地にでき、
1985年、駅西口の分室が待望の桶川市立図書館として開館。
1987年、駅東口に移転し、残った古いほうは(桶川マインの)駅西口図書館となった。
1992年、市の西部には川田谷分室ができる。
2年前の2019年、桶川市立図書館を桶川図書館と改称、同時に西口図書館を中央図書館、川田谷分室を川田谷図書館と名前を変えた。
そして図書館のなかった東部地区に4つ目として坂田図書館がオープンした。
坂田図書館の一番の特徴は、スーパーマーケットと一体化していること。
隣というレベルでなく、フロアが完全につながっているから買い物かごを持ったまま行き来でき(さすがに書棚までは行かないだろうが)、匂いも音もやってくる。
近年、駅に直結する区役所出張所や図書館が現れ良い試みだと思っていた。しかし駅から遠い図書館は依然として単独だった。このように毎日の買い物帰りに図書館に寄れるというのは、これまた便利である。
この広い敷地は工場があったらしく、桶川区役所新築の候補地だった。しかし縄文遺跡が発見され建設が遅れるうちに、やはり区役所は駅の近くが便利ということで西口の旧庁舎の敷地に建て替えたと聞く。その結果こちらはスマイルピアザ坂田とフレスポ桶川となった。
図書館に「おけがわ なかなか」というポスターが2枚貼ってあった。
シブがき隊・本木雅弘をつかった観光PRポスターのようだ。
彼はこの近くの加納小学校、加納中学から浦和学院にすすんだ。
桶川市東部の農村地帯、加納、坂田地区の子供は加納小学校(桶川市坂田883、旧坂田尋常小)、加納中学に行く。
農家として14代続くもっくんの実家もこの近くかもしれない。
関東の農家は信州と違い屋敷森もあるから一軒の敷地が大きい。彼の家も大きいだろう。
島田桂子さんの家も確か桶川市加納だった。
1998年田辺で部下二人の主任研究員として独立してすぐ、Perez-ReyezがラットのT型Caチャネルをクローニングしたと発表した。それまで森泰生さんたちは沼研時代から他のCaチャネルの部分配列をプローブにT型Caチャネルを吊り上げようとしていたが、Naチャネルなどが釣れてしまっていた。私もT型Caチャネルは電気生理学での現象であり、実体は既知のCaチャネルでサブユニットの組み合わせによりT型になるのではないかと考えていたころだった。そんなときT型が新しいチャネル実体として取られた。
Perez-ReyezはラットのTチャネルをとったので、こちらはヒト脳のライブラリーからTチャネル(のちにα1Gと命名される) を取ろうとした。研究所のフレックスタイム制をフルに使い、中心となる須藤直樹研究員は夜遅くまで働き、早朝から働く島田さんにメモを残して帰宅する。須藤さんが出社するころは次のステップの準備ができているという具合だ。私は真ん中の時間帯で今までのテーマ、脳型Caチャネル阻害薬のスクリーニングを引き受けた。この3人で世界で(たぶん)初めてヒトα1Gを単離、安定発現細胞株も取ったのはいい思い出である。
選択的阻害薬にも世界で(たぶん)初めて到達したが、企業内研究であるため発表できなかった。適応症がなかなか見つからず、そのうちメガファーマのGSKが興味を持ったころ私がプロジェクトからはずされ、いつのまにか闇に葬られた。
島田さんはこれらの実験をしながら私の馬鹿話をよく聞いてくれていたのだが、その後一緒に仕事することはなかった。元気でいるだろうか?
子ども大学が終わって外に出た。
フレスポ桶川駐車場の向かいに大きな学校のようなものがあった。
しろがね幼稚園とある。
我が家の上2人が出た伊奈町(すぐ近く)のしろがね小室幼稚園の系列だと思ったら、別法人だった。両者とも山上憶良の
「しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」
からとったという。
こんなに人気のある名前なら全国にしろがね幼稚園はいくつあるのだろう?
港区の白金幼稚園は地名からだろうが。
東口というのは中山道側だから桶川の表玄関だったはずだが、駅前広場もない。
あまり差はないと思っていたが、来てみればだいぶ違う。
もっくんが生まれた1965年はまだ北足立郡桶川町のころである。
島田さんは1963年だったかな。知り合いだったりして。
面積km^2 人口 市政施行 駅開業
桶川 25.35 7万4千 1970 1885
上尾 45.51 22万7千 1958 1883
隣り合う中山道の宿場町だったのにどこで差がついたか?
上尾は昭和40年代から
西上尾第一団地(3202戸、1968)
第二団地(2984戸、1970)、
原市団地(1582戸、1966)、
尾山台団地(1760戸、1967)とマンモス団地の町。
私も新婚時代を含む6年間、尾山台に住んだ。団地で人口が増えたかと思ったが、上尾の市制施行は団地以前、桶川より12年早く、もっと前から差があったことを示す。少しでも大宮に近かったことがこの差になったのだろうか。
島田さんは1963年だったかな。知り合いだったりして。
0 件のコメント:
コメントを投稿