明治末期、目白駅の西側に、五摂家筆頭・近衛家が広大な土地と屋敷を持っていたことを前のブログで書いた。
公爵・近衛篤麿(1863- 1904)が明治37年40歳で病没したあと、
大正初めに広大な敷地の西側、1万5千坪は磐城中村藩主であった相馬家に売却された。
1914(大正3)年、長岡安平が庭園を設計し、翌1915年、相馬子爵が内幸町より転居した。
1932(昭和7年)
明治末期の地図にあった近衛邸が消え、代わりに相馬邸が描かれている。
目白駅は崖下で目白通りに面していなかった。
近衛家は残る東側の大部分も堤康次郎に売却した。
その結果、一帯は分譲地となり今に残る道路ができた。
今の地図と見比べれば、中央の道路の真ん中にそびえるケヤキの北、下落合三丁目駐在所の場所に、すでに当時交番がある(x印)。
その西北の一帯、下落合436番地、437番地から目白通りまでの、まだ広大な敷地が(小さくなった)近衛邸。
交番からまっすぐ南下し突き当たった406番地は学習院昭和寮。ここは戦後、日立目白クラブとなった。
また、交番から東南に下る道の南の414番地に新しい学習院昭和寮が建てられたことは前のブログで述べた。
さて、相馬邸。
例の交番からまっすぐ西に延びる道に接した南側に広がっていた。
この道に面して黒門という大名屋敷のような門があった。
この門から南がすべて相馬邸であった。
しかし、いまは北半分がすっかり住宅地になり(下落合2丁目22番地)、いくつか低層マンションが並んでいる。
その南がおとめ山公園である。
この日、おとめ山公園には東南から、すなわち近衛町の日立目白クラブのほうから入った。
四阿と池
道路を渡って再び公園に入る。
相馬家の領地、陸奥中村藩6万石は福島県浜通り北部。宮城県に接している。1954年の市制施行前は宇田郡中村町と言っていた。相馬野馬追祭りで全国的に有名なことから、殿様の名前が市の名前になったのだろう。
相馬氏は鎌倉初期に千葉氏から分かれた。
私ごとだが、妻の実家の茨城県取手市はかつて利根川をはさんで千葉県我孫子などとともに下総国相馬郡といった。相馬氏はここが本拠である。鎌倉時代末期にお家騒動から分裂し、相馬重胤が頼朝以来安堵されていた陸奥中村に下向した。
明治以降は野馬追祭りのほか、ドラマのような相馬事件でも知られる。
また福島原発事故で大きな被害を受けた。
渓谷のような地形を上から見下ろす遊歩道。
東京とは思えない。
後楽園や六義園など手入れされた木々でなく、原生林のような森。
戦後、相馬家はここを手放し、北は民有地に、南は国有地となった。
国有地の部分はしばらく放置されたが、起伏にとんだ地形と樹林を残したいと近隣住民の強い要望が実り、東京都が整備した。1969年公園として開園、同時に新宿区に移管された。
1995
以前の地図を見ると、かつての公園は南の斜面と池を中心として今より狭い。
台地の上の芝生広場は公務員宿舎があったようだ。
つまり、旧相馬邸すなわち黒門から南は、一般住宅地(下落合2丁目22番地)、公務員住宅、公園、と3つに分かれていた。
この日、子どもたちが遊んでいた「みんなの原っぱ」は10年ほど前まで公務員住宅だったのである。
公園を出て周辺の住宅地を歩く。
別ブログ
おとめ山通りの坂上。下落合2-19-12
ここもかつては相馬家の敷地であった。
戦後、民間に分譲された部分は一区画が大きかったのだろう。
工事看板を読めば907平米に豪邸が建っていたようだ(溝呂木邸?)。
しかし、地上3階の共同住宅になるようである。
このあたりのマンションの名前は目白近衛町を冠する。
相馬家の前の近衛のブランドが生きている。
電信柱の表示番号も近衛xx号であった。
20211127 目白の近衛邸と学習院昭和寮、日立
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