2021年11月27日土曜日

目白の近衛邸と学習院昭和寮、日立

目白駅の東は川村や学習院があって用事で来るのだが、西側はあまり行かない。

1909(明治42)大日本帝国陸地測量部

明治末期、目白駅の西側は近衛家の地所だった。
歴代天皇の80%は藤原氏から妃を迎えている。その藤原氏の主流、天皇の外祖父として権力をふるった平安時代の北家が分かれた五摂家の中でもさらに筆頭、すなわち嫡流の嫡流、人臣で天皇家に最も近い家、あの近衛家のことである。

地形を知るため駅の西すぐの狭い坂をおりる。
東に学習院血洗池を抱えながら、神田川から北に入り込んだ谷の西縁である。
2021‐11‐25
目白駅に上がる階段の遺構
なかなか良いモニュメントである。
今のような橋上駅になったのが1922年とある。
しかしこの階段がいつまで使われていたのかの説明はなかった。

この谷は、ここで西に曲がる。
目白通りに平行する谷は、北が高田村、南は落合村、つまり豊島区と新宿区の境になった。谷を西に歩いて坂を上がると目白通りからまっすぐ南に伸びる道に出る。

その道を南に進むと豪邸と低層マンションが並ぶ高級住宅街となる。
近衛町パークマンション

いまの下落合2丁目、3丁目のこのあたりを近衛町といった。
この地域のマンションに多い名前は「落合」ではなく「目白近衛町」。
高級ブランドである。

こちらも見れば、SINCE 2000 KONOECHO VILLAGE
見るからにお金持ちそう。

電信柱の標識まで「近衛146」

しかし昭和40年の住居表示以前もこのあたりは下落合で、近衛町というのは公式地名ではなかったと思うが。
道の真ん中にけやき。
近衛家の屋敷にあったものだろう。
100年以上経っている割に小さい。
盆栽のように毎年刈り込んでいるからか。

1900(明治33)年、公爵近衛篤麿が目白駅の西に広大な土地を購入し、屋敷を建てた。
上に示した1909年の地図をみれば、大部分が広葉樹林、そのなかに家屋らしきものがある。そのあたりに行ってみる。
近衛霞山公終焉之地
屋敷のあった場所に、細長い敷地で記念碑が建っていた。

篤麿公(1863- 1904)は近衛家第28代当主、後陽成天皇の男系11世子孫。
第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長などを歴任。号は霞山。

ちなみに、28代というのは北家の摂政 関白・太政大臣、藤原忠通(1097〜1164)の四男(実質的な長男)の近衛基実を家祖として数えた場合。九条家は忠通の六男を家祖とする。

篤麿の長男が有名な近衛文麿である。
父が40歳で病没したため、12歳で家督を継いだ。

近衛文麿の屋敷といえば、日独伊三国同盟を決めた荻窪会談や、服毒自殺の舞台となった荻外荘が有名だが、文麿は荻窪の前はここ目白に住んでいた。

目白の敷地は、篤麿死去のあと西側は相馬家に売却され、南側は堤康次郎の箱根土地(いまのコクド)に売られ、堤は宅地開発して1922(大正11)年に売り出した。
文麿は1924年に麹町の新邸に移るが、来客の多さに辟易したか、再び目白に戻ってくる。残っていた敷地、下落合436番地に新たに建てた邸宅は、1929(昭和4)年に竣工した。

その場所に行ってみる。
道路の欅から目白通り方面に少し行ったところ。

下落合3-17-42
こんなに広い私道がある。いかにも大きな敷地を私的に分譲したようす。
表札があり、6軒のうち一番左に「近衛」とある。
「私有地につき進入禁止」は車のようなので、そっと入らせてもらう。

これが近衛さんだろうか?
遠慮して近づかなかったので表札は分からない。

そのすぐ南も私道が入る分譲地になっている。

後で行った中村彝アトリエ資料館で大正末期の地図があった。
先ほどの私道のあったところから目白通りまでが、小さくなった(まだ大きいけど)近衛邸である。

文麿はその後、1937(昭和12)年、東大医学部教授、入沢達吉の荻窪別邸を購入、目白からさらに郊外に移住したのが有名な荻外荘である。

さて、道の真ん中にけやきのあった道路を南下する。

日本バプテストキリスト教 目白ヶ丘教会

教会からさらに南に行くと南欧風のおしゃれな建物に突き当たる。
日立目白クラブ
ここは以前、学習院の寮だった。

かつて学習院は敷地の西側が教室など学校施設、東が寮など学生の生活スペースであったことは以前書いた。
しかし1923(大正12)年、全寮制から希望入寮生に改められる。そのさい高等科学生の寄宿舎を中等科学生の寄宿舎と分離して学外に新築することになった。関東大震災のため計画より遅れたが、1928(昭和3)年、近衛町に完成した。
それが昭和寮、この壮麗な建物である。

イギリスの学生寮をモデルにし、広大な敷地にダンスホール・バーカウンター・テニスコートなど、豪華な設備を有した。戦前の華族の子弟というのは、こういう世界にいたのだ。
しかし食糧事情の悪化などにより1944年に閉鎖、戦後は新制学習院の財政確立と新校舎建設の資金を得るため1952年、日立製作所に売却された。

昭和初めのデザインとは思えない。

それにしても文京区の白山閣細川邸も日立が迎賓館として買っている。
東芝があんなふうになって、日立も大丈夫だろうか。
経営悪化から売ったら、更地になってマンションになる。
文京区と違って文化に理解ある新宿区だから、区が買ってくれることを期待したい。

今は日立の保養?研修施設だろうか?
子会社まで入れると日立の従業員は35万人。
そのうち何人が入れるのだろう?

さて、日立への昭和寮売却と同時に、戦後の学習院学生のための新たな寮として近くに改めて昭和寮が建設された。そこへ行ってみる。

目白が丘教会の四つ角から東に行き坂を下りかけた角に碑が立っている。
(新)昭和寮跡の碑

しかし1997年3月、建物の老朽化と入寮者の減少を理由にこちらも閉鎖、土地も売却された。
(新)昭和寮跡の石碑のあるマンション、すなわち跡地に建ったのは
Glanzober Mejiro Konoecho
やはり目白近衛町である。
目白近衛町は、文京区の大和郷や西片より豪邸が多い。


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