2023年12月5日火曜日

須坂東高校と旧上高井郡役所

12月2日、信州中野の実家に帰る途中、長野からちょうど中間の須坂で途中下車した。

須坂は小布施を挟んで中野の隣の市。
長野へ行くとき、東京へ行くときは必ず通過するのだが、つねに素通りしていた。街の記憶もない。

ただし高校3年の冬、車の免許を取るのに地元の中野でなく、須坂自動車学校に通った。高校の最後は出席日が少なくなったので定期券を買わず、無料送迎バスを通学にも使おうという魂胆で、学科の講義中は受験勉強の内職をしていた。

しかし、その後は小布施と違い、何十年もまったく来ることがなかった。
このまま隣の市を歩かずに終わるのはまずいと思った。
2023₋12₋02 9:11
長野電鉄須坂駅は、いまも毎年、何回も通過し車窓からホームは見ているが、降りるのは1975年以来。
駅舎はまさかの橋上駅だった。竣工したのは1975年12月というから、まさに高校卒業、上京した年の暮れにガラリと変わったようだ。
9:11
駅前は道路が広くビルは高い。あまりの変わりように50年近く前の景色が思い出せない。
以前は道が狭く、蔵のある古い商家が多かった。

駅前から東に歩き始めるとわずかに上っている。面白いことに、善光寺平は千曲川の東側に扇状地が並び、松代、須坂、小布施、中野、木島平はそれらの上に発達した。

やがて、古い街道に入る。
9:20
中央通り
私の須坂のイメージはこういう街並み。何の変哲もない通りだったが、今は生糸で栄えた蔵の街並みを観光資源として売り出そうとしている。カフェや須坂クラシック美術館(岡信孝コレクション)、まゆぐら(生糸の博物館)、笠鉾会館などが並んでいる。小江戸・川越より車や群衆がいないぶん雰囲気は良い。
しかし、土曜日というのに季節外れなのか観光客は誰もいない。それどころか駅に降りた人もほとんどいなかった。
9:21
この道は私が高校のころメインストリートだった気がする。
観光案内所でもらった地図には中央通り、銀座通りと書いてあるが、グーグルでは谷街道とある。
谷街道は北国西街道最大の宿場町稲荷山から分岐して千曲川を渡り、対岸の北国街道矢代宿(屋代)から松代藩、須坂藩、天領(小布施・中野)を経由して飯山藩に至る。中野では我が家の田んぼのすぐ南を通っていた。今これらは国道403号が結んでいる。

通りを東に歩いていくと、左の奥のほうに鳥居が見えた。
9:26
県社延喜式内墨坂神社
須坂の語源はこの墨坂だろうか?
9:29
やがて中央通りは見覚えのある交差点に出た。
中野から菅平を経て東京に行くとき、小布施方面から国道403号で南下して、須坂駅の手前で左折、この道を向こうから来て、この交差点の少し南(写真手前方向)で長野市から来る国道406号に合流、かつての大笹街道を菅平に上がっていく。

その後、東のほうに広域農道「北信濃くだもの街道」ができてこの交差点は通らなくなった。さらに上信越自動車道ができると菅平を通ることもなくなり、須坂は通り抜けることすらなくなった。

繁華街が途絶えて住宅街に入ると戦前の建物あり。
9:33
旧上高井郡役所
1917(大正6)この地に新築竣工。
しかし1921年の府県制郡制廃止法により、
1926年、郡役所は廃止、上高井郡連合事務所となる。
1935年、長野県経済部出張所
1942年、上高井地方事務所
1986年、須坂保健所
2006年、土地、建物が長野県から須坂市に譲渡。

市は老朽化した建物を解体せず、文化遺産として改修した。
2007年、市民交流施設となる。
9:35
公民館みたいなものだから入場無料

玄関左の事務室でパンフレットをもらう。


信濃国高井郡というのは松代(埴科郡)の北、若穂町から新潟県も近い野沢温泉まで、千曲川東岸の地域をしめる。須坂、小布施、中野、木島平などを含んだ。

そして明治初期の郡町村編成法により、明治12年(1879)に須坂町を中心とする南の上高井郡(1町44村)と中野町を中心とする北の下高井郡(1町56村)に分かれた。
(当時の町村は、我が家のある岩船が50軒ほどの集落で独立した村であったように、今の村よりずっと小さい。)

下高井郡が中野と山之内の間に箱山、中野と木島の間に高社山があるのに対し、南の上高井郡は山もなく郡全域がまとまっていて雪もなく、明るく開けたイメージがある。

その後、上高井郡は長年の合併、編入、離脱で再編され、私が子供のころの記憶では、須坂市のまわりに2町2村となり、若穂町(1966、長野市に編入)、東村(1971、須坂市に編入)が消えて今は小布施町、高山村の1町1村が残る。
須坂と上高井郡を表す「須高」は、須高医師会など多くの名称に残るが、農協のJA須高は2016年にJA長野と合併し消滅した。

そうした時代に郡役所の建物が残っているとはつい最近まで知らなかった。
9:35
入ってすぐ右の市民交流室は「碁SUZAKA」の本拠地のようだ。
9:37
昔の写真や資料と現代の市の広報など、掲示物が混在している。
「ダンスシューズには必ずヒールカバーを巻いてください」という掲示は、社交ダンスにも使われているということか。
2階に上がってみる。
9:38
多目的ホールは一番広い部屋。ピアノもあった。
社交ダンスはここでやっているのだろう。
床が新しい。2007年の改修工事の前は鹿鳴館のような部屋だったか。
9:39
入り口にある戦前の写真を見れば、窓枠の場所とか同じである。
ここで上高井郡の郡議会が開かれていたようだ。

見学者、利用者は誰もいなくて事務室の人も暇そうだった。
9:41
旧郡役所を出ると、凝った切妻破風の小屋があった。
かつての守衛所だろうかと覗くとただのごみ置き場で、箒や塵取りが入っていた。ペパーミント色の郡役所の景色に合わせている。

おしゃれなゴミ置き小屋のすぐ先に須坂東高校があった。
9:43
高校生の頃、文化祭に一度くらい来たかどうか。
建物は新しくみえる。1973年私が高校2年のときに竣工したようだが記憶にない。

1918年(大正7年)町立須坂実科高等女学校として創立。
1922年長野県須坂高等女学校と改称
北信の女子高では長野西に次ぐ存在で、私の中学からも何人か進学した。
1976年 新1学年より男女共学となったが、今の男女比率はどれくらいか分からない。
2022年は123人卒業で81%が専門学校、大学などに進学しているようだ。

私の高校時代、1973年に制服が自由化されたというが、その変化は記憶にない。依然としてセーラー服の女子が多かったのだろう。そのセーラー服は後ろ襟の白線が普通は3本のところ、2本だったのがかっこよく、電車の中でもすぐ目についた。

(続く)

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