2023年12月18日月曜日

関宿2 川関所と棒出し、スーパー堤防

12月13日、ずっと気になっていた関宿にやってきた。

バス停を一つ乗り越したおかげで鈴木貫太郎記念館をみられた。そのあと、本来の目的である江戸川の始まりを見るべく、記念館から西に少し歩くとすぐ堤防にぶつかった。
左・江戸川、右・利根川
埼玉、千葉、茨城の3県が、関宿城址のある狭い範囲の一枚に収まっている。

堤防の手前に本来降りるはずだった江戸町バス停があり、そのそばに石碑があった。
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関宿関所跡
江戸時代、幕府は防衛上の理由から大河に橋をかけさせなかった。街道が川にくれば渡し船である。自然、その両側に関所ができる。佐倉街道が江戸川を渡る小岩・市川の渡しにも関所があり、以前書いた。
関東の関所
http://www2.chiba-muse.or.jp/www/SEKIYADO/contents/1642144227168/simple/sekisyo.pdf

関東、江戸へ入るには、西日本、北陸からは、箱根、小仏、碓井、大笹、猿が京の山関所、東日本からは利根川を(下流では江戸川も)必ず渡らねばならなかった。1616年、幕府は16か所の渡船場(定船場)を設け、それ以外での渡河を禁止した。

定船場は川関所となり、川の両側に番所をもうけ、一対となって女性と手負いのもの、死体を運ぶものなど、不審者の通行を取り締まった。(1631年には小岩、金町、関宿、栗橋、川俣、五料の6つの定船場を正式な関所とした)。関宿は、江戸川をはさんで対岸の幸手側にも番所はあり、両者は関宿藩が管理していた。

関宿は日光街道の脇道、日光東往還が通っていた。すぐそばの鈴木貫太郎記念館の前の道がそうである。この脇街道は川向こうの幸手側から来るのではなく、南から来る。水戸街道の小金宿の北(いまの南柏駅付近)から始まり、山崎宿、中里宿、関宿宿、境宿を通って古河、結城をとおり日光街道・石橋宿の北で日光道中に合流する。だから川を渡る人はあまり多くなかった。ではどういう関所だったかというと、主に船を監視したのである。
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関所跡の石碑の裏に、「関宿関所と棒出し」という説明板があった。

北関東から江戸に入るほとんどの船はここを通った。人も物資も載せた。水運というのは今では考えられないほど盛んで、明治になっても荻野吟子が熊谷の在から江戸へ出るときは利根川を下った。
うっかりそのまま流れていると江戸に行かず銚子の海に出てしまうから、関宿で江戸川に入る。幕府はそれらの船を監視しやすいように、両側の堤防が川に向かって突き出した「棒出し」というものを作った。つまり川を狭めて取り締まったのである。

棒出しは関所がなくなっても水量調節の役目として存在したが、昭和期にはいってすぐ上流に関宿水閘門ができて昭和4年に撤去された。
関所(番所)は、関宿側も幸手側も棒出しの上にあったから、江戸川が大きく広がった今は川の中である。

石碑の裏の堤防に上がってみる。
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このあたりの江戸川の堤防はスーパー堤防らしい。つまり外側に高さの30倍ほどの幅を持たせて盛り土し、傾斜を緩やかにしてある。そのため万一越水しても決壊しにくい。

幅を広くした分、土地をつぶしたわけだから、堤防の緩斜面も建物を建てたり緑地にしたりして利用できるようになっている。

鈴木貫太郎が村の若者に酪農を奨励したとき、関宿のまわりを囲む堤防の上の草を食べさせることを考えていたようだ。河川敷も堤防も広くなった今なら当時よりもっと、そういう牧草地の面積は増えている。しかし首都圏での酪農は経営的にどうなんだろう?
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堤防に上がって江戸川を見ようとしたが、川は遠く、かつ草木に隠れ、水は見えなかった。

ここで驚いたのは、堤防の両側の地面の高さがあまり変わらないことである。
ここに来る前、関宿すなわち千葉県の西北に長く引き延ばされた部分は北総台地の一部だと思っていた。城もあったわけだから川に挟まれた細長い高地だと思っていた。しかし全く違った。これでは水害に悩まされただろう。

台地?の突端から二つの大河の分流点を見れるかと思ってきたが、この分だと先端の先端まで行かないと見えそうもないな。当てが外れ、堤防を下りた。

幕末、久世氏関宿藩の城下町、かつ日光東往還の宿場町、かつ船の行き交う関東最大の川関所として栄えた町の人口は48,000人余もあったという。(出典忘れた)関宿城本丸が堤防の下になり、何の変哲もない農村になってしまった現在よりはるかに多い。

関宿の語源は何だろう?
川関所と宿場町だろうか?

枯草の下に眠るや関と宿

(続く)

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