2023年12月17日日曜日

関宿の鈴木貫太郎記念館はバス停前

ずっと気になっている場所があった。

関宿。
地図を見るのが好きだった小中学生のころ、千葉県が水に囲まれているという話を聞き、海と二つの川によって陸地が本州から隔離されていること確めた。最近全国で出没が話題になっている熊が房総半島の山にはいないということもこうした地形に関係しているかもしれない。
千葉県の北西部分は、江戸川が利根川から分流しているので、かなり細い鋭角になっている。拡大すれば引き延ばされた餅のように狭い陸地が二本の川に挟まれている。実際現場はどうなっているのだろう?

地図を見ていた子どものころ関宿という地名は知らなかった。しかし大人になって、仕事でそのあたりを車で走っていた叔父からセキヤドという変わった音の場所はよく聞き、1995年関宿城を模した県立博物館ができたころには、あの川の分岐点が関宿であることをはっきり認識していたと思う。

関宿は、歴史的には水運として栄え、関宿藩の城下町であった。
数年前、文京区の坂道を網羅的に歩いて私的にランキングをつけたとき、第一位となった鷺坂の上が久世山と呼ばれ、関宿藩の下屋敷の地であったことを知った。
こうしてだんだん関宿が気になってきて、いつか行こうと思っていたが、鉄道がなく不便、ずっと後回しになっていた。
それが、先月、文京区で全国殿様・藩校サミット2023が開かれ、藩主家の現当主、久世氏が登壇されたことから、行こうと決めた。
左・江戸川、右・利根川
埼玉、千葉、茨城の3県が一枚に収まっている。

千駄木から千代田線と東武スカイツリーライン急行で53分(659円)、東武動物公園駅に10:22に着く。
西口はダンスの競技会で進修館に何度も来ているが、東口は初めて。きれいで広々した西口と違い、こちらは駅のそばまで古い家や商店が迫り駅前広場がない。ここから、はるばる利根川の向こう茨城県の境車庫まで行くバスに乗る。10:30発。駅周辺は区画整理をしているようだが、家があちこちに残っていて道は狭いまま。

バスはすぐに日光街道に出て、杉戸宿という文字が見えた。
そうか、宿場町として栄えた杉戸のために作った駅だ。
動物園ができる前は杉戸駅だったのではないか?と思って帰宅して調べたら、やはりそうだ。1899年(明治32年)東武鉄道北千住駅 - 久喜駅間開通と同時に杉戸駅として開業。動物園のできた1981年に改名した。

東武鉄道は、玉ノ井を東向島に(1987)、業平橋をとうきょうスカイツリーに(2012)、松原団地を獨協大学前に(2017)、また路線名も野田線をアーバンパークライン、伊勢崎線をスカイツリーライン、と、わりと名前を変える会社である。
東武動物公園駅は、駅が杉戸町ではなく宮代町にあったこともあり、杉戸から替えやすかったのかもしれない。

乗った朝日バスは乗客が4人。筑波山がよく見える田んぼの道を東に進み、やがて江戸川を越えて関宿、すなわち埼玉から千葉県に入った。

10:54
左に江戸川、堤防が大きい。
関宿に入ってすぐ、目的地の江戸町バス停までは、19駅、25分(483円)。しかしうっかり通り過ぎてしまい、慌ててボタンを押し、つぎの関宿台町で降りた。
バスを降りたら鈴木貫太郎記念館の真ん前。
もちろん知っていたが、合流する川と関宿藩の地という広い景色を見に来たため、ここは優先順位が低かった。予定では関宿城址の帰りに時間があったら(本数の少ないバスの待ち時間に)立ち寄ろうと思っていたが最初に見ることになった。

よく知られる終戦内閣の総理大臣である。
彼の旧居跡に建てられたものだが、鳥居こそなけれ神社の境内のような雰囲気の記念館であった。その樹木の多い「参道」を進むと塔があった。
10:58
「萬世の為に太平を開く」
大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節、
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
の文言だが、降伏に抵抗した陸軍を抑え、終戦までもって行った鈴木が戦後好きだった言葉である。

鈴木は1968年1月(慶応3年12月)生まれで、江戸時代生まれの最後の総理大臣。
下総国、関宿藩士の家であったが、和泉国大鳥郡(いまの堺市、当時は関宿藩の飛地)で生まれ、間もなく東京に移り、明治5年関宿に転居、久世小学校に入学した。
家は前橋に転居、前橋中学(中退)、攻玉社から海軍兵学校に進んだ。日清戦争では水雷艇長として参加、日露戦争では第4駆逐隊司令として、持論だった高速での近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼貫と呼ばれた。
海軍次官(1914)、海軍兵学校長、海軍大将、連合艦隊司令長官(1924)などを経て、昭和4年(1929)侍従長、枢密顧問官に就任した。

教科書でも広く知られるのは、二二六事件であろう。このときは高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣の二人の元総理が殺害された。
鈴木は侍従長として昭和天皇の信任が篤かった反面、ロンドン軍縮条約で強硬に軍縮を反対する艦隊派の加藤寛治を抑えたことから、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、命を狙われた。
昭和11年(1936)2月26日、侍従長官邸に押し入った部隊に、拳銃で頭部や胸など4発撃たれた。賊が去ったあと、近所に住んでいた日本医大学長塩田広重が駆けつけ、日本医大の飯田町病院に運ばれ、奇跡的に命を取り留めた。

大戦末期、東条内閣は重臣たちの倒閣運動もあり、1944年7月にサイパン陥落の責任をとって総辞職、後任の首相はやはり陸軍出身の小磯国昭だったが、戦争終結、和平を試みた。しかし陸軍を抑えられず、また閣内をまとめきれず、1945年4月総辞職。

鈴木は当時枢密院議長であったから、組閣のための重臣会議(総理経験者と内大臣、枢密院議長で構成)に出席、そこで小磯の後任に指名された。固辞するも、重臣の間で根回しがされており、さらに天皇に直接呼ばれ強く依頼されたことから鈴木貫太郎内閣が成立した。その後は徹底抗戦派をだますようにして、なんとか和平に進んだことはよく知られるところである。

戦後は子どものころ過ごした関宿に移り、わずか1年7か月であったが悠々自適な生活を送った。
10:59
説明板を読めば、鈴木はここでのんびりお茶を飲むだけの余生を過ごしたわけではなかった。農事研究会を発足させ、将来酪農を取り入れることを青年たちに指導したという。関宿は酪農の町として知られるようになったが(私は知らなかったが)、その源は鈴木にある。

敷地の端に集乳所新設記念碑があったようだが、見損ねた。
いまグーグルストリートビューを見ると降りたバス停の前が記念館の駐車場だが、記念碑らしきものが見える。駐車場の東半分にガソリンスタンドの様な屋根があり、集乳車が停まっている。

ネットに記念碑の文があった。
コピー、拝借すれば
以和為貴
関宿町酪農組合は去る昭和廿四年同志廿四名を以て創立し同廿六年事務所と集乳所を鈴木家邸内に設けその機能を拡充強化して発展の態勢を整へ同廿九年近代的集乳所を同邸内に新設して不動の基盤を確立した今や組合員八十名を数へその旺盛なる活動と合理的経営進歩的運営とはラヂオ放送に新聞報道に数次採擇せられて広く世の注視を浴びてゐる組合結成以来僅に五星霜真に驚異的な躍進と謂はざるを得ない按ずるに本組合の創設並に爾後の進展向上は一に元首相故鈴木貫太郎翁と孝子令夫人の薫化誘掖の賜で翁の遺訓「正直に腹を立てずに撓まず励め」の一語は組合員の信條であり全員その高諭を服膺し高風を欽慕して百折不撓千挫不屈の精神を堅持し夙夜精励してゐる更に本町酪農事業の創始者杉本峯蔵翁並に本町農事研究會に於ける有畜農業の提唱指導者岡本敏夫先生酪農経営の合理化近代化の教示啓発者楢原恭爾博士及び常に助言を惜しまざる浜野政三博士の懇志芳情は組合員の深く銘記する所である茲に集乳所新設に際し碑を建て由来を記してこれを記念する
 昭和二十九年五月十四日   鈴木孝子篆額  奥原謹爾撰文並書

読めば、村の青年たちに助言しただけでなく、死後はタカ夫人が引き継ぎ、自邸内に酪農組合事務所と「近代的」集乳所を作らせたようだ。

帝国海軍の発展とともに自身も成長して文字通り海軍トップに上り詰め、これだけでも十分偉人なのに62歳で侍従長に転じ、77歳で総理大臣。偉人何人分もの経歴。さらに郷里に引退しても1年7か月で青年たちから師と仰がれ、今までと全く異なる農村でも後世に名を残す。最後まで充実した濃く長い人生である。

・・・・
さて、記念館建物に向かう。
外で落ち葉を掃いている人がいたが、記念館には誰もいなかった。
入場無料。
しかし入口のドアに貼り紙がある。
11:01
読めば、令和元年(2019)の台風19号で雨漏りがあり、大部分の展示品は他の施設に避難、現在はロビーでの資料映像のみという。
11:01
展示はこの一室のみのようだ。
映像をみようとしたが映らなかった。二・二六事件に遭遇したタカ夫人の肉声インタビューもあったようだから、もう少しリモコンをいじってみれば良かった。しかし関宿での本来の目的地でなかったから先を急いだ。
11:03
最後の御前会議と終戦の詔書(複製)

退出し、バス通りに出た。
記念館の西側の道路を覗くと古い門がある。
11:09
鈴木家のかつての正門だろうか。
鈴木邸は敷地の南東部分だったようだから移築したのかな?
いや、一家は明治初めに前橋に移ったから、これは鈴木家とは関係ない門かもしれない。
戦後の鈴木邸の門はバス停のそばにある。

11:10
記念館の西門の脇に野田市が作った観光地図があった。
周辺だけでなく野田市全体の図もある。
恥ずかしながら関宿が野田市の一部だとここで初めて知った。

野田市はもともと南北方向に長かったが、2003年に細長い東葛飾郡関宿町を吸収合併したから、ますます細長い市になっていることが分かる。旧関宿町の人は、野田市の中心に行くより橋を渡って県境を越えた埼玉(幸手、杉戸)、茨城(猿島郡境町)のほうが近い。
鷲宮の叔父の家から妻の実家の取手に行くとき、国道16号や東武野田線で何度も野田を通った。その野田市とこの関宿が同じ自治体とは思わなかった。

退職前の職場で一緒だった岡田先生は高校生のころ野田市に住んでいらしたという。あるときどういう流れだったか、彼女の口から関宿と鈴木貫太郎の話が出たことがある。そのとき私は関宿が野田市の一部だとは知らなかったから、突っ込まなかった。今思うと、ひょっとしたら彼女が昔住んでいたのは、我々が普通に思う野田ではなく、関宿だったのではないか? 東京に出るときは野田線で柏でなく、伊勢崎線で北千住に出ていらしたと聞いたような気もする。

鈴木貫太郎記念館は、吉田茂、池田隼人、佐藤栄作らが建設発起人となったが、建築費の多くはキッコーマン醤油が出した。当時の金で2000万円というから今なら2億円ほどの価値か。先ほど野田と関宿は遠く離れて全く違うと書いたが、建設には野田を代表する会社が尽力している。その後記念館は関宿町に移管され今は野田市の管理となった。

野田市は台風雨漏りの修理で調査したとき耐震強度に問題があったことから、現在は休館状態にしている。補強も困難なことから立て替えを計画し、現在地が洪水ハザードマップで浸水想定区域とされているため、移転させるようである。
私は場所こそ一番大事だと思うから洪水が心配でもここが良いと思う。資料が水につかっても、それはそれで歴史的な関宿らしくて仕方がない。他の民家などが移転しないのに記念館だけ動かしても・・・

鈴木貫太郎に戻ると、終戦の日、小石川丸山町の私邸は終戦反対派に襲われ焼き討ちされた。
今その場所は文京区千石3丁目、不忍通り沿いの猫又坂ちかくである。石垣が残っているそうだが、何度も通っていて気が付かなかった。

(続く)

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