谷中銀座は多数の観光客が来る場所になった。
最初は昭和の下町を懐かしむ日本人たちが来たが、大して見るものはないから二度は来ない。それゆえ良いことしか書かないガイドブックを信用した外国人が来る場所となり、いまや外国人のほうが圧倒的に多い。彼らは朝8時ころから来て、店が開いておらず人もいない通りで呆然としていることがある。
当たり前だが、昔は観光地ではなく地元の商店街だった。
1975年高校卒業後上京、大学構内の寮に2年いて、本郷に来てからは自転車で通える本駒込の二葉荘に8か月、向ヶ丘の寮に1か月、そして1978年1月から81年3月まで3年3か月、谷中真島町の谷アパートに住んだ。
谷中のアパートから日暮里駅へは、谷中小学校の前から六阿弥陀道にはいり七面坂を上がる。だから、谷中銀座も夕焼けだんだんも、かするだけで普段の道ではなかった。それでもたまには気まぐれでそちらを通った。
50代になって懐かしい土地に住みたいと、2011年に千駄木に家を買って、30年ぶりに谷中銀座にきた。
2012₋10₋15
夕焼けだんだん
引っ越しは2013年4月だから、埼玉から新居を見に来たついでだった。
右側の階段下のパン屋はなくなっていた。
2014年6月、日暮里駅東口にダンス練習場、ファーストプレイスがオープンしてから日暮里駅と自宅の間を歩く機会が増え、その多くは谷中銀座を通った。
このあたりは変化が激しくどんどん変わる。
階段上の古本屋「信天翁(あほうどり)」はブックオフにないような渋い本を扱っていて「谷根千」のバックナンバーを買ったが、2019年2月3日に閉店。
階段下の寿司・魚て津も、いつか入ろうと思っているうちに、このころ消えてしまった。
2021年7月に日暮里のダンス練習場が閉鎖されてから、谷中銀座、夕焼けだんだんから足が遠のいた。
2022年3月定年退職後、京成高砂の畑バイトの帰りに日暮里駅から歩くこともあり、たまに夕焼けだんだんを通ることがあった。外国人がぐっと増えていた。
今年、2023年秋、久しぶりに夕焼けだんだんへ来ると、かつて魚て津、にっぽり館などがあった一角、つまり七面坂との間の建物群がすっかり壊されていた。今までは建物がそのままで店が入れ替わっていたのだが、景色が大きく変わった。
2023₋10₋17
七面坂を越えて長明寺の墓地まで見える。
また、谷中銀座入り口、六阿弥陀道の角も更地になっている。
何になるか知らないが、マンションはやだな。
谷中銀座もどんどん変わる。
谷中に住んでいた学生時代、通学途中の根津交差点付近に赤札堂や惣菜店があったから、反対方向の谷中銀座では買い物しなかった。しかし、ここの野中ストアは入った記憶がある。
2021‐11‐15
のなかストア
数十年ぶりに千駄木に来てからも、前を通ったついでに食パンや牛乳などを買うことがあった。
また、前を通るときは野菜の値段をちらりと見るのが癖になっていた。
その、のなかストアが閉店した。
畑バイトの帰り、久しぶりに日暮里から歩いて帰る途中、谷中銀座を通ってびっくり。
2023₋12₋08 16:32
閉店のお知らせは11月から貼ってあったようだ。
12/1~6 全品2割引き
12/7 3割引き
12/8 半額
と書いてある。
16:33
店内をのぞくとイチゴのパックが数個あるだけ、きれいに空っぽだった。それが売れたら(たぶんあと数十分か)閉店だろう。
偶然閉店間際を見たわけだ。
歩いてきた通りを振り返った。
16:34
左、キャンドゥの跡地
右、お茶の金吉園
谷中銀座の真ん中ほどにあった100円ショップ、キャンドゥは、もちろん学生時代はなかった。しかし古株の店舗に先立ち今年閉店、今更地から工事中になっている。
2023₋12₋08 16:34
写真左、野中ストアの西隣は観光地されてからシナ麺の「はしご」、ネコ型たい焼きを売る「招き屋」と変わった。今写真を見ると保護ネコカフェとある。昔は考えられなかった店である。
その隣は肉のすずき。昔は通りの北側にあった。肉のサトーとともにメンチカツ食べ歩きでテレビに出る。すずきもサトーも住民相手から観光客相手に切り替え、時代を生きておられる。
森まゆみらの地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(谷根千)第2号(1984年12月)に40年前の谷中銀座の商店街のイラストがある。まだ観光地化される前である。
古い商店街に見えるが、戦後にできた。昔はもっと北の谷中幼稚園付近にあり、戦時中に建物疎開して道路が広くなったところに商店が移って来たらしい。
いま、40年前の店名を見ると大分なくなっている。
12月31日、どのくらい残っているか確認したくて再び谷中銀座へ行ってみた。
2023₋12₋31 14:08
前回気づかなかったが、観光客は誰も買わない魚屋さん、富じ屋が「感謝のお知らせ」という貼り紙をしていた。「約一世紀の間、谷中富じ家をご利用いただきありがというございました・・・・」
焼き魚、煮魚、生魚を昔のように皿にのせて何もかぶせず売っておられたが、きれいにラップされたスーパーの商品に慣れた人は手を出しにくい。値段も意外と高く(と言っても利益はないだろうが)、買っている客を見たことがなかった。しかし、また景色が変わる。
夕焼けだんだんのほうまで歩いて各店舗を見てくる。
かつて(つい数年前まで)全店舗がおしゃれに統一された板の看板を掲げていたが、入れ替え、改装が相次ぎ、看板のある店はわずか。
武藤書店は赤澤不動産などに貸して間口が3分の1になっている。
少し西の洋品店すずむらのご主人が品物を出していたので、少しお話を聞く。かつては3店舗あったらしいが今はここだけとか。
西隣で観光客を集めている「蜜芋研究所」さんは、以前かばん屋、その前はヤマシタヤという靴店だったそうだ。他にもいろいろ教えてくださったが、店名多すぎてメモしきれず。
西のほうに戻ってくる。
14:22
今や唯一の八百屋となった尽誠食品は閉まっていた。
廃業ではなく年末年始休業と思いたい。
この八百屋では、千駄木に来てから庭に植える泥ネギと見切り品のグレープフルーツを買ったことがある。よみせ通りのマルエツプチ、道灌山下交差点のまいばすけっと、サミットなどスーパーに押され不忍通りの八百屋さんなどが閉店する中、昔通りの商いをされているのは立派。
そういえば戦前、谷中銀座商店街がもっと北にあったときは安八百屋通りと言ったそうだ。
尽誠食品が入っている雑居店舗の看板には肉のサトー、中華・紅華、石橋鮮魚、清水かまぼこ店、ファミリー鮨・宝家と5軒の名があるが、営業しているのはサトーと尽誠食品のみにみえる。
14:38菅井生花(左)と小野陶苑
隣り合う2軒は40年前のイラストにもある。
菅井さんのおばあさんが立っていらして目が合い挨拶したので少し話をきく。
和栗やは魚屋さん(魚亀)、飲み屋は杉田さんという豆腐屋さんだった。野中ストアの手前はタケダさんという洋品店だったの。向かいの鶏肉うなぎの小林さんと福島さんは残っているけどね。こうなっちゃうと住んでる年寄りが買い物がてら立ち話できるところがないって寂しがるのよ。
昔から現存する2軒。
結局、1984年「谷根千」にのっている64店舗のうち、縮小移転しても残っているのはわずか11店舗だった。すなわち飴の後藤、武藤書店、洋品すずむら、肉のサトー、肉の鈴木、立ち飲み・越後屋、鳥魚・小林、鮮魚・福島、小野陶苑、菅井生花、雑貨やまと、である。
商店街というのは様々な店が並んでいないとスーパーに太刀打ちできない。谷中銀座のように、櫛の歯が抜けるように普通の店が観光客相手の店に代わっていくと、地域住民は離れていく。
「谷根千」を読んでいたら68号(2001年12月)に鈴木肉店の店主が出ておられる。
狂牛病騒ぎで売り上げが減っていて嘆いていらした。まだ観光地化されず、商店が元気に住民と触れ合っていた時代である。
5階建ての店舗・共同住宅とあった。建築主は野中圭助氏だったからスーパーになってほしいな。
しかし猫のぬいぐるみや、箸、キーホルダーを売る店、占いや、はては「勇気」「日本」「愛」「美」などをふつうに書いた色紙を詐欺のように(しかし堂々と)1枚2800円で売るような店が増えては地元民は近づきたくもない。
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