5月12日、熱海にダンスのバイトに行く途中、用はないが大磯で下車してみた。
この駅には商店街がない。
駅前の旧木下邸の西の坂を降りて国道1号線(旧東海道)を西に歩いていくと、さざれ石の交差点の先から少しずつ上り坂になる。
このあたりから南側(海側)に役場や料亭、中学校などが並ぶが、元は政府高官や華族の別邸だった。
敷地が広いから「軒を連ねる」という表現はできないが、門塀を連ねて並んだ。
砂丘のため東海道より一段と高く、家から相模湾が臨め、庭を下りて行けば波打ち際である。
11:16
旧徳川邸・山県邸だった大磯中学校の隣から長い石塀が続く。右は旧国道1号線。
石塀が途切れたところに門があった。
長い石塀の中は古河電工の保養所だったが、元は陸奥宗光邸、大隈重信邸である。
いまは国が所有し明治記念大磯邸園を整備中。
国道からこの門へのアプローチの左に石段がある。
個人宅の表札が2つ
はて、古河電工保養所の中に民家があるのだろうか?
西の正門のほうにまわる。
11:19
明治記念大磯邸園 正門
入場無料がうれしい。
東海道(国道1号線)と浜辺(厳密には西湘バイパス)の間をそっくり公園にする計画。
庭園ではなく邸園である。
現在整備中であり、西側の西園寺地区(公望別邸のち池田成彬邸)、滄浪閣地区(伊藤博文邸のち李王家別邸)は非公開、一番東の大隅・陸奥地区のみ公開されている。
11:22
管理事務所でパンフレット地図をもらって歩き始める。
11:23
旧大隈別邸
大隈重信が明治30年(1897)に購入し、1901年、古河財閥創業者の古河市兵衛に売却された。
公開はされたが家屋は整備中であり公園内のみ散策できる。
こういう状態では入場無料が妥当だろう。
完成したら国営ひたちなか公園、立川昭和公園の例からして入場料は450円くらいだろうか。
大隈邸は2018年、古河電工から国に寄付された。
陸奥邸を合わせて敷地25,352平米。大隈邸家屋は388平米。
11:25
きれいに手入れされた庭に、こういうところで植木職人のアルバイトをしてみたいというより、いったいいくら維持費がかかるだろう、と心配する。
もちろん大磯町では手に負えず、国土交通省が管理運営するようだ。
パンフレットの裏を見たら、
「発行:国土交通省 関東地方整備局 国営昭和記念公園事務所」とあった。
東隣りは陸奥宗光邸。
11:26
陸奥邸は372平米
1896年、陸奥宗光が病気療養のために建築した。
本邸は北区西ヶ原の現古河庭園の場所にあった。陸奥は古河市兵衛と親交があり、陸奥の次男・潤吉が14歳で子のない市兵衛の養子となった。
この関係から、陸奥の死後、東京西ヶ原の本邸、大磯の別邸ともに古河家のものとなる。
潤吉は体が弱かったため結婚せず、市兵衛の晩年の子であった虎之助を養子として古河財閥3代目とした。
陸奥宗光邸は関東大震災で一部倒壊し、栃木県足尾町に移築した。
ここに現存するのは虎之助が1930年に建てたものである。
11:26
バラ園の前だけ見物客がいた。
庭園が広大過ぎてバラ園が貧弱にみえる。
11:29
南の端に四阿があり、海が見下ろせた。
西湘バイパスもなかった戦前は、波打ち際まで自分の庭だったのだろう。
11:31
落ち葉を掃いて集めた袋。
穴を掘って埋めればいいのに。袋がもったいない。
それよりも、広大な庭園でこの程度集めても無駄だし、どうせ全部掃除しきれないのだから、通路部分だけ両側に落ち葉を掃き寄せるだけでいいと思う。
アルバイトというのは費用対効果など関係なく言われたことだけ何も考えずにやる。やらせるほうも予算があるから使わなくてはいけないし、何か指示しなくてはならない。
落ち葉の袋の向こうからテニスボールを打つ音が聞こえた。
隣は大磯中学のグラウンド、かつては山県有朋の別邸であった。
11:32
庭園内を流れる川の跡。
古河財閥がこういう広大な邸宅を取得できるのは分かるが、政治家がなぜ買えるのだろうか?
11:35
公開されているとはいえ、庭園の大部分は草が繁っている。
もっとも、きれいに刈り込む必要はなく、このままでもいいと思う。
帰り際、事務所を通ると中にシニアの方が4人くらいいらした。
アンケートを頼まれて書いたら絵葉書とボールペンをもらった。
敷地の東の端で見た民家の表札について聞いたら、まだ住んでいらっしゃいます、とだけ教えてくれた。園内見取り図には緑地のように描いてあり不自然なので、昔の古河邸と関係があった家なのか聞いても「いえ、まだ住んでいらっしゃいます」という返事を繰り返すだけだった。
11:42
絵葉書とボールペン
明治記念大磯邸園の大隈・陸奥地区の西隣は立派なマンション。
11:44
大磯プレイス。
ここは民有地で元佐賀藩主の鍋島直大(なおしまなおひろ)の邸宅跡。
そのまた西隣は再び明治記念大磯邸園の滄浪閣地区。
11:45
現在工事中で入れない。
滄浪閣は1896年に伊藤博文が別邸として建て、翌年本籍を移して本邸とした邸宅の名前。
伊藤の死後は李王家に譲渡され、別邸として使われたが関東大震災で倒壊、建て直された。
戦後は米軍に接収されたが、返還後、1951年に西武が取得、54年には大磯プリンスホテルの別館となった。
11:47
古い歴史的家屋を修復するだけでなく、何やら新しい建物も立てているようだ。
明治記念大磯邸園の設置が閣議で決まったのが2017年11月。
古河地区の庭園工事が2019年10月、2020年11月には庭園の一部を公開した。
2021年からは滄浪閣地区の庭園工事、さらには3地区の建物改修工事も始まっている。
ここからさらに西へ歩いていけば吉田茂邸に行く前に、徳川篤守(清水家)伯爵別邸跡、梨本宮守正王別邸跡などもあるみたいだが、きりがないので引き返す。
(梨本宮の娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王族となった李王・垠(ぎん)に嫁いでいる。親子は滄浪閣で会っていただろうか)
大磯には150戸の別荘があったと言われるが、総理大臣経験者だけでも8人が居を構えた。(今回ブログで触れなかったのは寺内正毅と加藤高明。彼らは東海道沿いの浜辺ではなかった)
この日、私は東京から東海道線の各駅停車で1時間5分で来た。当時もそれほど変わらないだろう。軽井沢、日光などと比べて時間的にも近く、さらに駅から歩ける。温暖でもある。海があって富士が見える。人気があるわけだ。
駅への帰り道は、国道の北側、低いところにおりてみた。
11:52
鎌倉を思わせる住宅街である。
この道は統監道という。
統監といえば、朝鮮統治のときの言葉しか知らない。総督との違いは何か。
1905年、日露戦争の勝利によって設置されたのが韓国統監府で、初代統監はもちろん伊藤。伊藤は1909年に満州で暗殺され、翌1910年、日本は朝鮮を併合、そして設置されたのが朝鮮総督府である。
11:55
統監道は伊藤博文が開いた道路というが、彼が土を運んだわけでもないし私財を出したわけでもなかろう。
さらには韓国の人が不快に思う道路名だが、道路は名前がついていると便利だし、当時はこの名前に全く違和感がなかったのだろう。
11:55
この町は思ったより歩いて楽しい。
駅のすぐそばに海も山もあり歴史もある。
それでいて鎌倉と違って観光客がいない。
11:56
駅に向かう途中、住宅街の中にいかにも散策している人が見えた。
11:57
行ってみると島崎藤村の旧宅だった。
11:59
誰もおらず、恐る恐る入る。
すぐ、庭に面した書斎だった部屋に案内のご婦人が座っていらした。
入場無料。
昭和16年1月、藤村は湯河原に来る途中、左義長見物で大磯に寄った。ここで大磯を気に入り、翌月から、敷地145坪、建坪24坪の平屋(貸別荘)を月27円で借り、翌17年8月にはサラリーマンの30年分に相当するという1万円で買い取った。
しかし昭和18年8月、静かに永眠した。大磯生活は2年半だった。
11:59
こちらは居間
12:00
向こうの家は一帯に立ち並んでいた別荘の管理事務所であったが、藤村が書庫にしようと買い取った。戦後静子夫人が建て替え、母屋を大磯町に寄付したあとは、こちらに昭和48年に亡くなるまで姪と住んだという。
受付の上品な女性と話をすると、彼女は藤村のことを「先生」といい、海岸で見つけた大きな石を人にこの庭まで運ばせたとか、いろんな話をしてくださった。そのたびに「先生」というので、よほど藤村のことが好きなんだな、文学少女だったのかな、ちょっと話を振ってみようかなと思った。
ところがそこに女性観光客が二人きて、色々話し始めた。やっと彼女らが庭の奥のほうに行ったので、さあ信州木曽の馬篭の話からしようかと思ったら、また老夫婦の観光客が入ってきた。
もうここで諦め、礼を言って藤村邸をあとにした。
よく考えたら私は藤村の作品を一つも読んだことがなかった。
12:12
大磯駅に戻ってきた。
10:45に駅を出発したから1時間半の観光散歩だった。
駅に入ると熱海行きは12:32発。
改札口前のベンチに座りながら、かつてはこの駅に貴賓室があり、政府高官たちはそこで汽車を待ったらしいことを思い出した。
(続く)
(追記)
陸奥宗光の東京本邸は西ヶ原にあったが、鶯谷駅近くの根岸に別邸があった。
千駄木から自転車で見に行ったことがある。
2015₋09₋22
本邸、大磯別邸と違い、住宅街の中にあり敷地も狭い。
陸奥宗光が死去した後は長谷川武次郎氏が所有し、その後西宮邸、西宮版画店となったらしいが2015年は人の気配がなかった気がする。