2024年9月30日月曜日

山形4 霞城と運動公園、最上氏

 
9月19日、夜行バスで米沢に来て、早朝見物した後、通勤通学者と一緒に奥羽線の電車で山形まで来た。(前のブログ)

米沢もそうだったが、山形駅も待合室がある。雰囲気は新幹線の待合室に近い。普通、長野や大宮などは新幹線改札口の中にこういうものがあるが、山形県は改札の外にある。
そういえば信州中野なども改札の外に待合室があり、かつて冬はストーブが焚かれていた。

その待合室に観光案内所があり、山形市の大きな地図が置いてあったので、しばらく眺めて、とりあえず予定通り山形城にいく。
9:05
山形城は奥羽線の西側にあるので西口に向かう。
広いデッキ通路の真ん中にベンチがあり、市民が置いた本を自由に読めるようになっていた。平日の朝だから読んでる人はいないが、座れるのはいい。

9:05
西口は再開発されたような景色で、やまぎん県民ホール、ビジネスホテルなど大きな建物が立ち並んでいる。
こちらはお城側だから山形駅の表口だと思ったが、どうも違う。

9:06
奥羽本線は山形城の二の丸の濠に沿って北上しているから、駅の周辺は西も東も家臣の屋敷があったはず。山形市は東が上流の扇状地になっていて、そちらに町人の住む城下町ができたから、明治以降の駅としては東口が表玄関なのだろう。市役所、市民会館、中央郵便局など主要施設は東口にある。

(いま調べたら、西口は昭和3年(1928)に市が誘致した鉄興社(現:東ソー)が主に二酸化マンガンなどを製造し、最盛期の1960年ころには、1000人以上の従業員を抱え県内最大規模の雇用を創出していた。ほかに一帯は、工場のほかJR官舎や機関区に加えて畑も広がり、まさに駅裏だったようだ)

9:06
こちらは山形市周辺観光案内図
山形市は、南で上ノ山、北で天童に接し、東には蔵王、山寺があって宮城県に接している。
西への左沢線、東への仙山線は山形駅から分かれるのでなく、それぞれ北山形駅、羽前千歳駅から分かれている。
左沢線は北山形駅から西村山郡大江町の左沢駅を結ぶが、途中、サクランボなどで知られる寒河江市を通る。JR東日本は公式に「フルーツライン」の愛称を付けた。
9:07
霞城セントラル
お城に向かおうとしたが、歩行者は駅前の道路が渡れず、霞城セントラルというビルへの連絡通路を通るらねばならないようで、エスカレーターで駅に戻った。
霞城(かじょう)セントラルは、西口再開発でできた官民複合型24階建て高層ビル。計画当初は床面積で官民5:5の予定であったが、民間が集まらず、県や山形市が運営する各種センターや霞城学園高校(単位制高校)、保健所など、入居は官民7:3くらいになっている。

案内パネルを見たら最上階に展望ロビーがあるようなので上がってみた。
24階は他にレストランとワシントンホテル(客室は19₋21階)のフロントがある。
9:13
北を見ると山形城
9:13 北東方向
山寺(立石寺)のほう。
9:14 北西方向
月山のほうだが、天気も良くなく分からない。

開店前の真っ暗なレストランの前を通って反対方向に行った。
9:15
ピアノが置いてある。
放課後など高校生がおしゃべりするのにいい。
9:16
南東方向、蔵王はどこだろう?
長野盆地・善光寺平よりずっと広い。

霞城セントラルを下りて山形城に向かう。
霞城(かじょう)というのは山形城の別名。霞ヶ城(かすみがじょう)とも呼ばれたらしい。関ヶ原の戦いに連動して、直江兼続が率いる上杉軍が山形に侵攻し、長谷堂合戦(長谷堂城は山形城から8キロ南西、JR蔵王駅から西へ4キロ)が起こった。その際、上杉勢からは霞がかかってその位置が見えなかったことに由来するという。

線路に沿って北に歩くと二の丸の濠の南東の角にぶつかった。
9:24
二の丸の外の濠。右は線路。
濠はよく保存されているが、米沢城と同じく、石垣ではなく土塁である。
桜が枝を伸ばしている。ボートは管理用のようだ。
山形城は大手門が南と東に2つあり、そこを通って二の丸に入る。
9:27
二ノ丸南大手門
その周辺だけ石垣になっている。
この二の丸堀の南門から先(西)は埋め立てられていたが、近年復元され、水も張られている。
9:28
山形城は米沢と同じく輪郭式平城である。三重の濠に囲まれていたが、残っているのは二の丸の濠だけ。
本丸、二の丸跡がそっくり霞城公園になっている。二の丸は一辺500メートルほどの正方形で、だから25ヘクタールか。市のど真ん中の一等地、平地にあることを考えると、広大な公園である。

9:29
南門は大手門の一つらしく石垣が立派。

9:31
復元されつつある本丸の濠
左に本丸への道路があるが、まだ整備されておらず、通行止めになっている。

山形城は明治になって廃城となったが、山形市が陸軍駐屯地を誘致した。日露戦争前に編成された弘前第八師団の歩兵32連隊(秋田市)が、日露戦後山形城内に移転、城内の櫓や御殿は破却され、本丸堀は埋め立てられた。

第二次大戦後、連隊兵営が消滅した後、山形市に払い下げられ、市は各種文化施設を建てるほか、スポーツ公園として整備する方針を決め1949年に霞城公園とし開放した。

運動公園としては市営球場が建設され、さらにバレーコート、テニスコート、ソフトボール球場、弓道場、運動広場、山形県体育館などが建設され、県立博物館も建てられた。
1975年の航空写真には大きな野球場や屋外プールなどのほか、ど真ん中に4面ものソフトボール場(サッカー場としては2面)が写っている。もちろん本丸堀は埋められたから本丸、二の丸は一体化した敷地になっている。

しかし1978年、山形市は「山形城復元」に方針を大転換。これらは体育館、博物館をのぞいて順次撤去され、発掘調査と復元工事が続いている。
9:32
石垣の色が変わっている。一つの石の中でも色が上下で変わっているから、一度埋められた濠を掘りなおした跡だろうか? ただし1975年の航空写真では途中頭を出した石垣は認められず、よく分からない。
なんとなく床上浸水した家の壁を思わせる。

復元された本丸濠の二の丸側(南)には山形県立体育館と武道館が残っている。
これだけ広いと何か建てないと、間が持たない。すなわち草ぼうぼうとなるか、芝生にしても人が来ない。市が運動公園にしたのはうなづける。

9:34
山形藩の歴代藩主
山形以外の人に山形城と言っても城主が浮かんでこないのは、藩主家が目まぐるしく変わったことによる。なんと、幕府領二回を挟んでのべ13家。
有名なのは初期に3代つづいた最上家57万石か。続く鳥居家22万石、保科家20万石も名家だが2代、1代しか続かず、山形城の顔とはならない。
その後は松平3家(結城、奥平、大給)、堀田、秋元らが入城し、水野氏で明治維新を迎える。領地も15万石から5万石まで徐々に減った。

(なお松平諸家については以前書いた。)
20111103 谷中墓地9 松平家はいくつあるか?十四松平から御連枝まで

9:34
2006年、本丸の正門に当たる一文字門(左)に架かる大手橋が復元された。
2013年には一文字門の高麗門、土塀が復元されている。
平日ともあり日本人観光客はいなかったが中国語のグループが記念写真を撮っていた。

9:36
高麗門をくぐり一文字門の桝形内部。ここから本丸に入る。

山形城は足利一門の奥州探題(管領)斯波家兼の二男・斯波兼頼が羽州探題となり最上氏を称し、初期の山形城をつくった。だから最上氏の家紋は足利と同じ、丸に二つ引である。最上氏は山形城を大拡張し、つづく鳥居氏の時代に一部を石垣としたようだ。
9:37
本丸御殿広場
本丸は御殿のみで天守は造られなかった。

行ってみると本丸内部には井戸の跡だけあった。
扇状地だから水はけが良いわりに、少し掘れば湧き出たのではないか?

ここは近年までソフトボール球場,兼サッカー場があったわけだが、井戸はそのあと復元したのだろうか? あちこち調査、工事中の今、こういう小物の復元はまだ早すぎると思ったが、調査中に石垣が発見されてしまったのだろう。

市は2033年をめどに、本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形を復元するらしい。
9:39
二の丸に戻り、南の木立の中へ行くと、あまり見たことのない形の不思議な建物があった。
山形市郷土館だが、旧済生館本館を移築したという。
「生を済(すく)う」だから医学関連のものである。

なんと明治11年築。
初期の和洋折衷建造物で国の重要文化財。最初は県立病院、明治21年に民間移管となり、明治37年からは市立病院済生館の本館となった。創建当時は医学校が併設され、オーストリア人医師・ローレツAlbrecht von Roretzが近代医学の教鞭をとった。
入場無料で、中は医学関連資料が多いようだが、先を急ぎたいのもあり、入らなかった。あとで調べたら螺旋階段や中庭など見るべきものが多いことを知った。

東大手門から二の丸を、すなわち城址公園を出ようとすると騎馬像があった。
9:45
最上義光之像
タイトルを入れるため正面から写したが横から見るとなかなか勇ましい。戦国武将の銅像は床几に座ったものなどが多いが、義光像は、有名な絵画「サン=ベルナール峠を越えるナポレオン」を想像させるように、馬は両前足を高く浮かせ今にも走り出しそうな姿をしている。上杉軍に囲まれた長谷堂城の救援に向かう義光を表しているらしい。

1584年、本能寺の2年後、中央では秀吉が柴田勝家をつぶし小牧長久手で家康と和睦、政権を確立した年、最上義光は、羽州探題家としての再興を目指し、近隣の大江氏、白鳥氏、天童氏を破り、村山・最上両郡を勢力下に治めた。置賜地方は血縁関係のある伊達氏の支配下にあり、進出できないことから北進し、大宝寺氏のいる庄内の制圧を目指した。

しかし早くから秀吉と同盟関係、臣従関係にあった上杉景勝は、1586年、出羽切り取りの裁可を得た。いったんは最上領となった庄内は結局上杉の勢力範囲となる。以後、最上・上杉は互いに仮想敵のようになった。最上から見れは南北から上杉に挟まれ、上杉から見ると最上で分断されている。
それでも最上義光は本領24万石を安堵され、1591年には雄勝郡4万石余を得て、豊臣政権下では12番目の大名となった。

1600年9月8日、石田三成・家康の動きに連動して(庄内が最上義光・秋田実季に挟み撃ちにされそうになったこともあり)直江兼続ひきいる上杉軍が北上、家康方についた最上義光を攻めた。総勢二万五千。当時の動員兵力は10万石で2500人と言われた。上杉は会津120万石だが、庄内、佐渡も含めた石高だからこの軍勢は上杉のほぼ全軍である。最上勢は山形城に4千、各支城に合わせて3千だったという。(慶長出羽合戦)

最上方の各支城は500人ほどでこの大軍を前によく戦い、上杉軍に損害を与え進軍を遅らせた。山形防御の要となる長谷堂城は1000人がまもり、包囲攻城する1万8千の直江軍に耐えた。
9月15日(関ヶ原合戦の当日)、最上義光は北目城(仙台市太白区)にいた伊達に援軍を依頼、9月24日伊達軍3000人が直江兼続本陣の東2キロに着陣、義光も25日山形城を出陣した。

ところが9月29日、関ヶ原において三成の西軍が大敗したという情報が14日かかって兼続のもとにもたらされ、上杉軍は撤退を決断、翌30日、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転した。上杉の撤退戦は、両軍多くの死傷者を出した。兼続は責任を取ってしんがりを務め、鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、10月4日に米沢城へ帰還した。

戦後、最上義光は置賜郡を除く山形県全部と秋田県の由利郡を与えられ、28万石から57万石に大幅加増、前田、伊達に次ぐ大大名となった。
しかし義光の死後、後を継いだ次男の家親が36歳で急死、嫡男の義俊が13歳で家督を継いだとき、お家騒動がおこり、1622年、近江大森1万石に大幅減封された。義俊も27歳で亡くなり、嫡男義智は幼年のため5000石の旗本に落とされた。最上家は足利家の流れをくむため義智一代限りで高家に列した。
9:46
1991年に復元された二の丸東大手門。
この規模は江戸城の城門に匹敵するという。
二の丸には5つの門が作られたが、ここが表玄関である。

二の丸を出る。
9:47
二の丸東堀と並行して奥羽本線が走る。
それを越えるため大手門を出ると跨線橋の階段がある。

お堀の外は三の丸。
二の丸は一辺500メートルほどの正方形(25ヘクタール)と書いたが、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形で235ヘクタールあった。
徳川家が毛利島津の来襲をそこで防ごうとした巨城、姫路城(内曲輪23、外曲輪233ヘクタール)とほぼ等しい。比較しやすいところでは江戸城内郭すなわち本丸などのほか西の丸、吹上、北の丸、西の丸下(皇居前広場)を含めた中心部分が230ヘクタールである。
山形市公式サイトから

山形城の本丸は御殿、二の丸は藩の政庁など、そして三の丸には家臣の屋敷が置かれた。しかし最上時代はともかく、その後は巨大な城は維持しがたく、三の丸の水堀は石垣でなく掻き揚げだったこともあり、江戸期の終わりごろには埋没し、湿地化したあと現在は住宅地の下になっているらしい。最後の水野5万石のころは二の丸内部もかなり荒廃していたという。御殿は二の丸に移り、本丸は更地、三の丸の西半分は畑になったらしい。(この畑化が西口再開発につながる。)
9:50
県民ふれあい広場
三の丸でも二の丸堀に接している。
何組かゲートボールをやっていた。
しばらく見ていたが性格的に私はできそうもないと思った。

この周辺、すなわち二の丸大手門からでた三の丸の東部分は、明治後、官庁街と民営地になった。いまは山形美術館、最上義光歴史館、税務署、市役所、済生館病院のほか、ふつうの市街地になっている。
9:56
山形駅に戻って来た。
やはり東口は表玄関らしく賑やかである。

東口には山形城三ノ丸土塁跡、山形県郷土館(文翔館)、紅の蔵、など見どころが多いが、割愛した。
今回は一日で山形全県すなわち置賜、村山、最上、庄内、の4つの地域を全部見ることを目的としているので、残念だが、先を急いで駅に上がった。

(続く)

2024年9月26日木曜日

山形3 各市町村の人口と高畠・南陽・上ノ山

9月19日、米沢に来た。

早朝、上杉家墓所、米沢城などを見てから米沢駅に戻って来た。
これから山形市へ行く。
最終目的地は庄内の酒田、鶴岡なので、米沢から鶴岡までの切符を買った。各駅停車で3080円。100キロ以上あるから途中下車できる。通し切符はいちいち切符を買う必要がないから便利だ。
米沢は改札でスイカが使えないが券売機では使えた。出てきた裏が黒の切符は自動改札を通った。(スイカは山形駅以外の上山温泉とか蔵王、北山形とか、むしろ小さい駅では2024年春から自動改札で使えるようになったらしい。スイカで有名な尾花沢は鉄道から東に外れていて、この名の駅はない)。

ちなみに、南端の米沢から北の鶴岡までは、100キロどころか実際は166.8 km。
山形県は大きい。長野―飯田(160.6キロ)より遠いのは意外だった。
8:08
1.米沢駅出発
乗客は意外と多い。米沢から山形までの列車は、6:04、6:44、7:15、8:09、9:39だから通勤通学客がこの列車に集中しているのだろう。山形まで46分、860円。
2 8:14 置賜駅
米沢の隣。無人駅。
置賜はたいていオキタマだが、駅はオイタマのようだ。
サキタマ埼玉と同じイ音便だが、促音便と違ってオキタマでも言い難くはない。
昔の北関東や東北の人々はK音が苦手だったのだろうか?

置賜というのはアイヌ語の広い葦の湿地(u-ki-tomam ウキトマム)から来ているとされ、日本書紀にも出てくる。地域としては山形県の最南部、県を4区分したときの1つである。
こんな大きな地名を、こんな小さな駅が使っていいのだろうか?

奥羽本線は、米沢から北が明治33年(1900)に赤湯まで開通、米沢の次は高畠(当時は糠ノ目といった)であったが、大正6年その中間に新駅が作られた。それまで置賜をどこも使っていなかったから、これにしたのだろう。

オイタマを過ぎるとトウモロコシ畑が青々していた。この季節で不思議に思ったが、やがて線路際に牛舎があった。そうだ、子どものころ実家でも牛がいたとき餌としてトウモロコシを作っていたな。
草原に放牧されていなくとも、こういう広々とした田園で育てられていれば肉もうまいだろう。いや、むしろ放牧より小屋で運動せずに高脂肪食を食べさせたほうが良いのかな。

ちなみに山形牛は山形県全体で育てられた牛だが、米沢牛は置賜地方だけに限られた牛である。明治初めに米沢興譲館の英語教師が当地の牛の旨さに驚き、横浜に牛を一頭はこび、全国に知られるようになったとか。
3 8:19 高畠駅
高畠は、東置賜郡役所も置かれ、山形県内でも比較的早く町制が施行されたが、奥羽線は西のほうを素通りした。そこで地元の名士たちによって会社が設立され、大正11年に奥羽本線糠ノ目駅から高畠町まで鉄道が開通した(高畠線)。しかし、1974年高畠線は廃止となり、1991年、糠ノ目駅は高畠駅に改称された。東方の高畠町中心部には、旧高畠駅の石造駅舎が残っているらしい。

8:20
高畠駅を出てすぐ。
穂波がつづく。
山が見えないほど広い。

各駅停車で県下を周るには、山形県の地図が頭にあったほうが良い。
山形県市町村
明るい色が市、褐色が町村。
大雑把に、明るいところは平地が多く、褐色部分は山が多いと思ってよい。
もっとも、平成の大合併で鶴岡市などは出羽三山まで市域に含むが。

各地の人口を見てみる。
各都市圏の人口
核となる都市への通勤通学者が、全通勤通学者の10%以上となる周辺市町村を、その都市圏とする。10%以上いる都市が二つ以上あれば、多いほうの核都市の圏内とする。

米沢、山形、鶴岡、酒田は知名度の上で同じくらいだが、都市圏の大きさでは県庁所在地の山形が圧倒的である。

また、山形は大きく4つの地域に分けられる。
庄内、最上、村山、置賜である。


日本はどの県も、便宜上いくつかに分けている。
長野は北信、中信、東信、南信、福島は会津、中通り、浜通り、新潟は上越、中越、下越。県外の人もだいたい分かる。しかし山形県の区域名は少し分かりにくい。村山地区など村山市より山形市のほうが大きいし、最上地区も最上川は全県を流れている。

村山地区は村山市とは関係なく(なくはないが)、郡の名前である。(山形市も明治22年の市制施行前は南村山郡だった。山形市にある県の出先機関も村山総合庁舎という。)最上地区は最上川からではなく、これも郡の名前である。では戦国武将の最上氏は最上郡と関係あるかというと、それは別のブログで述べる。
庄内郡というのはない。一帯を庄内、また庄内藩とは言った。戦国時代後期、大泉荘を拠点としていた大宝寺義氏が、この地域の所領化を進めた結果、一帯が「大泉荘の内」、庄(荘)内と呼ばれるようになったとされる。庄内地方は鶴岡の田川郡、酒田の飽海郡からなる。

さて、各駅停車の列車は豊かな田園地帯を進む。

1 8:09 米沢
2 8:14 置賜駅
3 8:19 高畠
4 8:24 赤湯
5 8:31 中川(山形)
6 8:35 羽前中山
7 8:41 かみのやま温泉
8 8:44 茂吉記念館前
9 8:48 蔵王
10 8:53 山形

赤湯、中川は南陽市。もとは東置賜郡だった。
1967年、赤湯町、宮内町などが合併してできたが、双方新市名で譲らず、ときの県知事が中国の故事「南陽の菊水」から命名したという。しかしこれには(遠い部外者だが)首をかしげる。初めて南陽と聞けば、太陽明るい南国の宮崎、高知、和歌山などをイメージするのではないか? 中国の故事などいくらでもあるし、この地域と何の関係もない。置賜駅のように、安直に「東置賜市」としても良かったのではないか?

中川駅を過ぎると山地に入り、郡の境を越えて羽前中山は旧村山郡(上山市)。
平地に出るとかみのやま温泉。
8:40 7上山温泉
駅名がひらがななのは、かつての私のように何度も忘れてしまい「かみのやま」か「うえのやま」か、あるいは、かみやま、うえやま、と分からなくなってしまう人が多いからだろう。

山形県は実質的に(町を見るという意味で)今回が初めてであるが、1983年12月蔵王にスキーに来て、1994年10月には薬理研CNS部門の社内旅行で蔵王お釜、山寺立石寺をみて上ノ山温泉の村尾旅館に泊まった。翌日はブドウ畑の下で模擬芋煮会を楽しんだ。すなわちわずかでも知っているのは上山温泉だけなのである。

村尾旅館は昭和天皇が泊まったという老舗で、増築で曲がりくねった廊下には天皇の写真が飾られ、宴会の乾杯の挨拶をした工藤幸司さんは昭和天皇の声色で音頭を取った。だが惜しいことに数年前に廃業したという。建物は残っているようで、今回途中下車してみる予定だった。
しかし米沢の見物が思ったより時間かかり、上ノ山は割愛することにした。

上山の地名は蔵王連峰のふもとにあることから山方(やまがた)と呼ばれ、それが上の山方、下の山方(のちの山形市周辺)に分かれたことによるとされる。

上山の町は、上山義忠(上山氏は、斯波氏から分かれた天童頼直が子の満長を上山に配したことから始まる)が、1535年高楯城から月岡(現上山城付近)に城を移したことで作られた。
江戸時代、上山城は、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.8万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が10代(3万石)で明治維新を迎えた。

上山は城下町であるがその雰囲気がない。おそらく温泉が出たために温泉旅館やホテルができてしまい、武家屋敷や古い町並みが消えてしまったのだろう。駅名まで「かみのやま温泉」だし(1901年開業のときは上ノ山駅)。もう城下町であることを捨てている。
途中下車しなかったのは、時間がなかったせいもあるが、城下町の雰囲気がないことが分かっていたからである。
8:41
かみのやま温泉駅を発車するとすぐ、上山城の天守がみえた。
1994年、貸し切りバスで村尾旅館に着いて周辺地図を見たらすぐ近所に上山城があった。夕食までの空き時間に後輩の田村浩司君を誘って散歩に行った。城跡には1982年に建てられたコンクリート製の模擬天守があった。ちなみに上山城は江戸時代初期には天守があったようだが、藤井松平家のころからは天守がない。

田村君とは研究所の人事やプロジェクトの進め方などについて不満、愚痴を交えて話に熱中したせいか、いかにも観光の目玉にしようと作った天守については、ちゃんと見なかった気がする。
8:43
次は8茂吉記念館前駅
1952年、北上ノ山駅として開業。
1992年駅名改称。
バス停ならともかくJRの駅名として個人名はどうなんだろう? 駅名、路線名はパッと見てどこか分かるのが良いと思う。その点で、北上ノ山は良かった。
ちなみに、斎藤茂吉は駅の北800メートルほどの金瓶部落で生まれ、記念館は1968年、駅のすぐそば、明治天皇が休まれた「みゆき公園」にオープンした。

50年近く前、私が大学に入ったころ、彼の「万葉秀歌 上下」は大学生の必読書(岩波新書で安かったからとりあえず買っただけの人が多い)であったが、今の学生は茂吉の名前すら知らないのではなかろうか。
8:47
9.蔵王駅
駅名と周辺の景色のギャップ。
開業時は金井駅だったが、1951年に蔵王駅に改称。
(前年の1950年、堀田村が蔵王村に改称したのに連動したかもしれないが、駅は区域外の金井村で、金井村民は反対しなかったのかな?)
蔵王温泉方面へのアクセス交通も皆無であり、この名前にしなくてもよかったのでは?
8:55
山形駅到着

(続く)
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2024年9月23日月曜日

山形2 米沢城の縄張りとウコギの生垣

9月19日早朝、山形の米沢に来た。
西米沢駅近くの上杉家廟所を柵の外から覗いてから、米沢城まで歩いてきた。
(前のブログ)
濠で囲まれているのは本丸跡で、全部が上杉神社になっている。
6:46
米沢城址は、尾根の先でもないのに松が岬公園というようだ。長井氏が築城したとき松が岬城と称したらしい。
上杉家墓所から歩いてきて北西の角から西参道で濠を渡り、東参道で二の丸に出たことになる。

本丸は分かるが、二の丸、三の丸はどうだったのだろう?
上杉神社の境内に、江戸時代の米沢城の鳥観図があったが、初めての町だからどこがどこだかよく分からない。
6:43
きれいな輪郭式平城である。
西の掘立川と東の松川で大体の方角が分かる。
左上が西だ。
右下の松川を渡ってまっすぐ東へ行けば米沢駅に行く。

6:45
本丸から東参道の橋を外に出た。
濠の向こうに見えるのは旧上杉伯爵邸だろうか。
6:47 伝国の杜
(置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の複合施設)

輪郭式の本丸から出たのだから、間違いなくここは二の丸。
広い芝生の上を犬を連れた人が歩いていた。

伝国の杜という施設名は全国から公募されたらしい。「伝国」は9代藩主上杉治憲(鷹山)が家督を譲る際に、藩主の心得を3か条で記した「伝国の辞」にちなんだものというが、たいていの人は伝国(でんこく)と聞いても分からない。外国語なら意味不明でもいいが、日本語なら意味が分かるものがいいな。
6:52
唯一残っている本丸周囲の堀に沿って南に行けば上杉伯爵邸がある。
輪郭式だからどこまで歩いても当然二の丸。
上杉伯爵。大名の爵位基準は15万石以上で侯爵だが、これは表高といった米穀の生産量ではなく、税収(年貢など)をあらわす現米(現高、蔵米)を指している。明治2年政府が過去5年間の歳入を出せという沙汰を出し、各藩が5年平均の租税収入を申告した。前田64万石、島津31、毛利23といった数字で、15万石以上となる大名11家を「大藩」とし、これが爵位を決めるときに転用された。だから、表高15万石の上杉が侯爵にならず伯爵となったのは、よく言われる奥羽列藩同盟で薩長に抵抗したからというわけではない。
6:53
上杉邸は14代当主(観光案内などでは謙信を初代とするが、米沢藩主としては13代目、山内上杉家として29代目)の、最後の藩主、上杉茂憲の本宅として建てられた。

いまは庭を見ながら米沢牛が食べられるレストランになっている。
米沢牛膳6000円、しゃぶしゃぶ7000円、ステーキ8000円とあった。9代鷹山が濠で飼わせたという米沢鯉の甘煮は単品で900円。
6:55
伯爵本邸というと暮らしの一端も見たくなり、裏の台所のほうまでまわってみた。
早朝だから誰もいない。

6:56
伯爵邸は明治29年に建てられたが、大正8年の米沢大火で焼失。
大正14年、米沢出身の建築家・中條精一郎設計の総ヒノキ入母屋造りで再建された。
中條(ちゅうじょう)は、千駄木に居を構え、長女が作家宮本百合子である。今は屋敷の門塀の一部だけ残り、千駄木菜園のお散歩カテゴリーにも出てきている。

ちなみに同じ東大建築を出た米沢出身の伊東忠太は藩医の子として1867年、中條は藩士(安積疎水を開いた中條政恒)の子として1868年、1年違いで生まれている。

上杉記念館を出て、伝国の杜の建物に沿って正面にまわってみた。
6:59
二の丸のここには米沢工業高校があった。それが新築移転し跡地に2001年9月、山形県の置賜文化ホールと米沢市が整備した米沢市上杉博物館が合築された。

博物館には信長が謙信に送った有名な国宝「上杉本洛中洛外図屏風」(狩野永徳)がある。
以前は、謙信が毎日見つめていた毘沙門天画像、直江兼続の「愛」が有名な具足、鷹山の「伝国の辞」などとともに、神社境内の稽照殿という宝物館にあったのだが、市立博物館ができて移動したのだろうか。
常設展は上杉関連だけでなく、置賜地方の歴史文化を伝える。見どころが多そうだ。

文化ホールには可動式能舞台もある。城址の松が岬公園にこういうものがあることで、人口 7万7千人ながら、10倍以上の人口を擁する政令指定都市のさいたま、相模原、千葉以上の風格がある。

雨脚が強まってきた。
伝国の杜の東の県道を松ヶ岬公園にそって北へ歩く。
7:02
米沢城史苑
松ヶ岬公園の東端にあり、園内の地図を見た時はその字面から、歴史資料館の一つかと思った。しかし、お土産、カフェ、レストランのある観光物産館であった。「苑」とあるから焼肉もあるかな。上杉記念館(伯爵邸)での食事は予約が大変そうだが、ここはいつでも入れそうだ。

二の丸のまわりの堀は、この県道あたりのような気がする。
つまり道のこちら側が三の丸。

この道をまっすぐ北へ行けば興譲館跡、興譲小学校などがあるが、有名な米沢興譲館高校はどこにあるのだろう? 雨の中地図を開いても見つからない。

松が岬公園の角で右折し、東の米沢駅のほうに向かう。
米沢の信号機には交差点名が書いてない。

駅に向かってひたすら歩いていく。
途中、三の丸の外堀があるはずだが何もない。

ふと、右手に生垣があった。
裏口のような小さな木の門はあるが、中は空き地になっている。
7:08
生垣はウコギだろうか?
上杉家は関ヶ原のあと会津120万石から米沢30万石に減封され、さらに1664年3代藩主綱勝が、嫡子、養子もないまま急逝した。そこで綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と吉良義央(赤穂浪士に切られた上野介)との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを幕閣に認められ、お家取りつぶしを免れた。
しかしこの件で信夫郡、伊達郡(ともに今の福島県)などの15万石を失い、置賜郡15万石だけになった。石高が4分の1になっても家臣はほとんど減らず、窮乏を極めていたのに、また半減し8分の1。さらに貧乏になったわけだ。

藩士たちの屋敷は石垣も長屋門もなく、練塀の代わりとして生垣をめぐらした。それもウコギ(五加木)というパッとしない低木だった。ウコギは美観のためではなく新芽が食べられるからだ。摘めばまた芽が出る。食べるなら白菜とか大根のほうが良いが、これらは季節ものだし、第一、垣にならない。

ウコギを奨励したのは直江兼続とも9代藩主の上杉鷹山(治憲、1751₋1822)ともいう。
直江については前のブログで書いた。
上杉鷹山は40年ほど前、童門冬二の同名小説(1983)がベストセラーになり一気に有名になった。彼は日向高鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が秋月藩黒田氏に嫁いだ上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。

鷹山は質素倹約をすすめ換金作物の栽培も奨励した。
しかし、どうしても長州毛利家と比較してしまう。
毛利家も関ヶ原のあと、中国地方120万石から防長37万石に押し込められた。上杉家と同様、少しも家臣が減らなかったから江戸時代初期の100年ほどは貧窮を極めた。しかし、徳川への恨みのエネルギーを溜めながら、彼らは瀬戸内海に向かって干拓をはじめ、幕末の長州藩は100万石ほどの米がとれたという。鷹山のような倹約の有名人は出なかったが、北前船の利益をおさえ、産業を興し、倒幕するほど豊かな藩となった。

同じ出発点ながら瀬戸内海に面した藩と、雪深い米沢に閉じ込められた藩のちがいであろう。

しかし本当にウコギだろうか?
話にはよく出るが、実は初めて見る。
ちょうど犬を抱えて通りかかった人がいたので思い切って聞いてみた。
やはりウコギだという。

小さな木の門扉だけ残した空き地が気になって、ここは藩士の屋敷だったのでしょうかと尋ねると、意外な返事が返って来た。
7:08
ちょうどここには堀があって、西側が三の丸で武家地、ウコギの垣根があった東側は町人町だったから武家ではないだろうというのである。
すなわち、偶然にも三の丸の範囲が分かった。

彼は素朴な米沢弁でいろいろ教えてくださった。
7:10
濠の外側は武者道という細道が通っていた。
町人は通ることができず、最初は堀の管理道路であったが、次第に武士たちの生活道路になった。
三の丸の武士たちが町人街に行くときは刀を差さず、笠で顔を隠し、この細道を忍んで出入りしたという。また、原方衆という、普段は農作業をし、臨時のときに動員される下級武士がいて、彼らも武士の誇りを持ちながら、こっそり通ったとされる。

犬を抱えた男性は、親切にもさらに、復元された三の丸の堀まで私を案内してくださった。
7:10
西條天満公園に復元された(保存された?)三の丸の外堀と土塁。
7:11
米沢城は戦国末期の築城でありながら、本丸のまわりすら当時はやりの石垣ではなく古風な土塁であった。
濠をほった土をそのまま搔きあげて踏み固めただけである。その分、明治になって埋め立てるのも楽だった。
7:13
木の橋を渡って公園に入った。
広くて何もない。
西條天満公園というのは、上級家臣だった西條家の屋敷跡で、屋敷内(土塁の上)に天満神社がまつってあった。神社は平成22年に移転した。

毎日散歩されている男性は、公園内もよく知っていて、中央の休憩テーブルの米沢城絵図のところに連れて行ってくださった。
7:15 上が北、東が駅。
現在地の公園が赤枠で囲んであり、西条の文字が読める。
三の丸の外、町人地の外にも防御のため寺院がびっしり並べられた。
7:26
平日の早朝だからか、雨だからか、だれもいない。
犬を抱いた彼に感謝のお礼を言って別れた。

彼の菩提寺は東源寺といい絵図の寺町にあった。調べたら五百羅漢で有名。信州飯山から上杉家とともに移転してきたという。北信濃は上杉の勢力圏だったから、寺院や市河氏、高梨氏などの土豪も会津、米沢と移転した。信州中野の土豪だった高梨の文字を絵図の武家地に探せばよかったと思ったが公園に戻る気は起きなかった。

さらに駅を目指して歩く。
松川(最上川)手前の交差点に「アイデアの泉神社」というのがあった。
7:38
しかし社殿、鳥居などはない。
御祭神は水神様で、「世界一水水(みずみず)しい  ご自由にお飲みください」という。
見ざる聞かざるの三猿ならぬ積極的な四猿(見る猿・聞く猿・話す猿・考える猿)が蛇口の上にいて、私も飲んでみた。
ユーモアとしては面白いが、誰もが知っている歴史の物語がないため、観光スポットにはならない。

水を飲んで米沢興譲館(高校)はどこにあるのだろうと考えた。もう一度地図を見るがない。まさか名前が変わったんじゃないだろうな。

学問所は1618年に開設されており、この時から数えて2024年で創立406年。
藩校「興譲館」となったのが1776年で創立238周年。
旧制中学となったのが明治19年(1886)で創立128年である。
公立高校としては日本最古と言われ、
伊東忠太の他に、明治の政治家・平田東助、海軍大将・山下源太郎、機動艦隊司令長官・南雲忠一、財界人・池田成彬、憲兵大尉・甘粕正彦など歴史人物も多い。

スマホを使うと電池がなくなりそうで、興譲館の所在を調べなかった。
帰宅後、地図の外、南米沢駅のさらに南にあることがわかった。1987年、お城の北方、いまの米沢市すこやかセンターの場所から移転した。

川を渡る。
7:43
絵図では松川とあったが、最上川である。
置賜の水を集めて、さらに広く開けた村山地方、最上地方でも水を増やし庄内平野に流れ込むはずだが、まだ小さい。
これも北の掘立川とともに4番目の濠をなしていたのかもしれない。
7:51
米沢駅到着
駅舎は1993年、山形ミニ新幹線の開業に合わせ建てられた。
米沢高等工業学校本館(現・山形大学米沢キャンパス)を模したという。

これから県庁所在地の山形へ向かう。

(つづく)

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