9月19日、夜行バスで米沢に来て、早朝見物した後、通勤通学者と一緒に奥羽線の電車で山形まで来た。(前のブログ)
米沢もそうだったが、山形駅も待合室がある。雰囲気は新幹線の待合室に近い。普通、長野や大宮などは新幹線改札口の中にこういうものがあるが、山形県は改札の外にある。
そういえば信州中野なども改札の外に待合室があり、かつて冬はストーブが焚かれていた。
その待合室に観光案内所があり、山形市の大きな地図が置いてあったので、しばらく眺めて、とりあえず予定通り山形城にいく。
9:05
山形城は奥羽線の西側にあるので西口に向かう。
広いデッキ通路の真ん中にベンチがあり、市民が置いた本を自由に読めるようになっていた。平日の朝だから読んでる人はいないが、座れるのはいい。
9:05
西口は再開発されたような景色で、やまぎん県民ホール、ビジネスホテルなど大きな建物が立ち並んでいる。
こちらはお城側だから山形駅の表口だと思ったが、どうも違う。
9:06
奥羽本線は山形城の二の丸の濠に沿って北上しているから、駅の周辺は西も東も家臣の屋敷があったはず。山形市は東が上流の扇状地になっていて、そちらに町人の住む城下町ができたから、明治以降の駅としては東口が表玄関なのだろう。市役所、市民会館、中央郵便局など主要施設は東口にある。
(いま調べたら、西口は昭和3年(1928)に市が誘致した鉄興社(現:東ソー)が主に二酸化マンガンなどを製造し、最盛期の1960年ころには、1000人以上の従業員を抱え県内最大規模の雇用を創出していた。ほかに一帯は、工場のほかJR官舎や機関区に加えて畑も広がり、まさに駅裏だったようだ)
9:06
こちらは山形市周辺観光案内図
山形市は、南で上ノ山、北で天童に接し、東には蔵王、山寺があって宮城県に接している。
西への左沢線、東への仙山線は山形駅から分かれるのでなく、それぞれ北山形駅、羽前千歳駅から分かれている。
左沢線は北山形駅から西村山郡大江町の左沢駅を結ぶが、途中、サクランボなどで知られる寒河江市を通る。JR東日本は公式に「フルーツライン」の愛称を付けた。
9:07
霞城セントラル
お城に向かおうとしたが、歩行者は駅前の道路が渡れず、霞城セントラルというビルへの連絡通路を通るらねばならないようで、エスカレーターで駅に戻った。
霞城(かじょう)セントラルは、西口再開発でできた官民複合型24階建て高層ビル。計画当初は床面積で官民5:5の予定であったが、民間が集まらず、県や山形市が運営する各種センターや霞城学園高校(単位制高校)、保健所など、入居は官民7:3くらいになっている。
案内パネルを見たら最上階に展望ロビーがあるようなので上がってみた。
24階は他にレストランとワシントンホテル(客室は19₋21階)のフロントがある。
9:13
北を見ると山形城
9:13 北東方向
山寺(立石寺)のほう。
9:14 北西方向
月山のほうだが、天気も良くなく分からない。
9:15
ピアノが置いてある。
放課後など高校生がおしゃべりするのにいい。
9:16
南東方向、蔵王はどこだろう?
長野盆地・善光寺平よりずっと広い。
霞城(かじょう)というのは山形城の別名。霞ヶ城(かすみがじょう)とも呼ばれたらしい。関ヶ原の戦いに連動して、直江兼続が率いる上杉軍が山形に侵攻し、長谷堂合戦(長谷堂城は山形城から8キロ南西、JR蔵王駅から西へ4キロ)が起こった。その際、上杉勢からは霞がかかってその位置が見えなかったことに由来するという。
線路に沿って北に歩くと二の丸の濠の南東の角にぶつかった。
9:24
二の丸の外の濠。右は線路。
濠はよく保存されているが、米沢城と同じく、石垣ではなく土塁である。
桜が枝を伸ばしている。ボートは管理用のようだ。
山形城は大手門が南と東に2つあり、そこを通って二の丸に入る。
9:27
二ノ丸南大手門
その周辺だけ石垣になっている。
この二の丸堀の南門から先(西)は埋め立てられていたが、近年復元され、水も張られている。
9:28
山形城は米沢と同じく輪郭式平城である。三重の濠に囲まれていたが、残っているのは二の丸の濠だけ。
本丸、二の丸跡がそっくり霞城公園になっている。二の丸は一辺500メートルほどの正方形で、だから25ヘクタールか。市のど真ん中の一等地、平地にあることを考えると、広大な公園である。
9:29
南門は大手門の一つらしく石垣が立派。
9:31
復元されつつある本丸の濠
左に本丸への道路があるが、まだ整備されておらず、通行止めになっている。
山形城は明治になって廃城となったが、山形市が陸軍駐屯地を誘致した。日露戦争前に編成された弘前第八師団の歩兵32連隊(秋田市)が、日露戦後山形城内に移転、城内の櫓や御殿は破却され、本丸堀は埋め立てられた。
第二次大戦後、連隊兵営が消滅した後、山形市に払い下げられ、市は各種文化施設を建てるほか、スポーツ公園として整備する方針を決め1949年に霞城公園とし開放した。
運動公園としては市営球場が建設され、さらにバレーコート、テニスコート、ソフトボール球場、弓道場、運動広場、山形県体育館などが建設され、県立博物館も建てられた。
1975年の航空写真には大きな野球場や屋外プールなどのほか、ど真ん中に4面ものソフトボール場(サッカー場としては2面)が写っている。もちろん本丸堀は埋められたから本丸、二の丸は一体化した敷地になっている。
しかし1978年、山形市は「山形城復元」に方針を大転換。これらは体育館、博物館をのぞいて順次撤去され、発掘調査と復元工事が続いている。
9:32
石垣の色が変わっている。一つの石の中でも色が上下で変わっているから、一度埋められた濠を掘りなおした跡だろうか? ただし1975年の航空写真では途中頭を出した石垣は認められず、よく分からない。
なんとなく床上浸水した家の壁を思わせる。
復元された本丸濠の二の丸側(南)には山形県立体育館と武道館が残っている。
これだけ広いと何か建てないと、間が持たない。すなわち草ぼうぼうとなるか、芝生にしても人が来ない。市が運動公園にしたのはうなづける。
9:34
山形藩の歴代藩主
山形以外の人に山形城と言っても城主が浮かんでこないのは、藩主家が目まぐるしく変わったことによる。なんと、幕府領二回を挟んでのべ13家。
有名なのは初期に3代つづいた最上家57万石か。続く鳥居家22万石、保科家20万石も名家だが2代、1代しか続かず、山形城の顔とはならない。
その後は松平3家(結城、奥平、大給)、堀田、秋元らが入城し、水野氏で明治維新を迎える。領地も15万石から5万石まで徐々に減った。
(なお松平諸家については以前書いた。)
20111103 谷中墓地9 松平家はいくつあるか?十四松平から御連枝まで9:34
2006年、本丸の正門に当たる一文字門(左)に架かる大手橋が復元された。
2013年には一文字門の高麗門、土塀が復元されている。
平日ともあり日本人観光客はいなかったが中国語のグループが記念写真を撮っていた。
9:36
高麗門をくぐり一文字門の桝形内部。ここから本丸に入る。
山形城は足利一門の奥州探題(管領)斯波家兼の二男・斯波兼頼が羽州探題となり最上氏を称し、初期の山形城をつくった。だから最上氏の家紋は足利と同じ、丸に二つ引である。最上氏は山形城を大拡張し、つづく鳥居氏の時代に一部を石垣としたようだ。
9:37
本丸御殿広場
本丸は御殿のみで天守は造られなかった。
行ってみると本丸内部には井戸の跡だけあった。
扇状地だから水はけが良いわりに、少し掘れば湧き出たのではないか?
ここは近年までソフトボール球場,兼サッカー場があったわけだが、井戸はそのあと復元したのだろうか? あちこち調査、工事中の今、こういう小物の復元はまだ早すぎると思ったが、調査中に石垣が発見されてしまったのだろう。
9:39
二の丸に戻り、南の木立の中へ行くと、あまり見たことのない形の不思議な建物があった。
山形市郷土館だが、旧済生館本館を移築したという。
「生を済(すく)う」だから医学関連のものである。
なんと明治11年築。
初期の和洋折衷建造物で国の重要文化財。最初は県立病院、明治21年に民間移管となり、明治37年からは市立病院済生館の本館となった。創建当時は医学校が併設され、オーストリア人医師・ローレツAlbrecht von Roretzが近代医学の教鞭をとった。
入場無料で、中は医学関連資料が多いようだが、先を急ぎたいのもあり、入らなかった。あとで調べたら螺旋階段や中庭など見るべきものが多いことを知った。
東大手門から二の丸を、すなわち城址公園を出ようとすると騎馬像があった。
9:45
最上義光之像
タイトルを入れるため正面から写したが横から見るとなかなか勇ましい。戦国武将の銅像は床几に座ったものなどが多いが、義光像は、有名な絵画「サン=ベルナール峠を越えるナポレオン」を想像させるように、馬は両前足を高く浮かせ今にも走り出しそうな姿をしている。上杉軍に囲まれた長谷堂城の救援に向かう義光を表しているらしい。1584年、本能寺の2年後、中央では秀吉が柴田勝家をつぶし小牧長久手で家康と和睦、政権を確立した年、最上義光は、羽州探題家としての再興を目指し、近隣の大江氏、白鳥氏、天童氏を破り、村山・最上両郡を勢力下に治めた。置賜地方は血縁関係のある伊達氏の支配下にあり、進出できないことから北進し、大宝寺氏のいる庄内の制圧を目指した。
しかし早くから秀吉と同盟関係、臣従関係にあった上杉景勝は、1586年、出羽切り取りの裁可を得た。いったんは最上領となった庄内は結局上杉の勢力範囲となる。以後、最上・上杉は互いに仮想敵のようになった。最上から見れは南北から上杉に挟まれ、上杉から見ると最上で分断されている。
それでも最上義光は本領24万石を安堵され、1591年には雄勝郡4万石余を得て、豊臣政権下では12番目の大名となった。
1600年9月8日、石田三成・家康の動きに連動して(庄内が最上義光・秋田実季に挟み撃ちにされそうになったこともあり)直江兼続ひきいる上杉軍が北上、家康方についた最上義光を攻めた。総勢二万五千。当時の動員兵力は10万石で2500人と言われた。上杉は会津120万石だが、庄内、佐渡も含めた石高だからこの軍勢は上杉のほぼ全軍である。最上勢は山形城に4千、各支城に合わせて3千だったという。(慶長出羽合戦)
最上方の各支城は500人ほどでこの大軍を前によく戦い、上杉軍に損害を与え進軍を遅らせた。山形防御の要となる長谷堂城は1000人がまもり、包囲攻城する1万8千の直江軍に耐えた。
9月15日(関ヶ原合戦の当日)、最上義光は北目城(仙台市太白区)にいた伊達に援軍を依頼、9月24日伊達軍3000人が直江兼続本陣の東2キロに着陣、義光も25日山形城を出陣した。
ところが9月29日、関ヶ原において三成の西軍が大敗したという情報が14日かかって兼続のもとにもたらされ、上杉軍は撤退を決断、翌30日、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転した。上杉の撤退戦は、両軍多くの死傷者を出した。兼続は責任を取ってしんがりを務め、鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、10月4日に米沢城へ帰還した。
戦後、最上義光は置賜郡を除く山形県全部と秋田県の由利郡を与えられ、28万石から57万石に大幅加増、前田、伊達に次ぐ大大名となった。
しかし義光の死後、後を継いだ次男の家親が36歳で急死、嫡男の義俊が13歳で家督を継いだとき、お家騒動がおこり、1622年、近江大森1万石に大幅減封された。義俊も27歳で亡くなり、嫡男義智は幼年のため5000石の旗本に落とされた。最上家は足利家の流れをくむため義智一代限りで高家に列した。
9:46
1991年に復元された二の丸東大手門。
この規模は江戸城の城門に匹敵するという。
二の丸には5つの門が作られたが、ここが表玄関である。
9:47
二の丸東堀と並行して奥羽本線が走る。
それを越えるため大手門を出ると跨線橋の階段がある。
二の丸は一辺500メートルほどの正方形(25ヘクタール)と書いたが、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形で235ヘクタールあった。
徳川家が毛利島津の来襲をそこで防ごうとした巨城、姫路城(内曲輪23、外曲輪233ヘクタール)とほぼ等しい。比較しやすいところでは江戸城内郭すなわち本丸などのほか西の丸、吹上、北の丸、西の丸下(皇居前広場)を含めた中心部分が230ヘクタールである。
山形市公式サイトから
山形城の本丸は御殿、二の丸は藩の政庁など、そして三の丸には家臣の屋敷が置かれた。しかし最上時代はともかく、その後は巨大な城は維持しがたく、三の丸の水堀は石垣でなく掻き揚げだったこともあり、江戸期の終わりごろには埋没し、湿地化したあと現在は住宅地の下になっているらしい。最後の水野5万石のころは二の丸内部もかなり荒廃していたという。御殿は二の丸に移り、本丸は更地、三の丸の西半分は畑になったらしい。(この畑化が西口再開発につながる。)
9:50
県民ふれあい広場
三の丸でも二の丸堀に接している。
何組かゲートボールをやっていた。
しばらく見ていたが性格的に私はできそうもないと思った。
この周辺、すなわち二の丸大手門からでた三の丸の東部分は、明治後、官庁街と民営地になった。いまは山形美術館、最上義光歴史館、税務署、市役所、済生館病院のほか、ふつうの市街地になっている。
9:56
山形駅に戻って来た。
やはり東口は表玄関らしく賑やかである。
東口には山形城三ノ丸土塁跡、山形県郷土館(文翔館)、紅の蔵、など見どころが多いが、割愛した。
今回は一日で山形全県すなわち置賜、村山、最上、庄内、の4つの地域を全部見ることを目的としているので、残念だが、先を急いで駅に上がった。
(続く)
9:59
山形駅東口、駅のデッキから。