2024年9月26日木曜日

山形3 各市町村の人口と高畠・南陽・上ノ山

9月19日、米沢に来た。

早朝、上杉家墓所、米沢城などを見てから米沢駅に戻って来た。
これから山形市へ行く。
最終目的地は庄内の酒田、鶴岡なので、米沢から鶴岡までの切符を買った。各駅停車で3080円。100キロ以上あるから途中下車できる。通し切符はいちいち切符を買う必要がないから便利だ。
米沢は改札でスイカが使えないが券売機では使えた。出てきた裏が黒の切符は自動改札を通った。(スイカは山形駅以外の上山温泉とか蔵王、北山形とか、むしろ小さい駅では2024年春から自動改札で使えるようになったらしい。スイカで有名な尾花沢は鉄道から東に外れていて、この名の駅はない)。

ちなみに、南端の米沢から北の鶴岡までは、100キロどころか実際は166.8 km。
山形県は大きい。長野―飯田(160.6キロ)より遠いのは意外だった。
8:08
1.米沢駅出発
乗客は意外と多い。米沢から山形までの列車は、6:04、6:44、7:15、8:09、9:39だから通勤通学客がこの列車に集中しているのだろう。山形まで46分、860円。
2 8:14 置賜駅
米沢の隣。無人駅。
置賜はたいていオキタマだが、駅はオイタマのようだ。
サキタマ埼玉と同じイ音便だが、促音便と違ってオキタマでも言い難くはない。
昔の北関東や東北の人々はK音が苦手だったのだろうか?

置賜というのはアイヌ語の広い葦の湿地(u-ki-tomam ウキトマム)から来ているとされ、日本書紀にも出てくる。地域としては山形県の最南部、県を4区分したときの1つである。
こんな大きな地名を、こんな小さな駅が使っていいのだろうか?

奥羽本線は、米沢から北が明治33年(1900)に赤湯まで開通、米沢の次は高畠(当時は糠ノ目といった)であったが、大正6年その中間に新駅が作られた。それまで置賜をどこも使っていなかったから、これにしたのだろう。

オイタマを過ぎるとトウモロコシ畑が青々していた。この季節で不思議に思ったが、やがて線路際に牛舎があった。そうだ、子どものころ実家でも牛がいたとき餌としてトウモロコシを作っていたな。
草原に放牧されていなくとも、こういう広々とした田園で育てられていれば肉もうまいだろう。いや、むしろ放牧より小屋で運動せずに高脂肪食を食べさせたほうが良いのかな。

ちなみに山形牛は山形県全体で育てられた牛だが、米沢牛は置賜地方だけに限られた牛である。明治初めに米沢興譲館の英語教師が当地の牛の旨さに驚き、横浜に牛を一頭はこび、全国に知られるようになったとか。
3 8:19 高畠駅
高畠は、東置賜郡役所も置かれ、山形県内でも比較的早く町制が施行されたが、奥羽線は西のほうを素通りした。そこで地元の名士たちによって会社が設立され、大正11年に奥羽本線糠ノ目駅から高畠町まで鉄道が開通した(高畠線)。しかし、1974年高畠線は廃止となり、1991年、糠ノ目駅は高畠駅に改称された。東方の高畠町中心部には、旧高畠駅の石造駅舎が残っているらしい。

8:20
高畠駅を出てすぐ。
穂波がつづく。
山が見えないほど広い。

各駅停車で県下を周るには、山形県の地図が頭にあったほうが良い。
山形県市町村
明るい色が市、褐色が町村。
大雑把に、明るいところは平地が多く、褐色部分は山が多いと思ってよい。
もっとも、平成の大合併で鶴岡市などは出羽三山まで市域に含むが。

各地の人口を見てみる。
各都市圏の人口
核となる都市への通勤通学者が、全通勤通学者の10%以上となる周辺市町村を、その都市圏とする。10%以上いる都市が二つ以上あれば、多いほうの核都市の圏内とする。

米沢、山形、鶴岡、酒田は知名度の上で同じくらいだが、都市圏の大きさでは県庁所在地の山形が圧倒的である。

また、山形は大きく4つの地域に分けられる。
庄内、最上、村山、置賜である。


日本はどの県も、便宜上いくつかに分けている。
長野は北信、中信、東信、南信、福島は会津、中通り、浜通り、新潟は上越、中越、下越。県外の人もだいたい分かる。しかし山形県の区域名は少し分かりにくい。村山地区など村山市より山形市のほうが大きいし、最上地区も最上川は全県を流れている。

村山地区は村山市とは関係なく(なくはないが)、郡の名前である。(山形市も明治22年の市制施行前は南村山郡だった。山形市にある県の出先機関も村山総合庁舎という。)最上地区は最上川からではなく、これも郡の名前である。では戦国武将の最上氏は最上郡と関係あるかというと、それは別のブログで述べる。
庄内郡というのはない。一帯を庄内、また庄内藩とは言った。戦国時代後期、大泉荘を拠点としていた大宝寺義氏が、この地域の所領化を進めた結果、一帯が「大泉荘の内」、庄(荘)内と呼ばれるようになったとされる。庄内地方は鶴岡の田川郡、酒田の飽海郡からなる。

さて、各駅停車の列車は豊かな田園地帯を進む。

1 8:09 米沢
2 8:14 置賜駅
3 8:19 高畠
4 8:24 赤湯
5 8:31 中川(山形)
6 8:35 羽前中山
7 8:41 かみのやま温泉
8 8:44 茂吉記念館前
9 8:48 蔵王
10 8:53 山形

赤湯、中川は南陽市。もとは東置賜郡だった。
1967年、赤湯町、宮内町などが合併してできたが、双方新市名で譲らず、ときの県知事が中国の故事「南陽の菊水」から命名したという。しかしこれには(遠い部外者だが)首をかしげる。初めて南陽と聞けば、太陽明るい南国の宮崎、高知、和歌山などをイメージするのではないか? 中国の故事などいくらでもあるし、この地域と何の関係もない。置賜駅のように、安直に「東置賜市」としても良かったのではないか?

中川駅を過ぎると山地に入り、郡の境を越えて羽前中山は旧村山郡(上山市)。
平地に出るとかみのやま温泉。
8:40 7上山温泉
駅名がひらがななのは、かつての私のように何度も忘れてしまい「かみのやま」か「うえのやま」か、あるいは、かみやま、うえやま、と分からなくなってしまう人が多いからだろう。

山形県は実質的に(町を見るという意味で)今回が初めてであるが、1983年12月蔵王にスキーに来て、1994年10月には薬理研CNS部門の社内旅行で蔵王お釜、山寺立石寺をみて上ノ山温泉の村尾旅館に泊まった。翌日はブドウ畑の下で模擬芋煮会を楽しんだ。すなわちわずかでも知っているのは上山温泉だけなのである。

村尾旅館は昭和天皇が泊まったという老舗で、増築で曲がりくねった廊下には天皇の写真が飾られ、宴会の乾杯の挨拶をした工藤幸司さんは昭和天皇の声色で音頭を取った。だが惜しいことに数年前に廃業したという。建物は残っているようで、今回途中下車してみる予定だった。
しかし米沢の見物が思ったより時間かかり、上ノ山は割愛することにした。

上山の地名は蔵王連峰のふもとにあることから山方(やまがた)と呼ばれ、それが上の山方、下の山方(のちの山形市周辺)に分かれたことによるとされる。

上山の町は、上山義忠(上山氏は、斯波氏から分かれた天童頼直が子の満長を上山に配したことから始まる)が、1535年高楯城から月岡(現上山城付近)に城を移したことで作られた。
江戸時代、上山城は、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.8万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が10代(3万石)で明治維新を迎えた。

上山は城下町であるがその雰囲気がない。おそらく温泉が出たために温泉旅館やホテルができてしまい、武家屋敷や古い町並みが消えてしまったのだろう。駅名まで「かみのやま温泉」だし(1901年開業のときは上ノ山駅)。もう城下町であることを捨てている。
途中下車しなかったのは、時間がなかったせいもあるが、城下町の雰囲気がないことが分かっていたからである。
8:41
かみのやま温泉駅を発車するとすぐ、上山城の天守がみえた。
1994年、貸し切りバスで村尾旅館に着いて周辺地図を見たらすぐ近所に上山城があった。夕食までの空き時間に後輩の田村浩司君を誘って散歩に行った。城跡には1982年に建てられたコンクリート製の模擬天守があった。ちなみに上山城は江戸時代初期には天守があったようだが、藤井松平家のころからは天守がない。

田村君とは研究所の人事やプロジェクトの進め方などについて不満、愚痴を交えて話に熱中したせいか、いかにも観光の目玉にしようと作った天守については、ちゃんと見なかった気がする。
8:43
次は8茂吉記念館前駅
1952年、北上ノ山駅として開業。
1992年駅名改称。
バス停ならともかくJRの駅名として個人名はどうなんだろう? 駅名、路線名はパッと見てどこか分かるのが良いと思う。その点で、北上ノ山は良かった。
ちなみに、斎藤茂吉は駅の北800メートルほどの金瓶部落で生まれ、記念館は1968年、駅のすぐそば、明治天皇が休まれた「みゆき公園」にオープンした。

50年近く前、私が大学に入ったころ、彼の「万葉秀歌 上下」は大学生の必読書(岩波新書で安かったからとりあえず買っただけの人が多い)であったが、今の学生は茂吉の名前すら知らないのではなかろうか。
8:47
9.蔵王駅
駅名と周辺の景色のギャップ。
開業時は金井駅だったが、1951年に蔵王駅に改称。
(前年の1950年、堀田村が蔵王村に改称したのに連動したかもしれないが、駅は区域外の金井村で、金井村民は反対しなかったのかな?)
蔵王温泉方面へのアクセス交通も皆無であり、この名前にしなくてもよかったのでは?
8:55
山形駅到着

(続く)
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2024年9月23日月曜日

山形2 米沢城の縄張りとウコギの生垣

9月19日早朝、山形の米沢に来た。
西米沢駅近くの上杉家廟所を柵の外から覗いてから、米沢城まで歩いてきた。
(前のブログ)
濠で囲まれているのは本丸跡で、全部が上杉神社になっている。
6:46
米沢城址は、尾根の先でもないのに松が岬公園というようだ。長井氏が築城したとき松が岬城と称したらしい。
上杉家墓所から歩いてきて北西の角から西参道で濠を渡り、東参道で二の丸に出たことになる。

本丸は分かるが、二の丸、三の丸はどうだったのだろう?
上杉神社の境内に、江戸時代の米沢城の鳥観図があったが、初めての町だからどこがどこだかよく分からない。
6:43
きれいな輪郭式平城である。
西の掘立川と東の松川で大体の方角が分かる。
左上が西だ。
右下の松川を渡ってまっすぐ東へ行けば米沢駅に行く。

6:45
本丸から東参道の橋を外に出た。
濠の向こうに見えるのは旧上杉伯爵邸だろうか。
6:47 伝国の杜
(置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の複合施設)

輪郭式の本丸から出たのだから、間違いなくここは二の丸。
広い芝生の上を犬を連れた人が歩いていた。

伝国の杜という施設名は全国から公募されたらしい。「伝国」は9代藩主上杉治憲(鷹山)が家督を譲る際に、藩主の心得を3か条で記した「伝国の辞」にちなんだものというが、たいていの人は伝国(でんこく)と聞いても分からない。外国語なら意味不明でもいいが、日本語なら意味が分かるものがいいな。
6:52
唯一残っている本丸周囲の堀に沿って南に行けば上杉伯爵邸がある。
輪郭式だからどこまで歩いても当然二の丸。
上杉伯爵。大名の爵位基準は15万石以上で侯爵だが、これは表高といった米穀の生産量ではなく、税収(年貢など)をあらわす現米(現高、蔵米)を指している。明治2年政府が過去5年間の歳入を出せという沙汰を出し、各藩が5年平均の租税収入を申告した。前田64万石、島津31、毛利23といった数字で、15万石以上となる大名11家を「大藩」とし、これが爵位を決めるときに転用された。だから、表高15万石の上杉が侯爵にならず伯爵となったのは、よく言われる奥羽列藩同盟で薩長に抵抗したからというわけではない。
6:53
上杉邸は14代当主(観光案内などでは謙信を初代とするが、米沢藩主としては13代目、山内上杉家として29代目)の、最後の藩主、上杉茂憲の本宅として建てられた。

いまは庭を見ながら米沢牛が食べられるレストランになっている。
米沢牛膳6000円、しゃぶしゃぶ7000円、ステーキ8000円とあった。9代鷹山が濠で飼わせたという米沢鯉の甘煮は単品で900円。
6:55
伯爵本邸というと暮らしの一端も見たくなり、裏の台所のほうまでまわってみた。
早朝だから誰もいない。

6:56
伯爵邸は明治29年に建てられたが、大正8年の米沢大火で焼失。
大正14年、米沢出身の建築家・中條精一郎設計の総ヒノキ入母屋造りで再建された。
中條(ちゅうじょう)は、千駄木に居を構え、長女が作家宮本百合子である。今は屋敷の門塀の一部だけ残り、千駄木菜園のお散歩カテゴリーにも出てきている。

ちなみに同じ東大建築を出た米沢出身の伊東忠太は藩医の子として1867年、中條は藩士(安積疎水を開いた中條政恒)の子として1868年、1年違いで生まれている。

上杉記念館を出て、伝国の杜の建物に沿って正面にまわってみた。
6:59
二の丸のここには米沢工業高校があった。それが新築移転し跡地に2001年9月、山形県の置賜文化ホールと米沢市が整備した米沢市上杉博物館が合築された。

博物館には信長が謙信に送った有名な国宝「上杉本洛中洛外図屏風」(狩野永徳)がある。
以前は、謙信が毎日見つめていた毘沙門天画像、直江兼続の「愛」が有名な具足、鷹山の「伝国の辞」などとともに、神社境内の稽照殿という宝物館にあったのだが、市立博物館ができて移動したのだろうか。
常設展は上杉関連だけでなく、置賜地方の歴史文化を伝える。見どころが多そうだ。

文化ホールには可動式能舞台もある。城址の松が岬公園にこういうものがあることで、人口 7万7千人ながら、10倍以上の人口を擁する政令指定都市のさいたま、相模原、千葉以上の風格がある。

雨脚が強まってきた。
伝国の杜の東の県道を松ヶ岬公園にそって北へ歩く。
7:02
米沢城史苑
松ヶ岬公園の東端にあり、園内の地図を見た時はその字面から、歴史資料館の一つかと思った。しかし、お土産、カフェ、レストランのある観光物産館であった。「苑」とあるから焼肉もあるかな。上杉記念館(伯爵邸)での食事は予約が大変そうだが、ここはいつでも入れそうだ。

二の丸のまわりの堀は、この県道あたりのような気がする。
つまり道のこちら側が三の丸。

この道をまっすぐ北へ行けば興譲館跡、興譲小学校などがあるが、有名な米沢興譲館高校はどこにあるのだろう? 雨の中地図を開いても見つからない。

松が岬公園の角で右折し、東の米沢駅のほうに向かう。
米沢の信号機には交差点名が書いてない。

駅に向かってひたすら歩いていく。
途中、三の丸の外堀があるはずだが何もない。

ふと、右手に生垣があった。
裏口のような小さな木の門はあるが、中は空き地になっている。
7:08
生垣はウコギだろうか?
上杉家は関ヶ原のあと会津120万石から米沢30万石に減封され、さらに1664年3代藩主綱勝が、嫡子、養子もないまま急逝した。そこで綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と吉良義央(赤穂浪士に切られた上野介)との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを幕閣に認められ、お家取りつぶしを免れた。
しかしこの件で信夫郡、伊達郡(ともに今の福島県)などの15万石を失い、置賜郡15万石だけになった。石高が4分の1になっても家臣はほとんど減らず、窮乏を極めていたのに、また半減し8分の1。さらに貧乏になったわけだ。

藩士たちの屋敷は石垣も長屋門もなく、練塀の代わりとして生垣をめぐらした。それもウコギ(五加木)というパッとしない低木だった。ウコギは美観のためではなく新芽が食べられるからだ。摘めばまた芽が出る。食べるなら白菜とか大根のほうが良いが、これらは季節ものだし、第一、垣にならない。

ウコギを奨励したのは直江兼続とも9代藩主の上杉鷹山(治憲、1751₋1822)ともいう。
直江については前のブログで書いた。
上杉鷹山は40年ほど前、童門冬二の同名小説(1983)がベストセラーになり一気に有名になった。彼は日向高鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が秋月藩黒田氏に嫁いだ上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。

鷹山は質素倹約をすすめ換金作物の栽培も奨励した。
しかし、どうしても長州毛利家と比較してしまう。
毛利家も関ヶ原のあと、中国地方120万石から防長37万石に押し込められた。上杉家と同様、少しも家臣が減らなかったから江戸時代初期の100年ほどは貧窮を極めた。しかし、徳川への恨みのエネルギーを溜めながら、彼らは瀬戸内海に向かって干拓をはじめ、幕末の長州藩は100万石ほどの米がとれたという。鷹山のような倹約の有名人は出なかったが、北前船の利益をおさえ、産業を興し、倒幕するほど豊かな藩となった。

同じ出発点ながら瀬戸内海に面した藩と、雪深い米沢に閉じ込められた藩のちがいであろう。

しかし本当にウコギだろうか?
話にはよく出るが、実は初めて見る。
ちょうど犬を抱えて通りかかった人がいたので思い切って聞いてみた。
やはりウコギだという。

小さな木の門扉だけ残した空き地が気になって、ここは藩士の屋敷だったのでしょうかと尋ねると、意外な返事が返って来た。
7:08
ちょうどここには堀があって、西側が三の丸で武家地、ウコギの垣根があった東側は町人町だったから武家ではないだろうというのである。
すなわち、偶然にも三の丸の範囲が分かった。

彼は素朴な米沢弁でいろいろ教えてくださった。
7:10
濠の外側は武者道という細道が通っていた。
町人は通ることができず、最初は堀の管理道路であったが、次第に武士たちの生活道路になった。
三の丸の武士たちが町人街に行くときは刀を差さず、笠で顔を隠し、この細道を忍んで出入りしたという。また、原方衆という、普段は農作業をし、臨時のときに動員される下級武士がいて、彼らも武士の誇りを持ちながら、こっそり通ったとされる。

犬を抱えた男性は、親切にもさらに、復元された三の丸の堀まで私を案内してくださった。
7:10
西條天満公園に復元された(保存された?)三の丸の外堀と土塁。
7:11
米沢城は戦国末期の築城でありながら、本丸のまわりすら当時はやりの石垣ではなく古風な土塁であった。
濠をほった土をそのまま搔きあげて踏み固めただけである。その分、明治になって埋め立てるのも楽だった。
7:13
木の橋を渡って公園に入った。
広くて何もない。
西條天満公園というのは、上級家臣だった西條家の屋敷跡で、屋敷内(土塁の上)に天満神社がまつってあった。神社は平成22年に移転した。

毎日散歩されている男性は、公園内もよく知っていて、中央の休憩テーブルの米沢城絵図のところに連れて行ってくださった。
7:15 上が北、東が駅。
現在地の公園が赤枠で囲んであり、西条の文字が読める。
三の丸の外、町人地の外にも防御のため寺院がびっしり並べられた。
7:26
平日の早朝だからか、雨だからか、だれもいない。
犬を抱いた彼に感謝のお礼を言って別れた。

彼の菩提寺は東源寺といい絵図の寺町にあった。調べたら五百羅漢で有名。信州飯山から上杉家とともに移転してきたという。北信濃は上杉の勢力圏だったから、寺院や市河氏、高梨氏などの土豪も会津、米沢と移転した。信州中野の土豪だった高梨の文字を絵図の武家地に探せばよかったと思ったが公園に戻る気は起きなかった。

さらに駅を目指して歩く。
松川(最上川)手前の交差点に「アイデアの泉神社」というのがあった。
7:38
しかし社殿、鳥居などはない。
御祭神は水神様で、「世界一水水(みずみず)しい  ご自由にお飲みください」という。
見ざる聞かざるの三猿ならぬ積極的な四猿(見る猿・聞く猿・話す猿・考える猿)が蛇口の上にいて、私も飲んでみた。
ユーモアとしては面白いが、誰もが知っている歴史の物語がないため、観光スポットにはならない。

水を飲んで米沢興譲館(高校)はどこにあるのだろうと考えた。もう一度地図を見るがない。まさか名前が変わったんじゃないだろうな。

学問所は1618年に開設されており、この時から数えて2024年で創立406年。
藩校「興譲館」となったのが1776年で創立238周年。
旧制中学となったのが明治19年(1886)で創立128年である。
公立高校としては日本最古と言われ、
伊東忠太の他に、明治の政治家・平田東助、海軍大将・山下源太郎、機動艦隊司令長官・南雲忠一、財界人・池田成彬、憲兵大尉・甘粕正彦など歴史人物も多い。

スマホを使うと電池がなくなりそうで、興譲館の所在を調べなかった。
帰宅後、地図の外、南米沢駅のさらに南にあることがわかった。1987年、お城の北方、いまの米沢市すこやかセンターの場所から移転した。

川を渡る。
7:43
絵図では松川とあったが、最上川である。
置賜の水を集めて、さらに広く開けた村山地方、最上地方でも水を増やし庄内平野に流れ込むはずだが、まだ小さい。
これも北の掘立川とともに4番目の濠をなしていたのかもしれない。
7:51
米沢駅到着
駅舎は1993年、山形ミニ新幹線の開業に合わせ建てられた。
米沢高等工業学校本館(現・山形大学米沢キャンパス)を模したという。

これから県庁所在地の山形へ向かう。

(つづく)

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2024年9月22日日曜日

山形1 米沢、上杉家廟所と直江兼続ら3人の城主

9月19日、山形県に来た。

手段はまた高速夜行バス。
メリットは値段の安さが一番だが、日帰りでいっぱい時間が使えるのもよい。
泊れば2日使うが、夜行バスなら1日で済む。退職したものの、1日2時間、3時間程度の用事(バイト、ダンス練習)などはほぼ毎日あり、2日何もないことはほぼない。敢えてキャンセルをしないと一人旅などはずっと先送りになる。
それにホテルの予約が要らない。予約するというのは選ぶこと。値段と場所をみながらいくつものホテルをネットで見なくてはならない。それに、どこの駅(都市)にするか決めるには、旅の予定を決めなくてはならない。これが面倒。

デメリットは、もちろん、狭いバスで寝ること。これは無視できない。

その窮屈さは分かっているのだが、
 東京―米沢 4000円
 酒田ー新宿 5200円
を予約してしまった。県内での最初と最後を決めて後はフリー。

山形はいつか来たいと思っていた。
スキーで蔵王、社内旅行で山寺、上山温泉はいったが、ひとりで町を歩かないと意味がない。観光地でなく都市を見て風土とか歴史を見たかった。

東京駅鍛冶橋BTを24:20に出て、5時間後の朝、米沢駅東口に到着。
5:25 (上が西)
市街は奥羽本線米沢駅の西に広がり、JR米坂線がぐるりと南から市街を囲んでいる。一つ目の南米沢駅の旧制米沢工業高校本館、春日山林泉寺が気になるが、時間もないので2つ目の西米沢駅の近く、上杉家御廟にいくことにした。
5:39
米沢駅 改札口。
駅舎は新しいが、古い意匠を取り入れている。
改札でスイカはまだ使えないが、自動券売機では使えた。
改札で駅員が切符にハンコを押す。

もちろん始発列車。
このあたり、列車はワンマンカー。
2両のうち乗った車両は文字通り私一人だけだった。
5:52
はじめての米沢。豊かな置賜盆地(米沢盆地ともいう)。
半分くらいは稲刈りが終わり、今夏の米不足も解消するかな?

北方の長井盆地と合わせて置賜地方という。
19世紀のイギリス人旅行作家が東洋のアルカディア(理想郷と言われたギリシャの地方)と評したらしい。

米沢から2つ目の西米沢で下車。
5:56
西米沢駅。小さい無人駅だが建物は新しい。
近くに商店が何もなく、ポツンと不思議な景色になっている。

6:00
駅前からまっすぐ伸びる道路は広い。
歩道すら車が走れるほど広い。

このあたり直江町という。上越の直江津は直江兼続以前からの地名だが、ここは兼続由来の町名だろうか。(ちなみに兼続が養子に入った長尾家重臣・直江家は与板城主だった)

途中右手に小学校、コミニティセンター、公園がある広大な公用地があり(軍用地ではなかったようだ)、そこまで来ると家々の向こうに高い杉の森が見えた。
6:06
上杉家墓所、北西の角。
地元では御霊屋(おたまや)とも呼ばれているらしい。
原生林ではないが、杉がびっしりと生えている。
6:08
杉のあいだから歴代藩主の霊廟が見えた。
上杉家第二代の景勝が最初に葬られ(火葬)、以後12代までの御堂があるはず。明治以降に亡くなった上杉家当主13代斉憲からは 港区白金の興禅寺に墓所があるらしい。

初代謙信の遺骸は越後、会津、米沢と、はるばる上杉家とともに引っ越しを繰り返し、米沢城本丸に安置されていたが、さらに明治になってこの地に移された。
6:09
杉の多くはツタが絡まっていた。

西辺をぐるっと回って正面参道に出る。
6:13
竹にスズメの上杉家紋のかかった御廟正門
開門は9:00、入場料は500円という。
6:14
格子のあいだから覗いたが、遠くて何も見えない。
「龍」(懸かり乱れ龍)と「毘」の軍旗だけ分かった。

参道の西側にお寺がある。
6:15
八海山法音寺
山号から越後から来たと分かる。
門に米沢藩主上杉家菩提寺と書いてある。

説明板を読めば、八海山のふもとで建立されたが、天正年間に春日山に移り、上杉謙信の帰依寺となった。越後から会津、米沢と転封された上杉家に付き従い、米沢では二の丸に建立された。本丸には謙信の遺骸をまつるお堂があり、そこに奉仕する真言宗21か寺(すべて二の丸にあった)の筆頭として、上杉家の菩提寺となったという。明治3年、神仏分離令で城内からこの地に移った。
6:16
法音寺は善光寺如来と付属の仏具を安置している。
川中島の合戦の際、近くの善光寺から謙信が持ち帰ったと書いてある。盗んだとは書いてないが、強引に献上させたのだろうか?

(ところで、法音寺が上杉家菩提寺とすると、朝の地図にあった春日山林泉寺は何だろう?
調べたら山号どおり、上越の春日山に建立され、上杉家移封とともに米沢まできた。謙信は7歳から14歳までの間、林泉寺で教育を受けている。曹洞宗。晩年の謙信が真言密教に深く帰依したため、謙信の遺骸は城内に建立された真言宗寺院21か寺によって守護されることとなり、林泉寺は謙信廟所とはならなかった。
しかし、歴代藩主の墓は廟所がここに造営されたために林泉寺にはないものの、上杉家の菩提寺として、藩主の正室や子女の墓が安置された。また直江兼続夫妻の墓もあるという。)

さて、上杉家廟所を出て、米沢城を目指す。
秋雨前線が停滞し、雨は降ったりやんだり。東京と違って暑くないから歩きやすい。
6:22
廟所入口からまっすぐの県道を歩いていたら、「毘」「刀八毘沙門天王」という文字が飲食店のような看板にあった。千勝院とある。調べたらやはり越後高田に建立、上杉家とともに会津を経て米沢まで来たようだ。

廟所から米沢城まで1.2キロを14分で歩いた。
6:30
米沢城本丸、北西の隅

本丸跡は櫓などお城関係の建物はいっさいなく、中央に上杉神社がある。
すなわち本丸跡はそっくり全部、神社の境内になっていて、看板地図を見れば、蓮を見ながら渡った橋は「西参道」と書いてあった。
6:33
上杉神社。祭神は上杉謙信。

米沢城は(幕府に遠慮したのか、無用と考えたのか)30万石の城としては天守を構えず、本丸の東北と西北の隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用とした。

本丸には謙信の霊屋(御堂)があり、仏式で祭祀を行ってきたが、明治になって神仏分離令があり、明治5年(1872)謙信の霊は、9代藩主治憲(鷹山)とともに合祀され、上杉神社とした。

また廃城令により、明治6年には城の建物が全て破却され(二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場として利用)、明治9年には謙信遺骸を廟所に移し、上杉神社が現在地である本丸、奥御殿跡に遷座した。
(明治35年、鷹山を摂社・松岬神社(本丸の東隣、世子御殿跡)に分祀したので現在の祭神は上杉謙信ひとりである。)

それにしても米沢の、というより上杉家の謙信崇拝は大したものだ。
謙信は1578年、春日山城で急死し(49歳)、遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、その甕に大量の漆を流し込んで固めてあるという。上杉家の越後から会津、会津から米沢への転封に伴い、遺骸も一緒に運ばれた。そして本丸に高台を作って遺骸を安置するなど普通の藩では考えられない。

上杉神社は大正の米沢大火で類焼したが、米沢出身の建築家、伊東忠太の設計で再建された。
(伊東忠太については千駄木菜園の散歩カテゴリーで何回も書いた)

本殿の前(東)、観光案内所も入っているという臨泉閣は閉まっていたが、幸いトイレは借りられた。
出てくると「天地人」という像があった。
故人を素朴に顕彰するというより、いかにも観光客を相手にした新しい像である。
6:40
副題が「上杉景勝公と直江兼続公 主従の像」

近年、直江兼続が有名になったが、ついにこういうものができたか、という気分になった。
ふたりで城下なり領国の田畑なり、話しながら見つめているのがわざとらしい。
謙信以来の上杉の重厚さを伝える米沢への尊敬心が減ってしまう。

直江は少年のころ謙信に見いだされ、養子の景勝の近習にされた。景勝とともに成長しながら謙信を間近に見られた。謙信同様、学問好きで軍事を宗教のように高次元に置いた。
謙信が急死したとき、景勝は24歳、補佐役の直江は19歳だった。後継者を決めるお家騒動も二人で乗り切り、ここから景勝は終生、すべてを直江に任せた。

中央では秀吉が柴田勝家を倒し小牧長久手で家康と和睦した。そして上杉家は、1585年秀吉政権の大名として組み込まれた。
その後、1590年、小田原征伐のあと家康が関東に国替えになり、秀吉最晩年の1598年、上杉は当時45万石(http://www.joetsu100nen.com/kasugayama-8.pdf)とされた越後から会津120万石に大幅加増で移封され、五大老の一人となった。

ふるさと越後を離れても、これは上杉にとって得であった。この国替えは数か月後に死ぬ秀吉が一人で考えることなどできず、おそらく石田三成の案であろう。三成と直江兼続は同年齢で仲が良く、類似点が多かった。双方補佐官として才能があり、当時の武将としては珍しく漢学の素養もあり、民政がすきで、また珍しく正義漢であった。
三成の構想には、仲の良い直江を通じて上杉と連携し、奥州大名の筆頭として、関東の家康をけん制して欲しかったに違いない。

直江は会津120万石(今の福島、山形、佐渡)のうち、景勝から30万石をもらい、米沢城を本拠とした。豊臣政権の大名で30万石以上は11人しかいなかった。中央で直江は無名だったから世間は驚いた。これも(景勝の直江好きというだけでなく)三成の策だったという。東北で直江の名を高めておくためである。

関ヶ原の合戦では、三成、直江の構想通り、家康を挟み撃ちにする形になったが、三成が1日で敗れ、戦後上杉は直江の知行地、米沢30万石に押し込められた。毛利と全く同じく4分の1になっても家臣団は減らなかったから窮乏したはずだが、それでも景勝の直江に対する信頼は篤く、6万石を割いて与えた。だいたい当時の常識なら直江を切腹させて、家康にお家存続を嘆願するものだ。

「天地人」の像の説明には、
「初代藩主の上杉景勝公、その執政が「愛」の前立ての兜で知られる直江兼続公です。二人の主従は固いきずなで結ばれ、義と愛の心で領国経営にあたり、・・・米沢市民は今なお両公に対し深い敬慕の念を抱いております」

固い絆とか、義と愛の心とか、にわか歴史好き、観光客向け(実際私もそうなのだが)の文章が好きではない。
そもそも、彼が戦場でかぶる兜を作った当時、「愛」とは今の愛とは違うだろう。博愛とか友愛とかは明治以降だし、当時は仏教思想からいってむしろ「慈悲」が前面に出て、愛は愛欲とか愛着とか我執をあらわし、あまりいい意味ではない。あえてこの字を使ったのは、やはり「愛民」だろうか。それにしても珍しいことだ。
いっぽうで、この兜は謙信もしくは景勝があつらえて直江に下賜したという説がある。謙信が春日山の愛宕神社に武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願していたというから、彼が毘沙門天から「毘」を軍旗としたように、愛宕神社の「愛」を兜につけたのではないか。

帰宅後、像のタイトル「天地人」って何だろう、と思って調べたら、2009年、二人を主人公としたNHK大河ドラマだった。それに便乗して作ったものなら、わざとらしい像も文章もすべて納得する。
6:40
「伊達政宗公生誕の地」
天地人の像の向かいに、真っ白な字が浮かぶ新しい黒い石があった。
となりに大きな説明のパネルがあるのだから、こういうものは不要だと思う。
観光客相手だろうが、ないほうがずっと品が良い。

6:44
米沢城は鎌倉時代に長井氏によって築かれたとされる。
室町時代に長井氏は伊達氏に侵略され、以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。1548年伊達晴宗が本拠地を桑折西山城より米沢城に移し、晴宗、輝宗、政宗の三代で米沢城下が整備された。
1591年、伊達政宗は秀吉の命令で米沢城72万石から岩出山城(宮城県北部の大崎市)58万石へ減転封された。代わって蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安が入る。1598年には上杉の会津転封により重臣直江兼続が入城。関ヶ原後は上杉景勝が居城とした。

ちなみに景勝は米沢藩主として初代、謙信から数えて2代、山内上杉家(初代関東管領に始まる)としては17代目となる。
竹に雀の似た家紋
伊達は二羽の雀にたくさんの葉が広がる根竹
上杉は二羽の雀に輪竹(桶の周囲にはめるたがの竹)

正宗の曽祖父の三男、伊達時宗丸が、越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子となる話があり、竹に雀の紋を贈られたのが始まりという。

・・・
それにしても上杉謙信は死後、自分の遺骸が会津に運ばれ、さらに米沢に運ばれ、こんなところで神社になるとは思っても見なかっただろう。

私の上杉謙信は1969年、中学1年のときの大河ドラマ「天と地と」である。それまで川中島、海津城などは遠足で行ったし、飯山の綱切り橋などの話も聞いていたが、まとまった物語としてはこの時が初めてだった。信玄・高橋幸治に諏訪御前・中村玉緒が後ろから抱き着いた場面、謙信・石坂浩二がお堂にこもり、毘沙門天を前に「毘」という文字を筆で書いた場面をまだ覚えている。

(続く)