2021年11月3日水曜日

谷中墓地9 松平家はいくつあるか?十四松平から御連枝まで

先日、津山松平家の墓について書いた。

谷中墓地にはほかにも松平家の墓がいくつかある。
いったいいくつあるのだろう?
分かりやすいのはメインストリート桜並木の南端、茶屋(花屋)の坂本家の裏にまわると
2021‐10‐29
乙2号1側 松平家之墓
裏に昭和五年三月建とかいてあったが、新しい墓誌がある。
従四位源温公神位 松平秋雄
従五位源共公神位 松平圀弘
章仁夫人高島氏神位 松平わか
の3人が書いてあった。

松平秋雄(1902-1940)は、陸奥守山藩の藩主家11代、子爵である。
守山藩は水戸の支藩、2万石でいまの福島県郡山市にあった。

松平圀弘(1918-1951)は、水戸第13代徳川圀順(1886-1969)の四男。母は徳川慶喜の娘英子。秋雄の養子となり守山松平家12代を継いだ。
秋雄、圀弘とも三十代で亡くなっている。結核だろうか?

松平わかは、秋雄の父、守山家10代、松平頼平(1858-1929)の継室である。

乙2号1側 久松家之墓
守山松平家の墓のとなりは、久松家之墓。
立派さから、あの久松家ゆかりの家だろう。
そうならば、ここも江戸時代は松平氏を名乗っていた。(後述)

墓誌を見れば久松定法、久松定弘、と当主っぽい名前が並んでいる。
帰宅後調べれば、定法(1835‐1901)は伊予今治藩3万五千石の最後の藩主。
戊辰戦争では西軍に与した。
定弘(1857- 1913)は上総大多喜藩、大河内松平家の出身だが、定法の養子に入った。

ちなみに久松の本家は伊予松山藩15万石。
本家、分家とも明治になって松平から元の姓の久松に戻した。

・・・・・

江戸時代、大名、旗本に松平姓は異常に多かった。
江戸切絵図など見ると、大名、武家屋敷は松平ばかり。
官職名で区別するしかないが、それも重なることがあった。

谷中墓地の他の松平に行く前に、江戸時代松平姓がいくつあったか数えてみよう。
旗本は無数にあるから1万石以上の大名に限る。
(以下、藩名はその家の幕末での所在地)

1.まず三河以来の松平が11大名。

戦国時代、三河松平氏の第3代、松平信光が多くの分家を各地に置いた。
その中で安祥松平家初代の親忠(信光の三男)が岩津松平の本家を上回る発展を遂げ、6世のちに家康が出た。
家康は桶狭間のあと三河を統一すると、松平元康から徳川家康と名を変える。ほかの松平一族と一線を画し、親戚よりも臣下であることをはっきりさせた。
この一門が三州十八松平である。ただし十八公は「松」の分解とされ、18は実数でないといわれる。実際、書物により入る諸家は少しずつ異なる。
このうち、江戸期まで続いたのは、宗家の安祥松平家(徳川家)を除いて14家である。俗に小鳥をかけてジュウシマツという。

このうち幕末までに断絶したのが3家。
五千石以上の上級旗本として存続したのが3家
残った8家から11の大名が生まれ、明治まで続いた。

千駄木に屋敷を構え、いま大給坂に名前を残す子爵大給家は、三河の西尾藩(本家、6万石)の子孫だが、大給松平家の系統は、西尾藩のほかに豊後の府内藩(2万石)、美濃の岩村藩(3万石)、三河の奥殿藩(1万6千石)と譜代大名を4家も出した。

2.家康の婚姻関係で親戚になったもの 2系5家

・久松松平家
 家康生母・於大の方の再婚先、久松家で生まれた異父弟が久松松平家となった。幕末まで1万石以上を保った久松家は、本家の伊予松山藩(15万石)をはじめ、上総多胡藩、桑名藩、今治藩の4家ある。
(NHK松平定知は伊予松山家の分家旗本の子孫)

・奥平松平家 (外孫の松平忠明系 武蔵忍藩10万石)。
ただし父(家康娘の婿)の奥平信昌の直系は豊前中津藩10万石で奥平姓を通した。

3 家康男系の分家(御三家分家以外) 3系10家

 3‐1 家康次男、結城秀康から8家
   長男忠直の子孫  津山松平家
   次男忠昌の子孫  福井松平家(宗家)、糸魚川(清崎)松平家
   三男直政の子孫  松江松平家、広瀬松平家、母里松平家
   五男直基の子孫  姫路松平家(→前橋、川越)
   六男直良の子孫  明石松平家
 3‐2 会津松平家 秀忠の四男保科正之を家祖
 3‐3 越智松平家 6代将軍家宣の弟である松平清武を家祖

4 家康男系のうち、御三家分家(御連枝)10家
 尾張は高須藩など3家、
 紀州は伊予西条など3家、
 水戸は高松、守山など4家

5 譜代大名に松平を下賜 幕末には7系統8家
戸田松平家(信濃松本藩)
松井松平家(武蔵川越藩)
大河内松平家(三河吉田藩、上総大多喜、上野高崎藩の3家)
鷹司松平家(上野吉井藩)
本庄松平家(丹後宮津藩,越前高森藩→廃絶)
柳沢松平家(大和郡山藩)
菅沼松平家(美濃加納藩→改易、旗本に)

6 松平の称号を与えられた外様大名家 10氏19家
 前田氏(大聖寺、富山を含め3藩)
 伊達氏
 島津氏
 毛利氏
 黒田氏
 浅野氏(2藩)
 鍋島氏
 池田氏(岡山、鳥取など7藩)
 蜂須賀氏
 山内氏
江戸末期の尾張屋版江戸切絵図では、例えば前田大聖寺藩は松平備後守、伊達は松平陸奥守、毛利は松平大膳太夫、浅野は松平安芸守、蜂須賀は松平阿波守と書いてある。

以上、押し付けられたような外様大名まで入れれば、全部で63家。

ところで松平姓は徳川幕府が与えたもの。
それゆえ、明治後、外様大名、譜代大名の27家はさっさと元の姓に戻った。
ここで36家が残る。
一番古い十四松平でも大給松平、瀧脇松平、桜井松平など6家は松平姓をやめた。

それでも、明治後も松平を名乗る大名家末裔の華族は30家に及ぶ。
華族にならなかった旗本の松平は数えきれない。たとえば、この夏に訪ねた円通寺でみた幕臣の松平太郎は、岩津松平家の末裔とされる。

・・・・

さて、谷中墓地に戻ろう。
松平家、久松家の墓所からまっすぐ東に、慶喜や一橋家の墓所に行く途中、右側に松平祖先之墓という墓石がある。(乙3号12側)
2021‐10‐29
松平祖先之墓、松平説三・室 道子墓、
松平彦子之墓、などが並ぶ。
信濃に5000石の知行地のあった旗本のようである。

他に松平氏を探せば、谷中墓地の中心の交差点、交番の対角線の一角。
甲3号7側、石黒忠悳の奥のほうに松平俊子之墓という個人墓がある。
しかし、なぜ従六位中澤彦吉之墓の隣にあるか?

横に回ると詳しく書いてある。
俊子は信濃上田藩の第6代藩主松平忠固(十四松平の藤井松平系、1812-1859)の三女。母は側室井上氏。明治7年(1874)7月中沢彦吉に嫁ぎ、37歳で没したという。

また、天王寺から芋坂に至る道の、安立院の真ん前に、柵もなく忘れ去られたような墓石がある。
左の墓石の横には
諱錥西尾氏従五位隠岐守忠受次女
従五位松平信正妻也明治十二年
二月七日病没年二十四有子曰脩
とあった。
松平信正(1852‐1909)は十四松平の一つ形原松平氏、丹波亀山藩5万石の最後の藩主。
のち子爵。
彼は継室・植子をもらったが彼女も病没した(右の墓石)。

ここまで書いて谷中墓地一番の松平氏を忘れていた。
水戸の分家、讃岐高松藩12万石である。
12代当主、松平頼寿は本郷学園の創立者で、ご子孫は駒込に住まわれおり、このブログでも何度か書いてきた。
一橋家墓所(写真右)を過ぎて突き当り、
谷中墓地の南東の隅に420坪という大きな面積を占める。
行ってみてびっくり、更地になっていた。

高松松平家11代、12代を中心に21基あったが、2015年に高松の法然寺に移転したという。
2013年以降はちょくちょく来ていたから写真を撮っておけばよかった。
ここは寛永寺墓地ではなく都立霊園の区画。
一体何になるのだろう?

谷中には、あと
能見松平家、豊後杵築藩3万2千石、第10代藩主・子爵 乙11号6側
大給松平家(分家)信濃小諸藩2万石、松平乗政、美濃岩村藩3万石、松平乗長
の墓があるようだ。


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