3月27日、前日の高知に続き、飛鳥が最後の寄港地、日向の細島港に入った。
細島という地名は飛鳥II乗船の話があるまで知らなかった。
日向市の海側の地名というが、日向も令制国の地名として認識していて日向市という市があることを知らなかった。
小学校だか中学校だかの社会で「新産業都市」というのを習った。私が小学校2年だった1964年に、四大工業地帯から離れた地域の振興を目的として15地域が指定された。(これに関する法律は2001年に廃止され、この言葉も意味がなくなった)
いかにもテスト問題になりそうで、15の地域も覚えさせられた。松本諏訪、八戸、岡山、富山高岡などとともに「日向延岡」というのも覚えている。それ以来、これは日向国の延岡と理解していたが、いま調べたら日向市は1951年に市制を布いているから、日向市・延岡市だったのである。(もちろん先生はそんなことは教えてくれないし、生徒も分からない)
日向市は1951年に富島町(1937年細島町と富高町が合併)と岩脇村が合併してできた。1955年には美々津町を編入している。
これらの町村のうち細島は、明治22年(1889)に町村制が実施され宮崎県が5町95村となったときの5町(宮崎、油津、細島、延岡、都城)のうちの一つだから、かつてはこの地方の中心だったといえる。
その細島は天然の良港で、江戸時代には日向、薩摩、大隅の各藩主が参勤交代の際には、必ず細島港を経由したという。
細島町が細島市にならず、富島町、日向市となった背景には、明治以降、港がかつてほどの重要性をもたなかったことにあろう。
細島と日向について話したついでに明治以前の宮崎県について書いておく。
大分県、宮崎県となる豊後、日向は九州の他の県が黒田、有馬、鍋島、細川、島津の国持大名の領国だったのに対し、小さな藩が分立した。
日向に関しては、都城を中心に大隅側に島津の分家(同じ島津一族の佐土原藩と違い独立していない)がいて、1871年の廃藩置県では延岡県、高鍋県(中央部の海岸沿い)、佐土原県(中南部)、飫肥県(南部)、それと人吉県、鹿児島県の飛地があった。
細島は江戸時代初期には延岡藩領であったがのちに天領となったため、このあたりの天領をまとめてひきついだ日田県に属した。
廃藩置県の同年の第一次統合で日向は北の美々津県と南の都城県の2つとなり、1873年に統合されるも(寒村宮崎に県庁を置く)、しかし明治9年(1876)に鹿児島県に編入されてしまった。強大な薩摩に対して、小藩が分立してまとまりがなかった宮崎県は弱かった。
しかし西南の役で鹿児島が弱まり、明治16年(1883)、分県運動が功を奏し、ようやく独立した。(同時に富山、佐賀が石川、長崎から独立した)
さて細島に戻る。
古くからの細島港は細島商業港で漁港もあるが、狭いため北方に細島工業港と白浜港がつくられた。飛鳥IIは工業港1,2号岸壁についた。
宮崎県公式サイトから
細島周辺の海岸は柱状節理がみられ、これは縦に割れるから深い断崖のような地形ができる。商業港の南の半島には、馬ケ背、クルスの海といった狭く切れ込んだ地形が名所になっている。海辺で天照大神をまつる大御(おおみ)神社には、国内最大のさざれ石群と柱状節理が見られるという。
しかし、この日はあいにくの雨でこれらを見ることは難しい。
飛鳥の無料バスは日向市駅までしか行かない。乗客はせいぜい駅のそばの売店で土産物を買うくらいである。
せっかく宮崎県に来たのだから、電車に乗ってどこかに行こうかと思った。
日向市駅
地図を見ると南に美々津がある。
第一次府県統合で日向国北半分の県名にもなった美々津は、1955年に日向市に編入されるように、細島の南の町だったが、江戸時代から耳川(美々津川)河口の美々津港は高鍋藩の上方交易港として栄えた。
耳川は、延岡から高千穂にのぼる五ヶ瀬川のように、深く九州山地に入り込んでいて、神武東征は美々津から船出したという伝承がある(ただし記紀に美々津の記述はない)。
そのため1940年、紀元2600年記念行事として、海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社の主催で、おきよ丸(神武が出征の日に寝ている部下たちを起きよ起きよ、と起こした伝承から)が建造され、美々津から大阪中之島まで航海し橿原神宮に神楯を奉納した。さらに1942年、「日本海軍発祥之地」碑と錨の像が立てられた。占領期に碑文が一部進駐軍に破壊されたが、現在は修復されている。
宮崎県・日向は神話の国だ。
記紀には天照大御神の孫(天孫)の邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天ヶ原から降りたことになっている。降りた場所は古事記では「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)」、日本書紀では「日向の襲(くまそ)の高千穂峯」である。高千穂は日向に2つある。最北端の高千穂峡と最南端、霧島連山第2峰の高千穂峰だ。どちらかはわからない。いっぽう日向(ひむか)は今の宮崎県で間違いなかろう。太陽に向かっている国というのは九州の中心から見た話で(畿内や関東から見たら伊勢や常陸がヒムカになろう)、高天原が九州にあったことを思わせる。
神武天皇(即位前はカムヤマトイワレヒコ)はニニギノミコトのひ孫にあたるから、高千穂がどこであっても3代もあとの彼のころは日向一円に勢力が広がっていただろう。美々津から出航しても不思議はないが。
しかし、ちょっと神話の時代は古すぎて、南の美々津に行っても面白いかどうか。
いっぽう北には延岡がある。
これは有名である。
電車で22分。こちらに行った。
(別ブログに書く)
延岡は旭化成と内藤家の延岡藩が有名である。
知識として知っているのと実際に街を歩いたことがあるのとは全然違う。慌ただしくも、もう二度と来ない地を歩いて満足して列車に乗り、日向市に戻り船に帰った。
飛鳥は17時ころ細島港を出港。
再び細島港について書く。
宮崎県には港湾法で指定された全国102の重要港湾のうち、3つがある。
細島、宮崎、油津である。宮崎は明治になって県庁がおかれるまで寒村であったから歴史はない。
油津(今の日南市)は、江戸時代、伊東氏飫肥藩の支配地となり、飫肥杉の積出港となった。また沖の日向灘は船の難所であったことから、油津で風見のため滞在船が多く、湊町としてにぎわった。
宮崎県の公式サイトで
トップ > くらし・健康・福祉 > 社会基盤 > 河川・砂防・港湾 > 港湾 > 宮崎県ポートセールス協議会、細島港、宮崎港、油津港 > クルーズ船寄港情報
にクルーズ船の3港への寄港実績、予定がある。
令和6(2024)は
細島 にっぽん丸、飛鳥II、バイキングエデンなど5隻のべ9回。
宮崎 にっぽん丸、のべ2回。
油津 オイローパ、ウェステルダム、クイーンエリザベス、MSCベリッシマ、飛鳥IIなど9隻で9回
令和7年(予定)
細島 バイキングエデン、飛鳥II、三井オーシャン富士、4隻11回。
宮崎 にっぽん丸、1回
油津 ノールダム、ダイヤモンドプリンセス、アイーダステラ、MSCベリッシマなど10隻15回
恐らく宮崎港はにっぼん丸以上の大型船は入れないのだろう。
細島、油津とも宋、明との貿易の寄港地として栄え、倭寇の拠点にもなったと観光情報(ネット)で言われるが、これはどうか。京都大阪と中国の間の航路は瀬戸内海から北九州であるから大きく外れている。港内から中国の陶磁器、貨幣などが発見されているのは、北九州からの再分配ではないか?
今、両港は太平洋に直接面し、日本国内と東アジアをつなぐ航路の経由地になっているため、輸入ではFIRSTPORT、輸出ではLASTPORTとして機能しているようだ。
17:29
細島港から日向灘に出た。
宮崎県は、1990年4月3日から5日、宮崎大学(宮崎医大?)で日本生理学会があり、関野祐子さん野坂さんと市内からタクシーで青島に行き、帰りにうどんを食った。しかし33歳、宮崎とはどういう県か、などとは考えもしなかった。もう二度とこの県にはいかないと思っていただけに、いい機会をもらった。
2025₋03₋27 17:30
日向枇杷島灯台そば
この日は船が揺れた。
ダンスタイムの遅番で、仕事が終わると24時。
疲れていたので風呂は翌朝入ることにして即眠った。
3/28 朝食後、風呂に入る。
露天風呂は誰もおらず、天気も良かったが海だけ見ている習慣もないので普通の大風呂に戻り頭を洗って出た。
体重計に乗るも、依然として波が荒く、船が揺れるから体も揺れ数字が一定しない。
この日は太平洋をひたすら東に向かう。
3/29 朝、横浜入港。
(続く)
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