3月27日、飛鳥IIが日向、細島港に入港し、ひとり電車に乗って延岡まできた。
九州のICカードはSUGOCA(スゴカ)だが、このあたりはまだ有人改札。
駅舎は日向市駅同様、まだ新しい。古い駅舎を見たかったな。
日豊本線の建設はなんとなく小倉から南に伸びていったように思ってしまうが、それは北のほうだけである。大分県佐伯の南、重岡駅から南は、宮崎本線として鹿児島県吉松駅から順次伸びていき、都城(1913)、宮崎(1915)、高鍋(1920)、美々津(1921)と北上してようやく1922年延岡駅が開業した。さらに北に延び、大分県重岡駅とつながって延岡から小倉に出られるようになったのは1923年である。
鹿児島、熊本などと比べ宮崎県の鉄道は遅い。県内で最初の駅が1913年というのは全国で一番遅い。
宮崎ばどげんかせんといかん、という流行語を思い出す。
そもそも延岡は内藤氏7万石の城下町として日向北部の中心都市だった。
廃藩置県で藩の領域だけ延岡県となったが、その直後の再編成(第一次統合)によって、南の佐土原県、高鍋県などと統合され、明治4年(1871)、日向の北半分を占めた美々津県になった。そして1年3か月後、さらに南部の都城県と一緒になって宮崎県ができ、延岡はかつての寒村だった県庁所在地・宮崎から県内で最も遠い、北端の地方都市になってしまった。
さらに明治9年(1876)宮崎は南の鹿児島県に編入されてしまった。明治の顕官を輩出した強大な薩摩に対して、小藩が分立してまとまりがなかった日向は弱かった。明治16年(1883)宮崎県はやっと鹿児島から独立したものの、延岡は力のない県のさらに辺境に位置する町となった。
延岡ばどげんかせんといかん、と思ったかどうか、
戦後は旭化成を中核として県内屈指の工業都市となった。
2006~2007年の北川町、北浦町などとの合併で市域が大分との県境まで広がり人口は11万8千人を数える(2020)。
さて、駅に立ち、まずはバスで延岡城に行ってみた。
(別ブログ)
駅についてから1時間、城山についてから30分も経たないうちに北大手門から出た。
ひとりだと見物も速い。
12:16
城山のふもとに野口遵記念館がある。
遵は法令遵守のジュンだからシタガウかジュンか。
野口遵(したがう)は、旭化成の前身、日本窒素肥料株式会社(現チッソ)の創業者である。延岡は旭化成の企業城下町。
恐らく旭化成がスポンサーとなっていて無料だろうと入ってみた。
12:20
平日でもあり、ほとんど人はいない。
写真左は野口遵を顕彰するギャラリーとなっている。
旭化成が創業30周年を記念して建て、従業員だけでなく広く延岡市民に対して音楽や舞台芸術などに親しむようにと、当時としては最新の施設を延岡市に寄付した。しかし60年以上たって老朽化がすすんだため、旭化成から30億円の寄付を受け建て替えられたもの。
12:21
ゆったりしたテーブルで女性ばかり何人かお弁当を食べている。
ここは「交流スペース」で使用料は1平米あたり1時間5円、ゆったりした一区画30平米が150円だから安い。しかし何も知らない私はただで座って休憩してしまった。
戻って野口遵ギャラリーに入ってみた。
野口遵(1873- 1944)は明治6年、金沢の士族の家に生まれた。
生後20日で東京に移転、東京府中学(現日比谷高)、第一高等中学を経て1896年帝大工学部電気工学科を卒業した。
郡山電灯、シーメンス東京支社を経て1902年、29歳の時、宮城県三居沢の宮城紡績電灯で、藤山常一(1898東大電気工学科を卒業)とカーバイド製造事業を始めた。
当時の電灯会社というのは電灯の装置を販売するのでなく、電力会社であり、水力発電所を作って電気を供給する会社だった。シーメンスは発電タービンを販売、設置していた。
そしてカーバイトは炭素と陽性元素の化合物の総称だが、一般には炭化カルシウムすなわちカルシウムカーバイトCaC2のことで、アセチレンガスの原料となる。CaC2 +2H2O → C2H2 + Ca(OH)2 である。
さて、カーバイトの合成は CaO+3C→CaC2+CO だが、製造には大量の電力を必要とするため(電気炉でコークスと生石灰を2000度に加熱)、そのため発電所を必要とした。日本では製造できずほとんどを輸入に頼っていた。
そこで野口は
1906年、33歳の時、鹿児島県の大口に曾木電気(株)を設立。曽木水力発電所を開いた。
1907年、日本カーバイド商会を設立、熊本県水俣でカーバイドの製造を始めた。
1908年、曾木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料株式会社を設立した。
後のチッソである。
ここで、なぜ電気とカーバイトから窒素肥料だったか?
カーバイドは窒素と反応し、カルシウムシアナミドを生じ(CaC2+N2→CaCN2+C)、これは青酸CNの原料となっていた。ところが1901年、カルシウムシアナミドは土壌中でアンモニアに変わることがわかった。つまり窒素肥料としての新しい用途が生まれた。それまでの窒素肥料はチリ硝石(NaNO3)が原料だったが、世界人口が増えるにつれ枯渇、すなわち食糧危機が心配されていた。
日本ではカルシウムシアナミドを石灰窒素と命名し、1906年に優れた肥料効果が国内でも発表された。この年、1906年からイタリアで肥料として工業生産も始まり、1907年には日本もそれを輸入した。
曾木電気の電力によるカーバイト製造を軌道に乗せていた野口が注目するのは当然であった。1908年に設立した日本窒素肥料株式会社は、出資の関係から大阪商船社長の中橋徳五郎が会長となり、野口は専務、宮城県以来の藤山常一は常務となり、1909年から水俣工場で石灰窒素の製造を始めた。これは世界的に見てかなり早い展開といえる。
翌1910年には石灰窒素から硫安を作るため大阪に工場を建設した。
石灰窒素が普及し始めたころ、正しい使用法が伝わらず、植物に薬害が出た。そのため硫安に変換したのだが苦肉の策であった。
子どものころ、父親が畑に石灰窒素を蒔いていたのを覚えている。主成分のカルシウムシアナミドは白色だが、炭素が混じっているから灰黒色で、独特の臭いがした。毒だから吸うなと言われた。実際有毒である。
1923年には延岡工場が完成、ここでカザレ―法によるアンモニアの合成を開始した。
世界では1906年にドイツのハーバー、ボッシュが空気中の窒素と水素を直接反応させアンモニアを作ることに成功した。1913年にはボッシュ率いるBASFの研究陣が工業レベルでの合成に成功。これは世界中の農業生産高をあげたということで、人類が成し遂げた発明のうち最大のものの一つである。
その後の第一次大戦でドイツが負けたため、賠償金のほかに知的財産も戦勝国に渡ることになり、特許や技術が無償供与の対象となった。その結果、ハーバー・ボッシュ法が普及し、その改良が各国で進んだ。イタリアではカザレー法が生まれ、これは750気圧という高圧(ハーバーボッシュ法は150₋200気圧)だから、N2+3H2→2NH3という反応は右に進みやすく、収率が良い。
空気中の窒素からアンモニアを作る方法はハーバー・ボッシュ以前にアーク放電法があり、野口も石灰窒素合成成功のあと1913年に導入したが、これは大量の電気を消費した。そこで、このカザレー法の特許を買って延岡でアンモニア合成を始めたのである。
空気中の窒素分子は安定だが、アンモニアにすれば容易に他の窒素化合物に変換できる。もちろん肥料は人類にとって最も重要なものだが、硝酸に変換すれば爆薬の原料になる。これは人類よりも国家にとって重要なものだった。
さらにはセルロースを硝酸と反応させると絹のような光沢ある繊維となる(人造絹糸、ニトロセルロース)。またセルロースを銅アンモニアに溶かし、そこから繊維を再生させると吸湿性の優れたベンベルグ繊維ができる。
野口は1922年大津市膳所で旭絹織株式会社を、1929年延岡に日本ベンベルグ絹糸株式会社、1931年延岡アンモニア絹糸株式会社を設立した。1933年3社は合併し旭ベンベルグ絹糸株式会社となる。また爆薬については、硝酸を利用して1930年に延岡近郊の東海村に日本窒素火薬株式会社が設立され、1943年には旭ベンベルグ絹糸と合併し、日窒化学工業株式会社という大会社となった。
(これらは戦後の旭化成の母体となる。旭は旭絹織からきているが、膳所の近くに旭将軍木曽義仲の墓があるからという。日が昇る延岡日向の会社名にふさわしい)。
戦後石油を中心とした石油コンビナートが各地にできたが、これら延岡の会社群は窒素コンビナートとでも言おうか。肥料部門も加えた野口の会社群は日窒コンツェルン、野口財閥と呼ばれた。
野口財閥は戦後解散させられたが、その後継会社が新日本窒素肥料(のちのチッソ)、旭化成、積水化学、信越化学などである。
旭化成というと宗兄弟や谷口のマラソンだが、私はもう一つ思い出がある。
50年以上前の1970年代前半、高校生のころクラブ活動が18時に終わったが、飯山線は電車がなく、乗る電車は決まっていたから家に着くのは必ず19:35だった。月曜から金曜まで毎日、「クイズグランプリ」をやっていて「文学歴史の50」などという声を聞きながら遅い夕飯を一人で食べ始めると、19:45から「スター千一夜」が始まる。このゴールデンタイム15分の帯番組は旭化成が単独でスポンサーになっていて、おしゃれなCMソングが毎晩流れていた。
「旭化成のやってる事はカシミヤタッチのカシミロン、さわやかさわやかベンベルグ、エステル、ナイロン、アンダリア、ミタス、そのほかエトセトラ~。
(2番) アサヒカセイのやってる事は、せせせの石油をチキチキコン、カメノコひねってぱぱぱのぱ、たてて走って、すどんどん、明日のおひさまワチニンコ~」
旭化成はコンツエルンの繊維部門が独立したのだが、戦後は多角化し、2番の歌詞にあるように、サランラップなど高分子やエレクトロニクス、医薬品にも進出した。富久娘の東洋醸造なども傘下に持ち、ここ自体がコンツエルンの様相を呈した。
ノーベル賞を受賞した吉野彰氏は旭化成の研究員で定年退職した後も2020年まで名誉フェローとして在籍した。受賞対象がリチウム電池だったことでも旭化成の多角化がわかる。
12:34
ロビーに野口遵の像があった。
裏口から入って正面玄関から出ることになった。
加賀藩の士族の家に生まれ、明治の東大工学部で化学を学び、実業界で成功したというと高峰譲吉を思わせる。
野口というと子供が読む伝記の影響もあってほとんどの人は野口英世を思うが、その業績と後世への影響の点では野口遵のほうが大きいと思う。
12:34
野口記念館正面
廃藩置県後眠っていた延岡は、1920年の五ヶ瀬川電力(株)設立、1923年の延岡工場の完成で目を覚ました。時を同じくして駅が開業(1922)、日豊本線が開通(1923)した。延岡町・恒富村・岡富村は合併(1930)、市制施行(1933)。これらと歩調を合わせるように日本窒素肥料、日窒化学系の工場が次々と建設され、大正11年(1922)に2万3千人ほどであった人口は、昭和14年(1939年)には9万1千人を数え、宮崎県内最多の人口を有する都市となった。
1951年頃は人口の約半数、市税納入額の3分の2、市議会議員の3分の1が旭化成関係であり、内藤城下町は「企業城下町」となって栄えた。
12:36
野口記念館の向こうに城山。右は延岡市役所。
雨が降ってきたが駅まで歩く時間はある。
急ぎ足で五ヶ瀬川を渡る。
この五ヶ瀬川は標高差が大きく発電に適しており、またダムのある山間部から遠くないところに人口の多い平地があって工場建設に適していたということがあろう。主力工場の水俣と同じ九州ということもある。
城山の銅像にもなっている延岡藩最後の藩主、内藤政挙が明治43年(1910)延岡電気所(1924に株式会社化)を設立したことも日本窒素の工場誘致の呼び水になったとされる。
12:43
板田橋からの通りは歩道に屋根がついている。
しかしひと気があまりない。
企業城下町ということは、企業の景気によって町の盛衰が左右されるということだ。旭化成の経営戦略により延岡の比重は次第に小さくなったこと、大消費地から遠いこと、更には化学工業が窒素化学から石油中心となったことから戦前ほどの経済力はなくなり、人口も1982年を境に減少している。
12:47
坂田橋からまっすぐ歩いてくるとアーケード商店街があった。
車が通らないためますますひと気がない。
1つ書き忘れた。
野口コンツエルンの創業会社の日本窒素肥料についてもう少し書く。
1909年から水俣工場でカーバイトから石灰窒素の製造を始めたことはすでに書いた。
1931年水俣工場の技術者らは、カーバイトからできるアセチレンをアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明した。さらにこれらを原料としブタノール、酢酸、酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功、社名にある窒素も肥料も離れて総合化学会社に脱皮した。
戦後、財閥解体によって、旭化成などは分離し、新日本窒素肥料株式会社として発足。
1965年、ようやく社名から肥料をとり、かたかなのチッソ株式会社に変更した。
ここでチッソと言えば水俣病である。
この会社は消費者製品を作っているわけではないから一般人はこの公害についてのみ社名を記憶している。
水俣の奇病は1956年公式に確認され、1958年には水俣病と命名された。1968年厚生省は原因を新日本窒素肥料~チッソの工場が出す廃液のメチル水銀と正式に認定した。会社はアセトアルデヒドの合成やアセチレンの付加反応に金属水銀や塩化水銀を触媒として使っていて、廃液にそれらが混じっていた。
私がこれらを学んだのは薬学に進学した1970年代終わりころだろうか。
その後チッソのことは忘れていたのだが、1993年1月、皇太子妃に小和田雅子氏が内定したことで、ちらりとチッソが話題になった。すなわち、雅子さまの母・優美子氏のほうの祖父・江頭豊が水俣病の原因となったチッソの社長、会長を務めたことを問題にした。しかしこれは1962年水俣病問題と労働争議で経営不振に陥っていたチッソへメインバンクだった日本興業銀行から専務として送り込まれたからである。
ちなみに江頭豊の父は江頭安太郎で、海城学園を創立した古賀喜三郎の娘婿である。古賀は薩長土肥のなかで肥前出身者が活躍しないことを嘆き、故郷佐賀出身で最も優秀だった海軍軍人の江頭安太郎に娘を嫁がせ期待した。彼は海兵、海軍大学校ともに首席で卒業し将来の連合艦隊司令長官、海軍大臣間違いなしと言われた逸材だったが中将のとき早世した。また、母方の祖母(すなわち江頭豊の妻)・寿々子は海軍大将・連合艦隊司令長官だった山屋他人の娘である。(このあたりは江藤淳「一族再会」に詳しい)。つまり雅子さまの母・優美子氏の2人の祖父は、二人とも帝国海軍の逸材だった。
チッソは2011年、事業継続会社としてJNC株式会社を設立、チッソは水俣病の補償業務を専業とした持株会社となった。ところでJNCは何の略だろう?
Jはジャパン、Cはケミカルズ、ケミストリー、カンパニーいろいろある。Nはチッソの英語、Nitrogenしか思いつかない。戦前から窒素を離れた総合化学メーカーだったのに今更なおnitrogenにこだわるかと思って、正解をウィキペディアに求めたら、略ではなく、「ジェー・エヌ・シー」が正式社名だという。Japan New Chissoの意味も込められているとか。
延岡発13:24の電車にのった。
線路から旭化成の工場群と紅白の煙突を見たかったのだが、いい町だったな、と地図を見ているうちに次の駅まで行ってしまった。
はっとして調べたら延岡にも30分ごとに110円というレンタサイクルがあった。坂道もらくらくな電動である。これを使えば旭化成の工場も延岡城西ノ丸も行けた。
(クルーズ船の旅、これで終わり)
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