飛鳥IIが高知の翌日、3月27日、日向、雨の細島港に入港した。
周辺には(こちらに知識がないから)面白そうなものが見つからない。
そこで日向市駅から電車にのった。
(日豊本線は高知県の鉄道と違い全区間電化されている。)
北に向かって延岡まで22分、560円。
日向市駅同様、改札は有人。
延岡は内藤氏7万石の城下町として日向北部の中心だった。
しかし明治になって宮崎県になると県都から大きく離れた地方都市となった。それでも工業都市として発展し、戦後は日向延岡として新産業都市15地域の一つに指定されたことは前のブログに書いた。
雨は上がった。
さて、まずは延岡城に行ってみる。
街を見ながら歩いて行きたいが、時間があまりないし、夜のダンスに体力をとっておかねばならない。バスに乗ることにした。
11:26
まちなか循環バス(しろやま号)200円
関東自治体のコミニティバスと違って普通のバスだった。
乗客は私を入れて二人。
五ヶ瀬川を渡って、教えられた中央通り二丁目というバス停を降りるとき、運転手さんはお城への道を指さして教えてくれた。
その道を西に歩くと城山の南東隅にぶつかった。
後ろに鐘楼がある。
11:47
城山周辺
北東には市役所、裁判所、野口記念館などがある。
少し離れた西の丘に内藤記念博物館がある。これは歴代藩主が住んだ西の丸の跡らしい。
歴代延岡城主が列挙されていた。
最も重要な事柄が箇条書きになっていて、これほど情報が十分で、分かりやすい碑はあまりない。
書こうと思っていたことが必要十分に碑文になっている。
追加で書けば、
最初の高橋氏は豊前の武将で秀吉の九州征伐で降伏し、延岡に5万3千石で封ぜられた高橋元種のこと。しかし1613年改易。
続く有馬氏は、同じ九州の久留米21万石の国持大名・有馬氏(摂津有馬氏または赤松有馬氏という)とは関係なく肥前有馬氏の流れ。キリシタン大名として1582年に大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣した有馬晴信の家である。関ヶ原で東軍に与したので肥前高来郡などの本領4万石を安堵された。
1619年、延岡に5万3千石で加増転封されたが、しかし1692年、有馬清純の代で藩内の一揆の責任を問われ越後糸魚川へ、続いて越前丸岡に転封され、有馬氏は丸岡で明治を迎えた。
3番目は三浦氏。
三浦といえば、坂東八平氏の一つで相模を根拠地とした名族。一時は鎌倉幕府内で大きな力をもったが後に執権北条氏によって滅亡した。その末裔といわれるがよく分からない。
元禄5年(1692年)、譜代大名三浦明敬が下野国壬生藩より2万3000石で入封し、以後日本最南端の譜代大名藩となった。
この三浦氏は幼少のころ家光に近侍し下総矢作で780石を与えられた三浦正次を藩祖とする。のち1万石まで加増され大名となった。
他の譜代大名のように関ヶ原以前から徳川氏の家臣だったわけではない。しかし側近としての家であるため譜代大名として扱われる。
(ちなみに関ヶ原の2年前の1598年、家康に3000石で召し出された三浦為春は家康の十男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられたことから、のち、紀州徳川頼宣の家老となり1万五千石を領した。)
道なりに城山をあがっていこうとすると、東側から北側に回り込んだ。
平日だからか誰もいない。
11:51
石垣はいつのものか、新しい。
11:52
三の丸の跡を過ぎてさらに登ると見晴らしのいいところに出た。11:54
三階櫓跡
延岡城は天守閣がなかった。関東周辺の譜代大名の城でよく見られた天守閣代用三階櫓と同じで、ここでも三階櫓が一番大きな建物だった。
三階櫓跡からの眺め。
左下に市役所。
左から五ヶ瀬川、右から大瀬川が来て合流し日向灘にそそぐ。
といいたいところだが、合流せずに接したまま進み、北から来る祝子川、北川とともに海に入る。
11:56
天守台跡
天守閣は作られなかったが、台だけある。
赤穂城などもそうだったが、幕府に遠慮したのか金がなかったのか。
前々日、前日と続けて訪ねた同じ平山城の姫路、高知城と同様、本丸、二の丸、三の丸が一つの山にあって濠で分かれていないから区別しにくい。この一段下の三階櫓は三の丸ではなく、本丸のようだ。
11:57
天守台跡から南東方向を見る。
大瀬川の向こうの紅白の煙突は旭化成の工場のようだ。
11:58
先ほどの三階櫓跡からの眺めと同じ方向。
より高いところから見たので、五ヶ瀬川(左、坂田橋)、大瀬川(右)、合流点がみえる。
年配の男性がいらした。足元の時計を見ておられる。
鐘の歴史でも記すような立派な看板に「お願い」が書いてあった。
天守台からおりた本丸は芝生で広々して銅像が立っている。
11:58
「お願い!
鐘撞堂まで登って来ていただきありがとうございます。城山の鐘は1878年から「時を告げる鐘」として市民に親しまれております。定時(6時、8時、10時、12時、15時、17時)以外の鐘は市民に混乱を与えますので、来園者の皆様には鐘を撞かないようお願いいたします。
延岡市都市計画課」
明治11年から時報代わりということで、何万という人々が毎日欠かさず聞いてきたことを思うと、何か、歴史建造物や伝統芸能よりも貴重なものにみえてきた。
鐘をついているときは話しかけたり写真を撮ったりしないで下さいという注意書きもあったので、スマホは向けられず、反対方向を見たら鐘の説明パネルがあった。
12:00
この鐘は、戦時中金属として供出しなければならなくなったとき、空襲警報のサイレンが故障したときの代用として必要であると要望し、何とか供出を免れたとか。
昔の写真を見ると、主婦や子供たちが撞いている場面がある。
読んでいたら背中のほうで鐘が鳴った。
12:03
内藤政挙公像
延岡藩内藤家の第8代(最後)の藩主。内藤家宗家として13代。
延岡藩について書き始めたが、三浦家で止まっていた。
三浦氏は一代限りで、1712年、三浦明敬は三河・刈谷藩に転封となった。
つづいて三河・吉田藩より牧野成央が延岡城歴代最高の8万石で入封した。日向国内のみならず豊後国大分郡・国東郡・速見郡をも領有した。
牧野氏は東三河を本拠地とし、戦国末期から松平(徳川)に仕え、江戸時代には門閥譜代として多数の大名・旗本家を分出した。大名としては幕末の時点で、長岡、常陸笠間、小諸、三根山、丹後田辺の5家もあった。維新後、牧野の5家はいずれも子爵となった。
延岡の牧野は2代目が常陸笠間に転封となり、代わって1747年、陸奥国・磐城平藩より内藤政樹(まさき)が7万石で入封した。内藤家は上総佐貫で立藩し、1622年から磐城平で6代続いたが、延岡に来てそのまま明治を迎えた。
内藤とは「内舎人(うどねり)の藤原氏」の意味で、全国的にいた国人、守護代は藤原氏の秀郷流とされる。甲斐の内藤氏で有名なのは信玄の家臣、武田四天王の一人とされた内藤昌豊で、長篠で戦死した。
江戸時代に大名となったのは、三河の内藤氏で、戦国時代から家康に仕え、幕府成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩、越後村上藩の譜代6大名が明治を迎えた。内藤新宿は高遠藩3万石の四谷中屋敷の一部を幕府に返上させて、宿場町を作ったことによる。
12:06
本丸から降りて振り返る
延岡は、三浦、牧野、内藤、と譜代大名が城主をつとめた。これはおそらく中津の奥平、小倉の小笠原といった譜代大名と同じく、九州の外様大名の監視であろう。
関ヶ原で西軍についた大名は多くが大幅に減封されたり潰された。いっぽう東軍についた者は所領を安堵されたものから土佐山内や安芸浅野などのように大幅加増で大大名になったものまで出た。すなわち江戸時代の大名は東軍に着いたものが圧倒的に多く、彼らは幕府に対して恩があった。
しかし島津などは幕府に恩はない。4分の1に減らされた毛利なども恨みこそあれ恩はない。彼らは徳川が影も形もなかった鎌倉時代から続く名門であり、恭順を装っていても、幕府からしたら油断ならない存在である。
また関ヶ原で東軍についた外様大名も徳川の部下ではない。徳川家は全国の大名の集合の(圧倒的)最大というだけである。ほかの大名は単に、戦っても勝てないから従っているだけである。しかし連合したらどうだろう。
だから牽制、監視の意味で信頼できる譜代大名を近くに置いたのではないか。譜代大名というのは先祖代々徳川家の家臣というか部下であり、大名と言えど使用人のようであったから将軍に代わって徳川の家を切り盛りした。
幕府はよく公儀と言われるが、将軍の私物であり、幕府を動かす人間は当然将軍家の部下すなわち譜代大名でなくてはならない。豊臣時代の五大老、五奉行とは全然違う。
12:07
本丸(右の石垣の上)から二の丸に降りる途中
譜代大名の多くは関ヶ原以前から徳川の家臣だったものが1万石以上の領地をもらって大名となったものだが、この典型は三河の松平時代からの家臣である。
この三河衆に対し近国衆という譜代大名もいる。つまり、今川氏旧臣の井伊氏・岡部氏、武田氏遺臣の土屋氏・柳沢氏、信濃領主だった保科氏・諏訪氏・小笠原氏(旧守護)といった譜代大名である。
ちなみに譜代という言葉は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系を指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜代の臣」と称した。だから譜代大名というのは、「徳川氏の譜代の家臣であった大名」ということになる。
他にもある。家光の三浦正次、吉宗の大岡忠相、9代家重の田沼意次のように将軍の側近となって出世して大名となったものも譜代大名である。
つまり、譜代大名の定義は、外様、親藩、およびそれらの支藩を除いた家ということになる。
12:08
二の丸からみた本丸の石垣
12:09
「千人殺しの石垣」という。
礎石の一つを外せば、石垣が崩れ敵兵1000人を殺すことができるという。しかし戦闘中に数人で動かせるような石で支えた石垣など、雨や軽い地震で崩れてしまうだろう。もっとましなネーミングはなかったものか。
12:11
どれを外せば石垣が崩れるか、見てわかるわけがないし、あるはずもない。
1000人殺しよりも毎日1000人の人足を使って積んだとする「1000人泣かせの石垣」などのほうがもっともらしく、また見事さを表せる。
12:12
北大手門から出た。
続日本100名城の一つという。財団法人日本城郭協会が2006年の日本100名城に続いて2017年に定めた。曲輪の保存状態や全体の雰囲気は100名城に入れたいが、日本は城がいっぱいあるから仕方がない。
ちなみに九州の日本100名城は
福岡、 大野(古代山城)、名護屋、 吉野ヶ里遺跡、佐賀、平戸、 島原、 熊本、 人吉、大分府内、 岡、 飫肥、鹿児島の13。
また、続日本100名城は、
小倉、 水城(古代山城)、久留米、 基肄(きい、古代山城)、 唐津、 金田(かなたのき、朝鮮式)、福江(海賊)、原、鞠智城(くくちのき、古代山城)、八代、中津、角牟礼城、臼杵、佐伯、延岡、佐土原、志布志、 知覧の18であるが、我々がイメージする濠や石垣をもった近世の城郭としては、小倉、 久留米、 唐津、 福江、原、八代、中津、臼杵、佐伯、延岡の10城である。
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20250521 日向市と宮崎県、美々津、細島港
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