2023年3月1日、練馬区役所に地図をもらいに行ったとき、ロビーに
「牧野富太郎博士 NHK連続テレビ小説のモデルに」
という垂れ幕があった。
山形余目駅に行ったとき
「維新の魁、清河八郎を大河ドラマに」
という幟があったが、「を」という助詞のあるなしでだいぶ意味が違う。
練馬区役所のはお祝いの垂れ幕で、翌月から半年にわたりNHKの朝ドラ「らんまん」が始まった。
その後、谷中墓地で牧野の墓を見たこともあり、練馬の牧野記念庭園に行ってみようかと思ったが、ドラマ放映中は混んでいるから、と行かなかった。
秋にドラマは終わったが、関心もなくなった。
2年後の今年3月に高知に行ったとき地図で高知県立牧野植物園・牧野富太郎記念館というものを見たけれど行かなかった。
ところが先月、大学時代の研究室にいらした恩師のひとり、秋山敏行先生を田園都市線・鷺沼のお宅にお邪魔した。秋山助教授は三川教授とともに柴田承二門下であったが、教授と年が近かったため三共に転出した。卒研を指導していただいた妻と40年近く前に中野区鷺宮のお宅をお邪魔したころは、三共の醗酵研で東南アジアやアマゾンにしばしば植物採集にいっていらした。定年退職後はアメリカで研究費をとって活動され、その後、今度は高知の牧野植物園に移られた。
レストラン茶寮游旬で豪華なフルコースランチをごちそうになっているときに牧野植物園・記念館の話も少し出て、再び練馬にある牧野の旧居跡のことが頭に浮かんできた。
10:02
大泉学園駅南口
開放的で、いかにもJR中央線や西武線沿線の駅という感じがする。
駅舎の古い京浜東北線や東上線、あるいは駅前広場の無い京成や京急、また、山や谷が迫る小田急、田園都市線の駅とは違った雰囲気。
ペデストリアンデッキから地上に降りる階段を探していると親切なご老人男性がスーパーの中を通れば降りられると教えてくれた。
10:04
駅前ビルのスーパー
いつも思うのだが、山手線から西に離れた駅というのはスーパーがおしゃれ。ケーキやパンなどもおいしそうで、団子と煎餅しかない谷根千とだいぶ違う。
驚いたのはエスカレーターで一階に降りると、そこも二階と同じようにきれいな食品が豊富に並んでいた。
家々もゆったり、緑も多いし、暮らしやすいだろうな、と思う。
10:10
練馬区立牧野記念庭園
「記念館」の庭ではなく「記念庭園」である。
ボランチアの人なのか練馬区の職員なのか、係の人がとても多く、管理もしっかりしている。
入ると正面にいきなり大きな松が目についた。
右手に管理室と講習室。講習室では植物関係のビデオを流していた。左手のキッチンカーでは「ご長寿コーヒー」の幟。訪問者に老人が多いせいか、あるいは94歳まで生きた牧野にあやかっているのか。
それらを素通りして木々の間を進むと蔵のような建物がある。覆堂になっていて中に古い小屋があった。牧野が実際に使っていた書斎と書庫を再現する展示だった。
10:15
1926年(大正15年)、東京から北豊島郡大泉村に来てから最初の書斎は二階だったが、重さで玄関の障子が曲がり、床に穴が開いた。ついで一階に移ったがだんだん家がガタピシし始め部屋の戸がしまらなくなった。そこで戦後になって庭に小屋を建て書斎と書庫を移した。
10:17
「博士はいま・・・」という緑の行き先板に
「庭へベニガクを見に行きました」と書いてある。
広い庭で、しかも植物で見通しがきかないから植込みの場所まで書くのかな、と思ったが、よく考えれば博士はあちこち移動して最初の場所にいるはずはない。
10:18
書斎を覗けば、植物関係以外にもいろんな本がある。
「出スベキ手紙」の箱の下に「万葉集古義」の全集、古事記、盛京通志(満州の地誌)などもある。
明治44(1911)年に中山太陽堂が発売した「クラブ美身クリーム」の空き箱のふたに植物標本が入れられて雑に置かれている。まるで博士が生きていた時そのままのように見えるが、じつは空っぽだった廃屋に中身を詰めて再現し、2023年に公開したのだというから芸が細かい。
10:21
面積2576平米
10:22
銅像の周りの笹はスエコザサ。
昭和2年(1927)発見した新種の笹に、翌年55歳で病没(子宮がん)する妻・寿衛の名をとってスエコザサ(学名:la ramosa var. suwekoana)と名付けた。寿衛は、牧野の下宿先の神田小川町から本郷に通学する途中にあった和菓子屋の娘で、1887年ころ結婚してから下谷根岸の御隠殿跡の家で暮らし始めた。
(それにしても、かつて朝ドラは将来性ある大型新人を発掘してきてヒロインにしたものだが、このころから浜辺をはじめとして、上白石萌音、趣里、橋本環奈、伊藤紗莉、今田美桜など、すでに売れている人を使うようになった。大河ドラマで主役をベテラン俳優よりも松潤、吉沢亮、横浜流星など若者にも人気のある俳優に変えていったのと時期を同じくする)
牧野は天性の画才に恵まれた。
牧野記念庭園をあとにして石神井公園に向かうとすぐ、学校があった。
なおも南に歩くと森に囲まれた広い敷地の施設があった。
ひと通り園内を周って、展示のある記念館に入った。
年表がある。
牧野(1862- 1957)は、文久2年、高知県高岡郡佐川町で生まれた。
のち、高知市内の寺田寅彦(1878 - 1935)旧居の石碑の題字を書いているが、寺田より16歳早く生まれ、22歳遅く死んだ。生前互いに尊敬していたという。
牧野の生家は「岸屋」という酒造業を営む裕福な家で名字帯刀も許されたというから郷士身分だったか。
寺子屋や塾で漢学、洋学を学んだため、新しくできた小学校の授業に嫌気がさし不登校、中退。その頃から植物に興味を持ち、独学で学んだ。
19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子ら2人を伴い初めて上京した。
今回、これを書きながら初めて知ったのだが、牧野は最初に上京したころ、いとこで幼馴染、許嫁だった山本猶と祝言をあげた(これが結婚かどうかは不明)。しかし1884年22歳の時、本格的に植物学を学ぶため猶を置いて再び上京。実家の若女将となった猶は岸屋が傾くほど求められるまま金を工面して送ったが、3年後の1887年12月ころ牧野は一目ぼれした壽衛(14歳)と結婚した。
(猶のことは区立記念庭園の年表にあったかどうかは分からない。ああいうところはきれいな話しか残さない)
10:32
牧野式胴乱、竹の標本、ドイツ製顕微鏡
胴乱は、メイクに使う練り白粉(おしろい)・ドーランの当て字であることもあるが、日本古来の小型のかばんの呼び名である。多くは革製で、薬品や弾薬などの携行に用いられた。もちろん牧野は肩から下げて植物標本を入れた。
10:34
牧野の写生図
「明治十四年 我齢二十」
とあるからまだ高知にいたころである。
というか、小さいころから大好きだった草花を描き続けたことで得た能力であろう。
標本というのは根から花まで完全なものは少ないから、完全なものを寄せ集めて一本にできる写生図のほうが写真より優れている。
1884年(明治17年)、22歳で上京してから東大の植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭した。そして東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送ると返事が届いた。おそらく牧野の絵が下手だったら、認められなかったのではないか?
25歳で、『植物学雑誌』を創刊。
その後、精力的に研究、発表したが、1890年、28歳のときに教室の書籍を無断で持ち出したとのことで矢田部教授から植物学教室の出入りを禁じられた。朝ドラでは論文に教授の名を入れなかったことが問題になったように語られていたが、実際、研究に夢中で権威に忖度しない態度が嫌われたのであろう。
1893年、31歳。その矢田部教授が失職し、後任教授となった松村任三教授は牧野の能力を必要とし、呼び戻される形で助手となった。しかし学歴がないこと、旺盛な研究、発表で権威者側から妬まれ疎まれ、松村教授からも圧力をかけられた。
1912年、49歳のとき、やっと講師となる。
10:35
91歳のときの書
文化勲章があった。
となりの勲二等旭日重光章より小さいが、こちらのほうが格上である。
文化勲章は天皇から渡される親授だから大綬章勲一等と同格である。
ちなみに、勲等と勲章名称は1対1対応しており、旭日章の場合なら勲一等なら旭日大綬章、勲三等なら旭日中綬章となる。瑞宝章も同様で、勲一等から五等まで大綬章、重光章、中綬章、小綬章、双光章となる(戦前はもっと下まで勲六等とか勲八等まであった)。ただし菊花章、桐花章は別格で等級はなく、大勲位菊花章頸飾と大勲位菊花大綬章、また桐花大綬章のみである。
(勲等を合わせて呼ぶなら、大綬、重光、中綬、などのサブネームは重複しているだけでなく、ややこしいから省けばいいと思うのだが。と思ったら今は勲何等とかは言わず、旭日中綬章という名前になったようだ。)
我が家のお隣の伊藤学東大名誉教授(土木、故人)は2014年5月、瑞宝中綬章を授与され、お祝いの虎屋のどら焼きを頂いた。伊藤先生の父上・伊藤令二氏は勲3等瑞宝章を授与されているから、親子で同じものを受けられたことになる。
ちなみに旭日は業績、瑞宝は官位に長年勤めたことに重きを置く。だから官僚、裁判官、大学教授、医師は瑞宝章で、政治家、実業家、芸能・文化人は旭日章である。
さて、展示の牧野の文化勲章をよくみると日付が1957年1月18日とある。
あれ、文化の日ではないのか?
法令ではノーベル賞と違って対象者が死んだ後に文化勲章を追贈することを禁じていない。ただし勲章はその佩用を前提にした栄典であるため、授与は生前の日付(つまり死去日)に遡って行われる。
(ちなみに中綬章以上の勲章をつけるのは礼服以上に限られるというから、なかなか付けた姿を見せる機会がないんですと伊藤先生は仰っていた)
過去に文化勲章を死後追贈されたのは、歌舞伎六代目尾上菊五郎(1949)と牧野富太郎だけである。
牧野は第一回文化功労者(1951)のうち文化勲章を受章していない数少ない者のうちの一人だった。普通ならもっと早く受賞していても良い。生前、辞退していたとも聞かない。やはり中央から物理的にも社会的にも離れていたからだろう。
大学を辞す
1893年の助手就任から講師を経て1939年、77歳で講師を退官するまで46年東大に籍を置いた。当時は学歴が絶対であり、小学校中退ではどんなに業績を上げても教員にはなれず、助手すら異例だった。特に東大は卒業生でないと教員にはなれなかった。
しかし平成になったころからその権威を維持するためにも業績が必要なことに大学も気づいたか、純血主義が揺らいできた。東大医学部も積極的に他大学から有名医学者を引き抜くし、30年くらい前に薬学部では他学部、他大学出身の教授が半数となり「昔は考えられなかったことであり、現在、東大薬学史上最強の布陣となっている」という某教授の文章があった。
もちろん、建築家の安藤忠雄が大阪府立城東工業高校の最終学歴で東大教授になったことは牧野の時代ではありえないことだった。
隣に練馬区名誉区民称号記が額に入っていた。
称号授与は平成20年11月つまり2008年。だから牧野は見ていない。
朝ドラ「らんまん」よりずっと前だが、それにしても死後だいぶたっている。
なぜ2008年だったか。
調べたら平成20年に区は初めて練馬区名誉区民を選定した。元区長の田畑健介氏と岩波三郎氏、狂言師の野村万作氏、漫画家の松本零士氏と牧野富太郎の5人である。牧野を除いた4人については、他にも同じくらい知名度の高い練馬ゆかりの人は多いから、なぜ彼ら4人なのか不明である。
10:40
練馬での生活の写真
牧野は大正15年(1926)、練馬に移り住んだ。
ずっと、単純に植物標本を保管できる広い家、多種類の植物を育てられる土地を求めて郊外に行ったものと思っていたが、川口や松戸のほうが大学に近いのではないかという疑問もあった。
練馬になったのは理由があった。
上京してから本郷、小石川周辺を中心に30回近くも引っ越したとされ、大正12年(1923)渋谷・円山町付近に住んでいたとき関東大震災に遭った。この経験からスエが郊外への移住を提案したという。
(TDLの近く、浦安市弁天に住む友人Aが東日本大震災で地面の液状化を経験し、東京で一番地盤が固いという練馬に第二の家を購入したが、大正時代から地盤の固さは言われていただろう)
折しも、1924年、震災後の郊外住宅地への需要に応えるべく、箱根土地会社(堤康次郎)が大泉村に大規模な学園都市の開発を始めた。碁盤の目状に土地が整備され、村内を通過していた武蔵野鉄道(現:西武池袋線)にこの年、東大泉駅(1933年大泉学園駅に改称)が開業した。当初目指していた高等教育機関の誘致には失敗するものの、学園都市計画は大泉学園町に名を残している。
そして1926年、牧野は北豊島郡大泉村に転居する。
昔の航空写真を見れば駅北側に家が建っているが、南は越中砺波の散村のように家が少ない。
昭和7年(1932)、周辺5郡が東京市に編入され、大泉村も新設の板橋区となった。
戦後の1947年、広大な板橋区から西部が分離し練馬区ができる。
そして1957年、94歳で永眠した。
この日、展示室の隣ではトークイベントがあったようだが、聞かずに外に出た。
10:41
アオギリ
これほど大きな桐の木は見たことがない。
後ろは展示室のある記念館(二代目として平成22年新築開館)
そもそも大泉学園という駅だが、そういう学校はなく、学園町というわけでもない。
10:45
東京学芸大学大泉小学校
牧野記念館の昔の航空写真ではこの場所に学校らしきものが写っていた。
調べると1938年、この地に東京府大泉師範学校と付属小学校が開校した。この師範学校は国立に移管され、戦後東京学芸大の創立母体の一つとなった。
10:56
東京都立石神井学園
明治42年設立、児童福祉法にのっとり、保護者のない児童やその他養護を要する児童が生活する施設らしい。合計児童定数130名、職員定数98名に敷地面積31,481平米だから、その広さ緑の多さが分かる。
かつて練馬はその位置(東京の西北)と広大さから東京の満州と言われたそうだが、今でも緑は多い。牧野の時代には遠く及ばないが。
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