2025年8月14日木曜日

三内丸山遺跡の村は1700年も続いた

8月6日、朝起きると窓から陸が近くに見えた。
前夜に秋田を出港した飛鳥は津軽海峡に入ったのだろう。
12階に上がった。
6:38
竜飛岬を過ぎたあたりか。正面は下北半島か。
6:38
後方は竜飛崎?
津軽半島は竜飛崎一つだと思っていたが、 湾(今別町)があり、西が竜飛崎、東が高野崎であることを今回初めて知った。
7:17
飛鳥は高野崎をまわって陸奥湾に入っていく
ちなみに津軽海峡はあっても津軽湾というのはありそうでない。
下北半島と津軽半島の間全体を陸奥湾という。それをさらに分け、湾内の夏泊半島の西を青森湾、東を野辺地湾と言い、北東の窪みを大湊湾という。
7:19
左舷は下北半島。
スマホがなければ北海道と間違えてしまう。
津軽半島から下北半島へはもちろん陸続きで行ける。あるとき船で近道しようと思った縄文人が間違えて北海道に渡ってしまったりして、津軽海峡文化圏というものができたのではないか? そんな珍説が浮かぶ景色であった。

この日は昼も夜も珍しくダンスの業務がない。
しかし夕方から皆でねぶた祭りを見て、そのまま飲みに行くというので、昼に出かけてもそれまでに戻ってこなければならない。

何処に行こうかと考えた。
青森市は2022年11月、短時間だったが港付近を見物したことがある。今度は内陸に行ってみようと思った。
八甲田山雪中行軍遭難資料館のある幸畑の陸軍墓地、縄文期の環状列石で知られる小牧野遺跡などが浮かぶ。しかし両方ともバス便がほぼないに等しく、タクシーで往復するしかない。
そこで市街地に近く、路線バスで行ける三内丸山遺跡に行ってみることにした。帰りに自衛隊青森駐屯地の資料館に寄れるかもしれないし。

10時半過ぎに上陸が可能となったので、青森駅まで歩くことにした。
11:01
聖徳公園
明治天皇が初めて北海道に行った時の出航記念碑
(右のほうに小さく飛鳥が見える)
この公園は青い海公園とつながっている。

駅に着いた。
三内丸山遺跡へのバスは、行き先がそのものずばりだから分かりやすい。
しかしバスは11:00が出た後で、11:50までない。それまで駅ビルの土産物を見て時間をつぶしたが疲れてしまい、バス乗り場に戻ってきた。
11:38
ところがバス乗り場は行列になっていて、座れないことはもちろん、全員が乗れるかどうかも危ぶまれた。乗れたとしてもぎゅうぎゅうのところに30~40分も乗るのはやだな。

そもそもぜひ行きたいというわけではない。

三内丸山遺跡は一般的には有名観光地である。さらに夏休みは世界遺産の縄文時代遺跡を子供に見せたいという親も多そうだ。
しかし日本には面白いところがいっぱいあって、今まで私の行くところはあまり人が行かないところが多かった。有名観光地はむしろ敬遠してきた。また私は今につながらないものはあまり興味がなく、つまり縄文時代は古すぎる。
もともと行く理由もなかったのだから行列を見てすっかり行く気が失せた。

しかし他に行きたい場所が見つからない。
それに行けば意外と面白いかもしれない、と自分に言い聞かせ、何とか行くことにした。

スマホで調べたら、慈恵病院行きというのが11:44にあり、そこから遺跡まで歩けないこともない。そのバスがちょうど来たので飛び乗ったらガラガラでゆったり座れた。
12:08
終点・青森慈恵病院(右)
前のラーメン屋「倉内」に行列ができていた。

スマホの地図を見ながら県立運動公園に入っていく。
12:11
広い。この下にも縄文時代の遺物がありそうだ。

12:13
向こうに県立美術館の白い建物が見えた。
方角ではあの向こうである。
12:14
ところが標識では遺跡への道が、今まで来たほうを指している。
来た道を戻るのは嫌だな、と行けるかどうかわからないが芝生を突っ切ることにした。
この芝生は運動公園だろうか美術館だろうか、まあどちらも県立だから良い。
12:16
それにしても、この起伏と芝生の感じが三内丸山遺跡と(行ったことはないけど)同じ気がした。再びもう行かなくてもいいのではないか、とちらりと思ったがここまで来たのだから行く。行けば面白いかもしれないと言い聞かせ。
12:23
無事、県立美術館を過ぎて青森駅からバスが来る道路に出た。
道路を渡るとフェンスがある。
立入禁止としか書いてないが、たぶんここが三内丸山遺跡だろう。
有料施設だから入口は一つ、それがどこにあるか問題だがスマホの地図ではよく分からなかった。フェンスに沿って歩き続ける。歩いている人は誰もいない。
12:27
無事、正面玄関に到着。
バス停から20分歩いたが正解だった。

遺跡内がどうなっているのか、園内に見どころは何があるのか、看板地図を探したがない。
一部がちらりと見えて、入場すれば全部見えるという構造ではなく、一切外から見えないようになっている。隣の土産物屋に遺跡の公式パンフレットがあり、それで大体の全容がようやくわかった。
馬蹄形の建物が1棟あり、そこが博物館を兼ねながら、外部と有料遺跡区域の境界になっている。
ちなみにパンフレットに書かれた住所が「青森市大字三内字丸山305」だった。
今まで知らなかった遺跡名の由来が分かった。
12:36
券売所と入口ロビー
意外とカップルとか若者グループもいた。
12:36
展示室が並ぶ
12:39
これら土器はここで発掘されたという以外、あまり情報がない。
情報がないと物語もないから、なかなか興味がわかない。
12:45
施設内から遺跡へ向かう通路はトンネルのようになっている。
入り口は北東に向かい、遺跡は施設(時遊館)の北側に広がっている。

12:46
トンネルを抜けると芝生が広がり向こうに何軒かの古代住居が見える。
この演出はいい。
女子高校生、女子大生くらいのグループが「あー、やばい」と歓声を上げていた。

この遺跡は、歩いてきた総合運動場、県立美術館と隣接していて、1992年県営野球場の建設途中に発見された。もっとも江戸時代から周辺では土偶や土器のかけらが大量に発見されており、遺跡があったことは一部で知られていたが調査はされなかった。
1994年には集落跡の全貌が明らかになって野球場の建設は中止、保存が決定された。だから長野県などの縄文遺跡と比べるとかなり発見が新しい。昭和の高度成長時代から一貫して日本中が土木工事で掘り返されてきたことを思うと、これだけの大規模遺跡がそれまで発見、調査されなかったことは奇跡に近い。青森というのは関東の我々が考えるよりもずっと土地が余っていたのかもしれない。
そういえば青森から八戸、さらに盛岡に向かう列車の車窓からは「平地の」森林が見えた。他の地方では森林は山にあり、平地は住宅や農地になっている。
12:48
縄文服を着た子供たちがいた。
ミュージアム内で無料で貸し出しているらしいが、記念撮影用だからここで着ている人はあまりいない。
しかしみんなで着たら、客も展示の一部のようになり盛り上がるのではないか。

12:50
目玉と言える3層の掘立柱建物、大型竪穴建物があった。
奥のほうに白いドームのような建造物がある。入ってみると
12:51
ドーム内部
隣に復元された三層櫓の発掘現場を保存したものだった。
穴をのぞけば柱の遺物がみえる。本物の柱の基部は別に保存し、これらはレプリカらしい。
柱は直径1メートルのクリ材だったという。
穴は直径2メートル、深さ2メートル、2x3=6本が4.2メートルの間隔で統一され正確に並んでいる。

「4.2メートルで正確に統一され」というのは重要で、いい加減に建てたものでなく高度な建築技術と物差しがあったことを示す。遺跡内のほかの建造物から35センチが基準となっていることが明らかにされ4.2メートルも35センチの倍数になっている。
現在はメートル法で統一されているが、それ以前は尺貫法で、法隆寺なども大陸から来た高麗尺、唐尺で建てられた。尺度の広がりは建築技術(集団、文明)の広がりを示すもので、4600年前の三内丸山の「縄文尺」はどの程度の広がりがあったものか。
12:52
柱の太さは地中に残った基部から分かっても高さや構造はどうやって分かったのだろう?
説明を読めば土圧の分析から推定したというが、詳細は分からない。
6本の立柱の重さが分かっても、三層にした床、屋根の有無、柱の長さはそれぞれ重さとして立柱の土圧にかかってくる未知数であり、2つを仮定しないと全体像は決められない。
真相は分からないとして何もしないよりも、えいやっと仮定してでもこのようなものを作ることは、様々なことを想像する手がかりとして意義がある。

すなわち、これだけのものを作るにはかなりの労働力を必要とし、それを可能とした社会と指導者にも思いがはせる。物見台にしては大げさだから祭祀用のステージだろうか。
この櫓は遺跡のシンボルとしてだけでなく、縄文時代が思ったより進んでいたことを想像させるものになっている。
12:53
柱は内側に2度ほど内側に傾けて立てられていたという。地中に基部が残っていただけなのにわずかな角度が分かるものなのか知らないが、安定性を高めるための知恵である。
柱の下の部分は腐食を防ぐため焼いてあったらしい。

向こうに高床式建物が復元してある。なぜ高床式だと分かったかというと柱跡の内側に生活の痕跡(火の跡など)がなかったためという。発掘調査の丁寧さ精密さに驚く。高床式建物は遺跡中央部にまとまって見つかった。

となりの復元大型竪穴建物は中に入れた。
12:55
大型竪穴建物の内部
ここだけでなく集落の中央部分に跡がいくつか発見されている。
集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。

三内丸山遺跡は縄文時代前期~中期( 現在から約5,900~4,200年前)の、1700年もの時代の幅がある。これは卑弥呼の時代から20世紀までの長さである。いくつもの文明(王朝)が興亡する長さだが、同じ村というなら、先祖代々同じ人々である。

発掘では各時代の地層を1枚ずつ取り去りながら、土の中の情報を詳しく記録したのだろう。最盛期の平成6年(1994)には、調査員10人、調査補助員28人、作業員(地元のおばちゃん)580人が調査にあたり、それは現在も続いている。

しかし1700年にもわたり何度も壊し建てられた場所の柱のあとは相当複雑である。手を付ける前によほど周到な準備、計画と注意深い発掘作業が必要であったことと思う。
パンフレット裏面

村の周囲にはクリの林があって手入れされていたという。手入れの根拠はクリの実のDNA解析らしい。
遺伝子的に均一だったということだろう。しかし、それは1本の大木から採れたものならDNAは同一になるだろうし、野生の栗でも近くに生えていればDNAが同じになるかもしれない。おそらく現在の(近隣の)野生栗や、他の遺跡の栗のDNAと比較して、その均一性が際立ち、特定の品種を長年栽培していたと結論したのだろう。
同様に、豆類や瓢箪も栽培されていたという。

ニワトコやキイチゴの種がまとまって大量に発掘されたこと、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなども一緒に出土していることから、果実酒も作っていたのではないかと言われている。
12:57
竪穴式住居がいくつも復元してある。
三内丸山では550棟以上見つかったという。
村の規模、すなわち同時期には何棟あったのだろうか?

1700年も続けばいろんな形式の住居があっただろう。
発掘調査の結果や近隣民族例を参考にして、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類を復元した。
樹皮葺き住居の中。
周りに板を敷いたのは発掘調査の結果なのか、現在の少数民族の住居を参考にしたものなのか。
こういう家だと伝染病が来たら一家全滅だな。
1700年もの長い間続いた村が忽然と消滅した理由は、伝染病というより、縄文末期の寒冷化で海が遠ざかり、不便になったからという説が一般的である。
12:58
土葺き住居
これがいちばん、夏は涼しく冬は暖かそう。
冬眠動物はもちろん下等動物まで地中に巣をつくるものは多いから、誰かに教わらなくとも人類は猿の時代から本能的に土葺き住居を作れたのだろう。

ここで思い出したのは江戸末期、ロシアの南下で東北諸藩が幕府に命じられ蝦夷地警備を命じられた時の話。本州の家屋は東北と言えど中央の影響を受け、床下を風が通るような住居だったから、そのような宿舎を立てた。当然寒さには耐えられず、兵たちは次々と病没していった。アイヌのような竪穴式住居だったら耐えられただろうということだ。
12:59
土葺き住居の内部

本州の古代遺跡は長野県の尖石遺跡にしろ静岡登呂遺跡にしろ、戦前、戦中に発見され、早くに発掘された。土器、石器などは丁寧に保存しただろうが、DNA解析などの技術はなかったし、発掘技術も今ほど丁寧ではなかっただろう。三内丸山遺跡は発見が遅かったのが幸いした。

13時過ぎて管理展示施設の時遊館にもどった。
土器など遺物の展示は美術館のように広い空間に、何もない壁を背景にポツンと展示するのも、遠い縄文世界を想像するのに良いかもしれないが、当時の生活を推定・再現したときの「説得力ある科学的根拠」も学会発表のポスターのように展示すれば、現代考古学を知るうえで面白いと思った。

誰もいない休憩所でジュースを飲んだ。
ここで当初の計画にあった自衛隊青森駐屯地に電話してみると、当日でも見学できるというので三内丸山遺跡を切り上げることにした。
来た道を戻っていく。
美術館の敷地を突っ切る。
13:32
青森県立美術館の壁

遠くから見た美術館の白壁は一面のぬりかべだと思ったら、レンガに白ペンキを塗ったものだった。わざわざ白に塗る意味はないと思った。

三内丸山縄文人の直接の子孫かと思わせる棟方志功、没後50年記念展が開催中だった。
約束の駐屯地14時00まで少し時間はあったが館内には入らなかった。

(続く)

2025年8月12日火曜日

秋田港の発電所と竿灯まつり

8月5日朝、例によって起きたらすぐPCをもって11階のEスクエアに上がる。

夜のうちに津軽海峡を通過した飛鳥IIは男鹿半島の沖を南下している。左舷側にいけば陸地を見ていられるが、朝日が入ってPCが見にくいので、右舷のEスクエアから動かない。

7:22 Eスクエア
家にいた時と同じく5時半に目覚めてしまうので、毎朝ここにくる。
PCで動画を見たり、ブログを書いたりしていると、ウェイトレスが来てくれる。
いつものようにカフェラテを頼む。
7:38 パームコート。
乗客は隣のパームコートで朝日に包まれゆっくりお茶を飲んでいる。
せっかく優雅な船旅に来てPCに向かっているような無粋な人はいない。
ダンス講習会やパーティで知り合いになった人と会釈する。

8時から5階で朝食をとり、食後再び11階に上がった。
男鹿半島が見えた。
8:55 男鹿半島
秋田石油備蓄基地が見えるから、半島を南に回り込み東に進んでいることがわかる。

この日は午前中何もない。
劇場で映画でも見ようかと思ったが、ずっとEスクエアで雑誌を見たりしていた。
9時からは日替わりスムージーがでる。この朝のスムージーはブロッコリーだった。

やがて秋田港に着岸。
10:41 秋田港クルーズターミナル。
すぐ後ろにソーラーパネルが大量に並んでいた。
関東で見る屋根の上や畑での太陽光発電とは規模が違う。地図を見ればIP秋田ソーラー発電所第1第2とあった。

反対側に行くとタグボートが飛鳥を押していた。
10:42 反対の日本海側。
風力発電の塔が並ぶ。
材木が並んでいるのも秋田らしい。スギだろうか。
ちなみに秋田は森林面積は全国6位だが、スギ人工林面積は全国1位である。

着岸してすぐ、秋田県の特徴を2つみることができた。
すなわち秋田杉と再生エネルギーである。

日本のエネルギー自給率は13.3%(2021年)と非常に低いことが知られている。
ところが秋田県の自給率は87.9%と全国1位なのである。内訳は、
 太陽光 8.8%
 風力 41.9%
 地熱 18.4%
 小水力 12.9%
 バイオマス 6.0% である。
意外なことに、12階のデッキから見た太陽光発電は思ったより比率が低かった。しかし風力発電は全国1位である。風向きが変わっても常に風車は風上に向くらしい。

11時から上陸できたが、我々は15:00から45分の講習会があり、また港が不便なところにあるため、ひとりで久保田城などへ行くのは諦めた。

昼食は秋田にちなみ冷やし稲庭うどん。
フルコースディナーよりこういうものがおいしい。
午後のダンス講習会の後、早めの夕食(うな重)を食べてから送迎バスで竿灯まつりに出かけた。
8/4. 8/5のアスカデイリー

久保田城の堀端でバスを降り、歩いて竿灯祭り会場に向かった。
夜は竿灯演技が4日間、昼は妙技大会が3日間(予選、決勝)にわたって行われている。
18:57 旭川
歩道は会場に向かう人々でいっぱい。
歩道橋などは閉鎖されているから、警備の人に道を聞くが皆親切だった。
18:59
会場に到着
始まりを待つ竿灯は横になっている。提灯の中は実際のろうそくが燃えているため常に垂直になるような構造になっている。重さで竹がしなっている。

公式サイトを見れば
 枡席 1枡 28,000 円 ローソン大町二丁目店前(1枡定員6名)
 S席 4,500 円 中央道壁上ひな壇席
 A席 4,000 円 上記以外のひな壇席とパイプいす席
 B席 3,500 円 長いす席
であり、飛鳥は乗客にA席を用意した。クルーズ料金に含まれているから無料のように感じ、予約しても来ない人は多い。だから飛鳥の区画はいっぱい空いていた。

区画内の席は1列目が道路面のパイプいす席、2~4列目がその後ろの中央分離帯に作られたひな壇席になっている。私の席は1列目の道路面で、すぐそばで見られた。
M先生が前回飛鳥できたとき、ろうそくの溶けた熱いしずくがご主人のT先生の手に降りかかったという近さである。
19:16
いよいよ始まった。
掛け声が何だったか、書いている今思い出せないが、勇壮にバランスをとりながら継ぎ竹を足して高くしていく。
19:16
写真の竿灯は一番大きい「大若」で、提灯が46個、高さ12メートル、重さ50キロ。
持つには力4分、技6分という。

秋田竿灯まつりは、笹竹などに願い事の短冊などを吊るし街を練り歩き、最後に川に流す「ねぶり流し」が原型らしい。江戸時代になって蝋燭が普及し、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて独自の行事になったという。
江戸時代後期の寛政年間(1789ころ)には長い竿を十文字にし、それに提灯を数多く吊り下げて、太鼓を打ちながら町を練り歩く形になっていた。

それが大型化すると競争が生まれる。電線が張られるようになって高さが制限された結果が、ただ持つだけでなく、頭、腰などで支えるような曲芸的演技になった要因だろうか。
19:21
となりはヨーヨー世界チャンピョンのトミーさん。
指定券はバスの中で渡されるので一緒に来た人が隣同士になる。

有料指定席でなくても反対側の歩道は自由に市民などが普通に見物できる。8月3日から4日間あること、東京と違ってそれほど見物人が多いわけではないこと(地元は見物人より参加者が多いということ?)などから、指定券がなくともシートに座る人や立ち見など、十分楽しんでいらした。
19:23
中学生のころ、掃除のモップとか、剣道の竹刀、傘など、長いものは何でも手のひらに乗せてバランスをとって遊んだものだった。それと同じと思い、大して期待していなかった。
50キロ12メートルの竿を腰に乗せてバランスをとるのは容易でなく、相当練習しても困難であることは想像できるのだが、見世物としてのエンタメ性はどうなんだろうと思っていた。
しかし、実際近くで見ると迫力があって面白かった。
19:24
東北三大祭りにふさわしい迫力ある雰囲気は、周りの仲間も作っている。
祭りは竿を持つ人だけで成立しているのでなく、交代要員はじめ周りのひとが「右、右、」「ちょい左」とかサポートし、太鼓と笛の囃子、掛け声などが全体を盛り上げている。
お祭り見物は私の好みの対象ではなかったのだが、来て良かったと思った。
お神輿などとは全然違う。
たかが祭りであるが、秋田の印象を高めていると思った。
19:29
右側のほうで竿灯が倒れた。
ろうそくが瞬時に消えた。
倒してしまった人は責任を感じるのか、そうでもないのか、どちらなのだろう?
草野球のエラーのように後の飲み会の笑い話ですむくらいなのか、本人が何日も落ち込むくらい引きずるのか。
19:31
こちらは竿灯ではなく、太鼓の山車に下げてあった提灯がもえた。
短時間に目の前でしばしばあるのだから全体で大小事故は相当発生しているのだろう。

15分程度で演技が終わると順に移動して、違うチームが前に来る。
このとき道路の横断が可能となる。
19:45
祭り遠景。
キャッスルホテルで20:00にタクシーを頼んであるので、会場をあとにした。

あとでトミーさんに聞いたら、我々がいたところにも竿が倒れてきたらしい。
写真をとりましたか、と聞くと、突然でびっくりして両手で自分を守ろうとしたらスマホを落としてしまったという。

タクシーはホテルからクルーズターミナルまで3980円。M先生が払ってくださった。
この日21時からのダンスパーティはほとんど参加者がおらず我々4人は手持無沙汰だった。

(続く)

2025年8月9日土曜日

夏のクルージング、初めてのサウナ、ヨーヨー

8月3日。

3月以来、5か月ぶりの飛鳥IIにのる。

3回目のクルーズバイトは東北祭り巡り。

15:15
乗船、荷ほどき、避難訓練のあと11階カフェでハンバーガーを食べる。
17時出航。

18:23
三浦半島・観音崎
部屋は5067。右舷側なので津軽海峡までずっと太平洋側、これが陸地の見納め。
もっとも11階のカフェに行けば両舷の景色が見られるが。
全体スケジュールと初日の催し物

8月4日
蒸し暑い千駄木の家と違って睡眠の質が良かったのか、5時過ぎに目覚める。
昨夜は23:30まで踊って部屋に戻ってすぐ寝たが、5時間半くらいしか眠っていない。もう少し眠るべきだが頭がさえてしまったので起きた。
11階の展望大風呂に行ったら掃除中でオープンは6時からだという。
そこで隣のジムに行って時間をつぶした。
5:42
ジムは24時間オープン。
先日たまたま知人がブリッジの話をしたので私もやってみた。
マットの上で仰向けになって試みたが、手首が向こう側に曲がらず手のひらが床につかない。
よく考えたら手首が固くても他の股関節とか肩が柔らかければ手首の曲げが少なくて済むことに気づいたが、それでもできる気配がない。
頭を床につけたまま、腰を浮かせるのが精いっぱい。

そうこうするうちに6時になったので風呂に行った。
髭をそり頭を洗ってから、ふと目に着いたサウナに生まれた初めて入ってみた。

先客が二人いらした。
間に座り、こういう時は話をしたほうがいいのか、よく分からず、正面を見ていると、目の前の壁に温度計があり、95℃だった。
そうか、95℃って、こんな感じか。
まず第一に金星の表面を想像し、もちろん温暖化されていく地球を想像した。
次に思ったことは、人間は何度まで生きられるかということ。

高等生物の酵素は40度くらいが限度であろう。反応速度は高温ほど良いが、タンパク質構造が保てなくなる。例えばペプチド結合₋NH-CO₋は-N=COH-と共役しているから二重結合的要素もあって平面構造をとる。これが高温になると自由回転してしまい、酵素の形が変わってしまう。もちろんβシートやαヘリックスなど水素結合で成立している構造も保てない。

地球温暖化のスピード(=人口増加、社会活動の増加の速さ)は進化のスピード(高温に適した酵素の出現)よりはるかに速い。今年は全国各地で40度越えの日が報じられるようになった。

冷蔵庫に水を入れると数時間で冷える。
外に出せはすぐ外気温になる。
42度の外気温にいたら体は何時間もつか?

低温下で体温をあげるのは服を着て糖を燃やせばいいのだから簡単だが、体温を外気温より下げるのは熱力学的に容易ではない。熱は原理的に低温から高温には決して流れないから、体温が40度になっても外気が42度なら、体内の熱を出しようがない。汗の蒸発(液体から気体への変換)で熱を引き抜いてもらうしかないがそれも限度がある。

たぶん食料生産地も含め、地下に潜るしかないだろう。
そこで発生する熱は地表に放出するから外気温は45度くらいになるのではないか。
地下世界の建設は数十年かかるだろうから、その前に夏はシベリアやアラスカへ引っ越すような、渡り鳥のような生活になる気がする。今、中国人などが日本に移住してきているが、今度はみな寒冷地に移住する時代になるのではないか。

何分座っていたか、入った時刻をみなかった。
それにしても95度である。水ならば、ものすごい数の水分子が衝突し体内のあらゆる分子にエネルギーを与える結果、とっくに茹で上がって死んでいる。
気体であってもものすごいスピードで肌に衝突してエネルギーを与えるが、数が少ないから耐えられる。

この暑さの中で耐えることが体に良いことなのかよく分からない。運動と同じく適度なストレスが快感に思う人もいるのだろう。そんなことを思いながら初めてのサウナを出た。

この日は一日太平洋を北上する日。
午前、午後に45分ずつダンス講習会があるが、あとはフリーなので11階のカフェでのんびりした。
フィリピンバンド「ナマナ」の歌は相変わらず素晴らしい。
読書もいいが目をつぶって聴いているのもめったにない贅沢である。

外に出ると夏。
船は三陸沖を北上している。
14:39
岩手県宮古市の沖。
宮古は東日本大地震で有名になったが、それ以前で知られたのは戊辰戦争での宮古湾海戦だろう。
海戦と言っても大砲を撃ち合ったわけでなく、幕府軍の「回天」が新政府軍の新鋭艦「東艦(旧名・甲鉄艦)」を奪おうとして、停泊中の敵艦に近づいて飛び移って切り込もうとした海賊のような江戸時代あるいは中世のような戦いである。
操艦を誤り回天の船首が東艦に突っ込んだため、幕府軍の兵士が狭い船首から一人ずつ3メートルもの高低差を飛び降りねばならなかった。そのため鉄砲の格好の餌食となり、指揮官含め多数が戦死、作戦中止、回天は命からがら脱出したという舞台の海である。
山影の間が低く薄くなったところが宮古湾であろうか。
14:40
1月、3月のときと違い、今回はプールを楽しむ人もいる。

夕方、5階のレセプションホールでTOMMY(渡邊富之)氏のヨーヨーのパフォーマンスがあった。
前夜のディナーのとき、同じエンタテイメント系の業務乗船者でお一人ということで、我々と同じ円テーブルに案内され、私の隣だったので色々話を聞いた。
愛知県の大学生時代、大道芸人系のサークルに入り、愛知万博のステージに立って以来、ヨーヨーの技を磨き、世界チャンピョンに3回なったという。
17:06
音楽に合わせて様々な技を繰り広げられるのだが、素人にはそのすごさが分かりにくい。一番拍手されたのは観客の一人の手のひらに布とペットボトルをおき、ヨーヨーを投げて瞬時に布を絡ませテーブルクロス引きを成功させたときだった。技の難易さよりも分かりやすさとトークが大事なようだ。

ヨーヨーは18世紀に世界的に流行し、長崎から入って江戸時代の日本でも流行した。「お蝶殿の手車」などと言われたらしい。二度目の世界的流行は20世紀初め、1929年カリフォルニアのヨーヨー製造会社が毎日30万個を送り出すほどの大ヒットを飛ばし、1932年にはイギリスで世界大会が開催され、翌年、その熱波が日本へも押し寄せたという。
しかけが単純で、遊び手の技量が大いに要求されるおもちゃは、国境をこえてヒットする。
18:18
夜は今回のクルージングにふさわしく津軽民謡のショーがあった。
三味線、和太鼓、歌い手、踊り手、いずれも一流の人らしいが、こちらに鑑賞する力がまったくない。それでも「手踊り」の手首の返しの「キレ」には感心した。

(続く)

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