8月6日、クルーズ船・飛鳥で青森に来て、三内丸山遺跡をみたあと、それほど遠くない自衛隊青森駐屯地の資料館を見学したくなった。
上陸する前にHPをみると見学者は前の日までに予約してくれという。見学申込用紙のPDFまでダウンロードできるようになっている。
例外的に当日見学できるかどうか。
四国・善通寺の資料館はいきなり行っても対応してもらえたが。
13:10に三内丸山遺跡の休憩所で電話すると、14時から見学できるというので歩いてやってきた。
13:46
陸上自衛隊青森駐屯地
表札が何枚もあるが、目立つのは「第九師団司令部」と「第五普通科連隊」。
約束が14:00なので近くのバス停(待合室)で座って待った。
日本陸軍は、明治6年東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に鎮台をおき、明治7年からその下に歩兵連隊を14個置いた。番号は東京のあとは北から順につけた。
すなわち、1赤坂檜町、2佐倉、3麻布、4仙台、5青森、6名古屋、7金沢、8大阪、9大津、10姫路、11広島、12丸亀、13熊本、14小倉である。その後明治17年から連隊を増やし、明治19年には24個連隊となり(1鎮台2旅団4連隊制)、明治21年には鎮台が第1~第6師団と改称した。
つまり青森第5連隊は最も伝統ある連隊の一つである。
明治29年、日清戦争後の軍備増強で仙台の第2師団の軍管区を二つに分け、青森秋田岩手は弘前に司令部を置く第8師団とし、青森第5連隊のほかに仙台から秋田に移した17連隊、弘前に31連隊、秋田(のち山形)に32連隊を新設し付属させた。そして4年後、日露開戦を前にした八甲田山雪中行軍は第5連隊と31連隊で行われることになる(後述)。
しかし自衛隊の普通科連隊の番号付けはどうなんだろう?
第5連隊は1951年、金沢で警察予備隊第1管区第5連隊として編成され、半年後に第一大隊が青森に移転、1952年連隊本部も金沢から青森に移転した。このとき栄光ある明治以来の称号、青森第5連隊を継承することになる。
1954年には陸上自衛隊発足により、第5普通科連隊に称号変更した。
14:00
5分前になって受付に行き要件を言うと、奥からTシャツ姿のふつうのおじさんが出てこられた。正門に入ったときから出会う隊員がすべて子供のようにあどけない顔をして、ぴしっと制服を着ているのに対し、食堂の親父さんのような風貌だった。
右側に来園者名簿があり、私も住所氏名を書いたが、今までの訪問者の数(日付から推定する頻度)と住所は見なかった。
14:00
案内してくださる齋藤さんは、2年前に退官したと仰る。
本来対応するべき広報の人が自衛隊のねぶた祭の出陣(責任者?)とかで忙しく、急遽呼び出されたという。たぶん自転車をこいで来られた気がする。
三内丸山遺跡の休憩所で(HPでは前日までに予約してくれというのに)「これから見学できますか?」と電話したときに、ちょっと困ったような対応をされた理由がよく分かった。
14:01
資料館は防衛館という。
善通寺の資料館は乃木館といったし、入間航空自衛隊は修武台記念館、朝霞駐屯地は振武台記念館などというが、防衛館とは珍しい。
14:07
齋藤さん
めったにない見学者に対し、鍵をいちいち開け、付き添い説明するわけだから、これは予約しないといけない。
建物は明治11年建築の第5連隊本部兵舎
第5連隊の創始は明治7年(1874)だが軍旗拝受は12年1月。
松本の旧開智学校(明治9年築)のように、当時はまだ大工さんが写真を見ながら建てた和洋折衷の洋館が多かった中、まずまず近代的な建築と言える。
当時の連隊本部はいまの青森高校の場所にあった。
青森高校というのは旧県立第三中学である。
(1884年に各県1校の尋常中学が設置されたとき、青森は東津軽郡青森新町(現青森市)に置かれた。ところが弘前の士族が運動し、1889年弘前に移転、分校が八戸に置かれた。1895年に複数置けることになったとき、弘前は一中、八戸は独立して二中となり、1900年青森市に第三中学が置かれた。)
戦後、陸軍が消滅した後、空襲で校舎を失った第三中学が現在の合浦公園の青森市営野球場付近からうつって来た。その後、兵舎は高校教員の宿舎や物置として使われていたが荒廃が進んだ。そこで昭和43年、この地に青森市の史跡保存会が解体移築した。
14:07
積んである瓦1枚1枚に菊の御紋が入っている。
瓦が余っているのは、移築復元するにあたり敷地の関係から両端を短くしたためか。
鍵が開いて中央の玄関から入るといきなり銃を持った兵士の等身大パネル(銅像の写真)があった。
「今年の自衛隊のねぶたはゴトウゴチョウなんですよ」と斎藤さんがおっしゃる。
最初何のことか分からなかったが、わかったふりをしたら話を続けられたので思い出した。八甲田山雪中行軍の遭難で凍死者続出の大惨事のなか、救援隊が来るであろう地点まで偵察に行き、目印になるように直立不動で雪に埋まり仮死状態で見つかった兵士である。
私の知識は新田次郎「八甲田山死の彷徨」(1971)とその映画(1977)を1980年代になって見たり読んだりしただけであり、登場人物は仮名であったから、津軽弁で「ゴトウゴチョウ」と言われても後藤(房之助)伍長につながるはずがない。もっとも映画も本も40年以上も前だから仮名すら覚えていない。(今見たら仮名は江藤伍長だった)
14:08
中央正面玄関から中に入ると、後藤伍長の銅像のパネルのほかに階段があり、右側が展示室と廊下、左側は壁になっていた。左側は倉庫などになっているのだろうか。
階段は湿気の上がる下部数段が石だった。石の減り具合に目が行く。
来週だか、建築関係のグループが見学に来るそうだ。
防衛館パンフレット
バッジは帰るとき頂いたもの。
ここで頂いた資料館のパンフレットを見ると、裏表紙(左)に銃を持った後藤伍長の銅像とことしの自衛隊ねぶたが描いてあった。
館内はいくつかの展示室に分かれている。
最初の部屋、第一展示室は第5連隊の歴史。
歴代の連隊長の写真から始まるが、ほとんどが八甲田山雪中行軍の資料であった。
14:13
第1展示室
「遭難始末」
「原本 八甲田山遭難記」
ところで青森市観光振興財団が運営する八甲田山雪中行軍遭難資料館が市内幸畑にある。(1978年開館、2004年リニューアルオープン)。ここは陸軍墓地(明治36年創設)に隣接していて、参道から入った正面には士官下士官10名と当時生存していた11名の墓標、また参道両側には遭難死した189人の墓標が整然と並んでいるそうだ。
その資料館に行こうと思ったことを話すと、斎藤さんは「いや、うちのほうがモノはずっといいです」という。第5連隊を引き継いだような自衛隊として、貴重な遺品、資料などを早くから保存してきたのだろう。
14:15 行軍経路
明治35年(1902)1月23日、第五連隊(現青森高校の敷地)から210名が出発。
幸畑、田茂木野、小峠を経て、田代の近くまで行ったが遭難。帰営を決定したが吹雪の中迷走した。17名が救助されたが6名が死去、じつに199名が遭難死した。
一人が雪中で動けなくなったら助けようとして他のものも遭難、さらにそれを助けようとすれば全員が遭難する。全員が自力で無事帰還するには全員が若くて体力頑健というだけでなく、少数なほうが良い。確率100分の1でも100人の部隊なら1人が体調不良になるからだ。みんなで助け合うという美しい行為は成立しない。
責任者の神成大尉は少数精鋭の編成を計画した。ところが、上官である大隊長の山口少佐は、同時に実施する弘前第31連隊の十和田湖をまわる長い行程を聞いて、特色を出すために中隊規模に拡大した上に大隊本部付きでの大行軍にすることにした。
雪中行軍は神成大尉を中隊長として編成されたが、編成外に山口少佐らが加わったため、上官に指揮権が移動し、進軍、撤退の決定が適切に行えなくなった。それに加え、体力的に劣る山口少佐を助けるため兵士が犠牲になり、被害を拡大した。
14:19 山口鋠少佐愛用の拳銃
山口少佐は部下の犠牲の上に生還したが、まもなく死去した。小説、映画では三国連太郎演じる山口少佐が責任を感じて拳銃自殺した。しかし公式発表では心臓麻痺となっており、また衰弱激しく凍傷の手指では引き金を引けなかったのではないか、という説が有力である。
14:24 生存者
11人のうち8人が手足を切断、無傷だったのは3人だけだった。
村松文武伍長は映画では緒形拳が演じ、昭和の戦後、老いてロープウェイができたとき夏の八甲田山を訪ねるラストシーンが記憶に残る。
14:31
同時期に弘前31連隊は、精鋭37名と新聞記者1名が周到な準備の上、十和田湖の南を通り八甲田山を経て青森まで到達した。
14:33
時間経過と遭難現場地図。
遺体発見場所が広範囲にわたっていることから、視界の効かない吹雪の中、兵士たちが何度も迷いながら各自散らばって力尽き倒れていったことが分かる。
凍傷でマッチを擦れず、擦れても暴風で火を起こせず、携行食料は凍結して食べられなかった。スコップをもっていた兵が遭難行方不明になり壕も掘れず、手指の凍傷でズボンのボタンをはずせぬまま放尿排便すると凍結し体温を奪い、寒さと空腹、疲労、睡眠不足で意識朦朧の中、次々と死んでいった。
14:35
遭難者の名簿。
岩手144、宮城48、青森6、秋田山形各3。
地元青森が少ないのは、青森県で徴兵されたものは弘前31連隊に入ったからである。
展示資料をしっかり見たら、いくら時間があっても足りない。
喫茶店(スタバ)になっている第8師団長の官舎も見おぼえある。
14:43
いそいで第8師団関連資料の前を通り過ぎた。
2階に上がる。
軍服コーナー(第3展示室)
八甲田山遭難以後、外套の袖が長くなり、手袋も5本指からミトンになったとされる。
本来この標柱は青森高校の敷地にあるべきだが、「諸般の事情により」ここにあると書いてあった。
14:47
青森県出身者の遺品など(第4展示室)
日露戦争の旅順攻撃で知られた猛将、一戸兵衛の展示もここにあった。
彼は第8師団とは関係ないが、津軽藩士の長男として生まれ、青森県人で唯一大将になった。
スキーの金具についてお互い子どものころのことを斎藤さんと話した。
14:51
国際貢献活動、災害派遣(東日本地震など)の展示室
齋藤さんも海外に派遣されたそうだ。
14:56
青森自衛隊のねぶたの展示室
ねぶたは1基2000万円くらいかかるそうだ。自衛隊では700万円位で押さえ、その費用もスポンサーを募り国費は使わないという。
14:58
青森自衛隊の歴代ねぶた一覧
昭和35年以来の題材と、デザイン者(ねぶた師)の系譜。
題材を見れば、三国志や戦国武将、川中島や桶狭間など合戦シーンも多い。
ねぶた師はふつうは2000万のうち400万円位もらうらしいが、自衛隊のねぶた師はもちろん無報酬。
慌ただしく外に出た。
最後にこの敷地は金沢から普通科第5連隊がくる前なんだったのか聞いたが、わからないという。すぐ近くに県営運動場、美術館、三内丸山遺跡があるくらいだから平地の林かせいぜい畑だったのかもしれない。
忙しくも楽しい見学だった。
黒石市出身の斎藤さんにはうんとお礼を言った。
15:28 アウガ青森駅に戻って来た。
アウガはショッピングモール、市役所駅前庁舎、市民図書館が入居する。青森市の建物はアウガの他、A-ファクトリー、アスパムなどAで始まるものが多い。
この日の夜のねぶた見物は途中で雨が降ってきたため、後藤伍長の自衛隊ねぶたが来るまで待てずに席をあとにした。
そこで翌日、各ねぶたが格納されているアスパムにそれを見に来た。
2025₋08₋07 12:02
タイトルは「八甲田雪中行軍 使命遂行 後藤房之助」である。
使命遂行というのは、神成大尉が後藤に、危急を知らせるために単身で麓に向かうことを命じ、仮死状態になっても見晴らしの良いところに立っていたことをいう。
なぜか後藤伍長が二人いる。戦っているのは睡魔と寒さだという。
実際はこんな勇ましい姿ではなく、戦っていたとしても夢の中であろう。二人いても不思議はない。
今年の自衛隊ねぶたうちわとバッジ
バッジは春夏秋冬の防衛館(2枚は人にあげた)と2025ねぶた記念バッジ5枚。
うちわの裏面がお祭りうちわとしては異例の、長文の説明になっていた。後藤房之助には青森県人にも馴染みがないと考えたか、あるいは語らずにはいられなかったか。
(続く)
20250814 三内丸山遺跡の村は1700年も続いた
20250812 秋田港の発電所と竿灯まつり
20250809 クルージング7、初めてのサウナ、ヨーヨー
20240628 香川8 善通寺の乃木館は旧11師団司令部
0 件のコメント:
コメントを投稿