10月1日、朝テレビを見ていたら、今日は都民の日です、都立公園などが無料になりますという。
2,3年に一度、こういうニュースを聞くが毎年どこにもいかなかった。
思いついたのは六義園。
歩いて15分くらいだからいつでも行けると思っていたが、この年齢になると死ぬまで行かないような気もする。
どうせ家でぶらぶらしているわけだからと、自転車で行ってみた。
レンガの重厚な塀が長く続く正門の前に駐輪するわけにいかない。隣の六義公園の自転車置き場へ。
9:16
「六義」は柳沢吉保がつくった庭園に対して付けた言葉である。この区立公園は六義園ゆかりの公園だから、六義公園ではなく六義園公園が正しいと思う。
1977年に都から文京区に移管された。
六義園の空気が伝わっていて普通の区立公園より落ち着いている。大和郷に隣接しているというのもあるかもしれない。
9:18
正門前に戻ってくるとバスガイドさんだけがいっぱい。
制服とマークからハトバスのようだ。
一人だけ年配の方がいて「ここは門が二つありますが、北の染井門は普段開いておらず、この門だけが開いています」と話し、残りの人はメモを取っている。新人研修だろうか。
9:18
4月のみどりの日と年2回の無料開放日なのに思ったより空いている。
平日で小雨模様だとこんなものか。
9:20
入ってすぐ、六義園の概略が記されている。
周知のごとく、5代将軍徳川綱吉の側近だった柳沢吉保が元禄15年(1702)ころ築庭し、明治後に三菱弥太郎の別邸となった。
順路の矢印に従って進むとすぐ、その歴史について展示パネルがあった。
9:20
江戸時代前期の地図
このあたり、今は山手線の内側でも昔は「畠」の文字があってあまり開けていない。
「イハツキ道」が切れる地図の右端に「土井スワウ」とある。六義園の南にあった古河7万石土井周防守の下屋敷である。つまり、六義園は地図に載っていない。
地図をよく見れば根津神社のところが甲府中納言(後述)とあり、根津神社が千駄木から現在地に移ったのが1706年と言われるからちょうど築庭のころの図であることが分かる。
9:22
柳沢文庫所蔵の屋敷図を初めて見た。
柳沢家下屋敷は、たいていの絵図では正方形に描かれる。しかしこれは南のほうに突出して長屋などが描いてある。城郭のように周囲を堀で囲まれていたのも初めて知った。
柳沢吉保についてはテレビドラマ元禄太平記などの記憶からか、生類憐みの令の5代綱吉の側用人で、地名では舘林、川越、甲府、大和郡山、といった単語が浮かぶが、詳しくは知らなかった。六義園に入ったついでに書いておく。
柳沢吉保(1659₋1714)は武田遺臣を祖に持つ柳沢安忠(1602₋1687)の長男(庶子)として生まれた。保忠は大坂夏の陣で活躍し、旗本であったが将軍家光の第4子徳松(後の徳川綱吉)付きを命じられ、徳松が上野国館林15万石に封じられると安忠も館林藩士(直参旗本ではない)となった。(もっとも綱吉は基本的に江戸在住であって家臣のほとんどは神田の御殿に詰めていた)
保忠の子・のちの柳沢吉保は
1664年、5歳にして綱吉(1646₋1709)に謁見。
1675年、家督を相続
1680年、綱吉が5代将軍となると直参幕臣となり、小納戸役。530石。
1683年、1030石
1688年(元禄元年)、1万2000石、大名となる。
1692年、武蔵川越、7万石の藩主、老中格
1695年(元禄8年)、駒込の旧加賀前田家の屋敷を拝領
1698年、大老格
1701年、将軍綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保となる。(それまでは
保明といった)
1702年、駒込拝領屋敷に庭園が完成。
1704年、綱吉の後継が甲府徳川家の綱豊(甲府中納言、のちの家宣)に決まると、綱豊の後任として祖先の地・甲斐に所領を与えられ、15万石となった。もっとも幕政などもあったから甲斐に行くことはなかった。
1709年、綱吉死去。吉保も隠居し、この駒込の地に住んだ。
1714年、死去、甲斐の恵林寺に葬られた。
嫡男・吉里は幕府の甲斐一国直轄化に伴い、1724年、大和郡山15万石に転封された。
9:23
この地は幕末まで柳沢家の下屋敷(別邸)であったが、明治11年、荒れていた屋敷(4万5千坪)を岩崎弥太郎が別邸として購入した。パネルによれば隣接する藤堂、前田、安藤家などの敷地を合わせて12万坪の土地を手に入れたという。(安藤家とは紀州田辺の大名(紀伊家付家老)のようだが、私が調べたところ幕末の絵図に屋敷はない)
三菱2代目の弥之助(弥太郎の弟)は荒れた庭園を明治19年以降、完成時の姿に復元した。しかし3代目久弥(弥太郎の長男)の代に、庭園部分2万6千坪だけを別邸として残し(幕末の柳沢家屋敷は正方形だが4万坪)、大部分を売却した。北は山手線敷設、本郷学園、西は大和郷住宅地、南は理研、東洋文庫などになった。
昭和13年、岩崎家から六義園が東京市に寄付された。
はとバスは皇居、東京タワー、浅草などが定番で、地味な六義園などは対象外と思っていたが、近年のインバウンド客に合わせて行き先の一つになったのかもしれない。
9:24
内庭大門をくぐると庭にはいる。
おそらくここらあたりまで岩崎家別邸の家屋があったのだろう。
門をくぐるとまた説明パネルがあった。
9:25
六義園は紀州・和歌の浦の景勝や、古今和歌集などに詠まれた名勝、中国古典の景観などを88景として再現したものらしい。これは初めて知った。
柳沢吉保は王朝文化にあこがれた文化人でもあり、作庭にも力が入った。
9:26
一見西洋庭園のように広々した芝生が広がり、禅宗の枯山水、室町時代の書院造りの庭とは違う。
前回来たのは約40年前の1986年5月。
前年に理科大から入社した中原美香さんが駒込・都立臨床研の山本一夫氏のもとで卒業研究をしたという。山本氏は私の薬学時代の同級生だから、一緒に訪ねることになった。
都立臨床研は美濃部時代の1976年に開所し、1999年財団法人化、2009年上北沢に移転するまで駒込病院の中にあった。(2011年、都立神経研、都立精神研と統合された)
あたりは1977年に暮らして懐かしい土地だからあちこち立ち寄ろうと思ったのだろう、早めに駒込駅に集合し、六義園に立ち寄った。
9:27
この場所である。
中原さんとここまで来ると、むかし流行ったミドリガメが歩道を歩いていた。
私が池に戻してあげようと拾って投げた。
ところが、小さくてしっかり掴めず、そっと握ったまま強く投げたが水面に届かなかった。カメは芝生に叩きつけられ、あー可哀そう、と彼女は言った。
この後ゆっくり園内を歩いて、たぶん時間的に、不忍通りの勤労福祉会館にあったレストランでランチをしてから、山本氏を訪問した気がする。
(このレストランはこの近辺で一番お洒落だったが、同じ建物内に介護センター若駒の里を開所したときだろうか、大改築が行われ、今レストランはなく、その場所は会議室になっている)
9:28
池の向こうに本郷通りのマンションが見える。
最後に来た40年前、あるいは暮らしていた約50年前は、こんなマンションがあったかどうか。
池を中心とした回遊式築山泉水の大名庭園である。
9:29
滝見茶屋
相変わらず人がいない。
無料だから来たというケチな人は私くらいかもしれない。
9:30
滝見茶屋と小さい滝
六義園は50年前から知っているが、この日まで六義の意味を知らなかった。
六義は、儒教の5徳・仁義礼智信のひとつ「義」を6つに細分化したというのではなかった。中国の詩の分類法、あるいは詩の体裁(詩の六義)をいうらしい。すなわち、賦、比、興、風、雅、頌である。つまり義は義理・義務の義ではなく意義の義であった。
武士道の7徳目にも「義」「忠義」が入っているが、それとは全く関係なく、元禄時代に生きた柳沢吉保の文人ぶりが分かる。
9:33
桜の老木。
十分丁寧に育てられていたはずだが、3年前に伐採した我が家の保護樹木より小さかった。
桜はこの大きさが限界なのだろうか。
桜のそばに吹上茶屋がある。
抹茶と上生菓子が1000円という看板が出ていた。ここでも英語表記が添えられていた。
(上生菓子というのは生菓子の中でもとくに四季の移り変わりや自然を美しく表現した手作りのものをいい、茶道などで出される。では生菓子であって上生菓子でないものは何か。どら焼きや草餅などか)
吹上茶屋では池を見ながら休めるだけでなく、箱に六義園の文字が入った人形焼きや瓦せんべいなどの土産も買える。
山のほうに登りかけたが、やっぱりやめたと元の道まで戻ったら、はとバス研修グループが追いついていた。彼女らは意外と足が早い。
9:36
相変わらずメモを取る新人たち。
企業の研修など、わざわざ混雑する無料開放日にしなくても良いかと思ったが、こんなに空いているなら関係ない。むしろ大人数の入場料が節約できる。もっとも20人なら6,000円だが。
引率する先輩社員の説明をなんとなく聞いていると「決して山のほうに行ってはいけません。足の悪い方もいらっしゃいます。池の周りのコースだけにしてください」
なるほど、園内最高点の藤代峠へ団体で行ったら大変だ。庭全部を満喫させてはいけない。
ちなみに藤代峠も吹上茶屋の前の吹上浜も紀州、和歌の浦付近にある地名である。
園内88か所の名所には石柱が建てられていたらしいが(現存32か所)、見逃した。
白鴎橋
救命具が置いてあるが、溺れるほど深くはなく、投げたら滑稽でさえある。お役所仕事か。
むこうに文京グリーンコートのオフィスビルが見えた。あそこもかつては岩崎家の土地だった。
9:40
渡月橋
渡月は和歌浦を歌った和歌から採っている。
注意書きのように雨のあとは滑って落ちる人がいるかもしれない。溺れることはないが、浅いから打撲のけがをするかも。
「まっすぐな橋ではありません」
どうしてこんなことを書くのだろう? 文京区公園課の上司はやめろと言わなかったのか?
呆れ果て、危うくフリガナが「とげつけう」というせっかくのこだわりも見落とすところだった。
こうして池を一周した。
1977年、大学3年のとき、ここから歩いて数分の本駒込5-37-4 二葉荘に住んでいた。
当時、六義園は無料だったから、何度か入った。夏はアパートが暑いから文庫本などもって涼みに来たが、蚊がいて長時間はいられなかった。
あるとき老紳士がいて昔話をしてくれた。
不忍通りの坂(たぶん神明坂)の上から下を見ると一面、田んぼだったというのである。当時の私は、それが戦前の話、彼の幼児の記憶のように受け取ったのだが、今思えば、彼の親や書物から得た知識を話された気がする。すでに団子坂下から南は江戸時代から人家が並んでいた。動坂下まで不忍通りができたのが明治43年(1910)、上野からの都電が開通したのが大正6年(1917)だが、彼が私より50年上の1906年生まれとしても、子供のころはすっかり宅地化されていたはずである。
彼は写真が趣味で、私がたまたま持って行ったカメラで21歳になったばかりの私を撮ってくれた。
1977年夏
サンダル履きである
むかし六義園に入ってから39年、48年経った。
私は老人になった。樹木も幼木が老木になるはずだが、庭はあまり変わっていない。
9:41
入ってから23分間の散歩、見学だった。
天気も怪しかったが、久しぶりに自転車に空気を入れて乗ったので、ついでに古河庭園も行ってみることにした。
9:48
本郷通りに出ると古河庭園は六義園から1230メートルと書いてある。
ふと前を見たらはとバスが止まっていた。運転手が一人座っていらした。
よく考えると彼女たちがあの制服で電車に乗ってくるのは恥ずかしい。このバスで来たのだろう。
9:50
六義園染井門
この日は都民の日だから特別に開いていた。丁寧に係の人も二人、暇そうに立っていらした。
つまり、私が住んでいた1977年はちょうど無料の時期で、中原さんと来た1986年は有料化されていたことになる。入場料は私が誘ったから私が払ったのだろう。
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20170811 駒込病院2 鷹匠屋敷、避病院を経て
20170822 1977年の長雨記録とピンクレディー
20171210 日本アイソトープ協会の研修と桜
20181007 本駒込図書館、勤労福祉会館の思い出
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